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 関羽にとって、幽谷はそれ程に依存するものなのか。
 ああ、腹立たしい。
 関羽はここで猫族や幽谷の代わりになるものを探すと決めた。……いいや、決めさせた。

 曹操が幽谷や犀華の行方を捜すのは関羽の為ではない。単に彼女らの存在があまりに不可解すぎて脅威を感じる為だ。
 決して、自身の配下にした関羽の側に置かせる為に捜しているのではない。

 どうやら、彼女はそれを分かっていないらしい。
 曹操が幽谷を見つければ、彼女に会えるのだと、今度こそ徐州の方へ行ってくれるのだと思い込んでいる。
 そのようなこと、曹操が許そう筈もない。
 幽谷を使うことはしないが、彼女はこの城の牢に幽閉する。関羽に会わせるなど絶対に有り得ない。

 勿論殺すことも考えた。
 だが、幽谷は呂布にも匹敵する膂力(りょりょく)を持ち、なおかつ方術を扱える。おまけに水に浸せば傷を癒すことが出来るとくれば、この現状で彼女殺す為だけに兵力は失えない。
 それに、関羽がきっと幽谷を助けようと邪魔をするだろう。
 折角手に入れた関羽をまた幽谷の方へやってしまいたくはない。
 それは独占欲にも似た感情であった。

 彼は気付いているのだろうか――――分からない。

 幽谷の虎牢関での姿を思い出し、曹操は歯噛みした。
 あんなにも常人離れした実力持っていなければ、殺せたのに。

 幽谷も、幽谷である。
 関羽をあそこまで執着させなければ、彼女もまた武将として使えただろうに。
 関羽を捉えて放さないその点だけで、曹操の中で彼女の存在価値は無くなる。今は、ただただ邪魔なだけだ。

 自分の今ある力では殺せないことが、非常に忌々しい。

 曹操は舌打ちし、書簡をやや乱暴に取った。
 関羽が薬売りの娘を幽谷に似ているなどと言うものだから、どうも苛立って仕方がない。
 外はもう暗闇だ。ひんやりとした夜風が窓から入り込んでくる。

 書簡に目を通し始めた曹操はふと、廊下から慌ただしい足音が聞こえて目を細めた。


『曹操様!!』

「……入れ」


 袁紹に動きでもあったのか、やけに狼狽した風情の兵士を部屋に招き入れると、彼は拱手(きょうしゅ)し、曹操へ驚くべき情報をもたらした。

 曹操は目を剥いた。

 ……しかし、ふっと口角を弛め、つり上げるのだ。何とも、酷薄な笑みであった。


「そうか。分かった。では第二部隊を向かわせろ。……いや、確かめる為にも私も行こう」

「十三支の娘は連れて行きますか?」

「要らぬ。むしろ、あれは捕らえてしまうのだから関羽がいては邪魔になる。関羽には絶対に悟られるな。あれんは内密に動け。分かったな」

「はっ!」


 兵士は一瞬渋面を作ったものの、曹操の指示に従って部屋を出ていった。

 曹操はそんな兵士の様子には目もくれていない。
 一人嗤(わら)い、剣を手にする。


「まさか、この国にいたとはな。なるほど、確かに所在が掴めぬ訳だ」


 自国に間者を放つ理由など無いからな。
 暗くも嬉しげな彼の、まるで氷のような笑みは、窓の向こうの夜闇に向けられる。



‡‡‡




 声が、する。
 誰かと誰かが、会話をしている。



 どうして、邪魔をするのです? ――――様。

 それが彼の願いだからですよ。彼も、彼女も、あの子を不幸にしたくはないのです。×××もその地に至る前に人を産んだことがあるのなら、彼女の気持ちくらいは分かるでしょう。母親が、子を守りたいと思っただけだのですから。

 分かりません。そんなの、遠い昔の話です。忘れてしまいました。仮に覚えていたとしても、思い出したくもありません。

 ですがあの小さな子にはとても優しいですね。それは、どうしてですか? あなたは彼らを道具として作りり出すことに協力していたではありませんか。それなのに、どうして小さなあの子にはあんなにも優しいのですか。

 知りません。そんなこと、あなたには関係ありません。もう帰って下さい。私は、力を出し惜しみしてばかりのあなたが大嫌いです。もう、話したくなんてありません。

 そうですか。それは残念です。あの子についてご協力いただこうと思ったのですが、致し方ありません。あの子につきましては、こちらでどうにかしてみましょう。

 ですから、邪魔をしないで下さい。あの子だけが最後の砦なのです。彼女にしか、あのお方を止められません。

 随分と、勝手なのですね。×××さんは。だから私はこの地に至ることを嫌っているのですよ。あなた方のようになってしまいそうで、おぞましい。

 お帰り下さい。帰って。

 ええ。分かりました。帰ります。さようなら、×××さん。



――――誰の会話だろうか。
 どちらも聞いたことのある声だ。
 けれども、どうしても思い出せない。

 ここは、何処なのだろうか?
 彼女の問いに、答える者は誰もいない――――。



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