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 何故ここにいるのか、分からなかった。
 目覚めた時、幽谷は見知らぬ箱の中にいた。

 天井を押せばそれはいとも簡単に開いて、自分が今まで寝ていたの大きな衣装箱だということを知る。

 周囲を警戒しつつ箱を出れば、すぐ近くの寝台には一人の少女が眠っていた。
 幽谷は足音を立てぬように近付いて顔を覗き込んだ。

 物静かそうな娘だ。左目を眼帯で覆っているのが少々気になるが、可愛らしいという表現が当てはまりそうなかんばせをしている。
 顔色はとても悪い。もしや病なのではないかと思ってしまう程土気色だ。

――――ここは、一体何処なのだろうか。
 少女の眠るこの部屋は、どうやら宿屋のそれのようだ。だが、中で得られる情報は少ない。

 幽谷は少女に息があることを確認し、そのままにして窓から飛び降りた。
 そして、月に照らされた町並みに驚愕する。


「もしや……兌州?」


 何故、ここに?
 確か私は恒浪牙殿の白湯を飲んで激しい頭痛に襲われて――――。


 そうだ。


 あの地仙ならばここにいる理由が分かる筈だ。
 幽谷は周囲を見渡した。

 地仙はこの町にいるのか――――それは分からない。
 あの少女を起こして訊いてみれば早いかも知れないが、あの蒼白な顔の彼女を無理矢理に起こすのは気が引けた。

 冷たい静寂が横たわる町中を、幽谷は目を凝らして歩いた。

 曹操のもとへ行くと言った関羽の様子を見たいという思いも勿論あった。が、今彼女にはどうも会いづらい。

 一度だけ足を止めて城を振り返った。

 曹操に惹かれている関羽。
 今自分が会いに行けば、きっと関羽を曹操から引き離そうとするだろう。
 そうすれば、彼女の顰蹙(ひんしゅく)を買って、今度は拒絶されてしまうかも知れない。
 徐州で関羽に言われたことが、まだ尾を引いているのだ。関羽にそのつもりがないとは分かっているものの、いつか関羽に突き放されてしまうのではないかと、不安を感じてしまう。

 自分は関羽に従う形で彼女に依存している。
 あの満月の夜から、関羽の側に在ることで彼女と共に自我を確立させようとしていた。
 自分勝手な考え方で情けないが、関羽に拒絶されると考えた時とても恐ろしく、己そのものが崩れてしまうような気がした。自分が思うよりもずっと、彼女に依存していたのだ。

 気付いた時にはもう遅かった。
 こんなにも弱くなっていたなんて、本当に情けない。

 幽谷は嘆息を漏らして城に背を向けた。
 改めて恒浪牙を捜そうと歩き出す。



‡‡‡




 一人、彼は立っていた。
 何もかもを冷たく飲み込んでしまう暗闇の中、金の片目が爛々(らんらん)と煌めいていた。


 オオオオ

 オオオオ

 オオオオ


 これは風の声だろうか――――人の這いずるような呻きとも思えるそれを、彼は心地良さそうに耳を傾ける。
 そして、嗤(わら)うのだ。

 くっとつり上がった口角。薄く開いた唇から赤い舌が覗いた。


「見ーつけた」



‡‡‡




 恒浪牙の姿は何処にも見当たらなかった。
 まさか町の外にいるのでは――――そうでなければ良いのだが、町を出て捜した方が良さそうだ。
 幽谷は城門へと足を向けた。

 ……されど、その時、後方から騒々しい足音が聞こえたかと思うと、前方の家屋の影からも複数の兵士が現れた。


 曹操軍だ。


 幽谷は目を細めた。


「……これはどういうつもりですか」


 曹操殿。
 ゆっくりと振り返れば、そこには剣を携えた青年が。
 無表情の彼は片手を挙げて、前に倒した。

 刹那、兵士達が幽谷を取り押さえる。

 運悪く暗器の類を持ち合わせていなかった幽谷は、逆らうこと無く曹操を見据えたままその手に従って膝をついた。

 振り払おうと思えばいつでも振り払える。
 けれどもそうしないのは、偏(ひとえ)に曹操の幽谷を見る眼差しが妙だったからだ。

 何故か、以前と違う。
 まったき敵意――――否、嫉妬の情念が黒の双眸の奥で燃え上がっている。今まで彼が幽谷にこんな眼差しを向けてくるなど無かった。
 それなのに、今彼は私に嫉妬をしている……?

 どうして嫉妬しているのか分からないが、それが酷く気にかかった。


「……まさかこの兌州にいるとはな。道理で各地に放った間者が見つけられぬ訳だ」

「間者? 何故」

「犀華」


 覚えているだろうとでも言わんばかりにその名を出され、しかし幽谷は怪訝に眉根を寄せた。


「さいか? それは人名ですか?」

「とぼけるな。お前の姿でありながら、性格がまるで正反対であった女だ。お前が装ったのではないのか?」


 ……さっぱり分からない。


「何を仰っているのか、全く分からないのですが。装う……?」


 曹操に詳しく話して欲しいと言うと、彼は眉間に皺を寄せて剣の切っ先を幽谷の咽に突きつけた。


「牢に連れて行け。関羽にはこのことは絶対に話すな」

「はっ」


 兵士に引き上げられて立たされる。
 それから無理矢理歩かされる。

 幽谷は抵抗をしなかった。

 どうしてここにいるのか未だに分からず、恒浪牙を捜したいという気持ちは勿論あるが、曹操の様子も気にかかる。それに、『さいか』という人名のことも。

 どうせいつでも逃げようと思えば逃げられると思うから、一旦は曹操の様子を窺おう。

 関羽に害の及ばぬように――――。


「これで、関羽の――――は無くなる」

「え?」


 すれ違い様に聞こえた微かな呟き。
 思わず聞き返すと、


 ずぶり。


 肩に衝撃。


「なっ」


 肩だ。
 肩に剣が突き刺さっている。
 曹操の、剣だ。

 幽谷は曹操を睨んだ。


「……っ、何をなさるのですか?」

「……」


 曹操は答えない。
 剣を引き抜いて兵士を促す。

 幽谷は兵士に押され、曹操から離された。

 曹操……何を考えている?
 幽谷は肩越しに彼の後ろ姿を振り返る。

 されど、夜の闇に溶け込んだ彼を捉えることは出来なかった。



●○●

 補足。
 夢主はまだまともな思考が出来る状態にはありません。



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