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 空が暗く沈んだ雲に覆われていく。
 ああ、もうすぐ雨が降る。

 砂嵐は山に薬草を採りに行ったっきり帰ってこない。
 迎えに行った方が良いかもしれない。通り雨だろうが、土砂降りだと大変だ。

 彼女の身体はずぶ濡れになってしまうと、まともに身動きが取れなくなってしまうのだ。それは器が完全な物でない故。こればかりはどんなに調整を繰り返しても仕方がない。まあ、全身がぐっしょりと濡れてしまわない限りそうはならないのは不幸中の幸いだが。

 さて、店仕舞いをして彼女を迎えに行かねばならない。
 恒浪牙は商品を麻袋に入れ始めた。

 すると不意に、


「店を畳むのか」

「え……? ああ、夏侯惇将軍でしたか」


 はて、と顔を上げれば夏侯惇が不思議そうに恒浪牙を見下ろしていた。しかし、ままに誰かを捜すように辺りを見渡している。恐らく砂嵐を捜しているのだろう。

 恒浪牙は拱手して「ええ」と頷いた。


「もうすぐ雨が降りそうですから、山に行った義妹を迎えに行かねばなりませぬので」

「……山に行っていたのか」


 道理で姿を見かけない訳だ。
 納得した風情の夏侯惇に苦笑を浮かべて首肯する。

 それから片付けを再会すると、折悪く客が来てしまった。恒浪牙の馴染みの客であった。
 応対しつつ困っていると、夏侯惇が腕を組んで思案して恒浪牙を呼んだ。


「あ、はい。何でしょう」

「俺が彼女を捜しに行く。お前はそのまま店をやっていると良い」


 恒浪牙はえっとなって夏侯惇を見上げた。


「おや、まあ。夏侯惇将軍も薬をご所望なのではありませんか? それに、義妹のことであなたのお手を煩わせるなど出来ませんよ」

「構わん。どうせ、大した用では無かった」


 恒浪牙は暫し悩んだ。
 だが、そうしている間にも客は訪れてしまう。
――――やむなく、彼は頭を下げるのだ。


「では、義妹のことを何卒(なにとぞ)よろしくお願い致します」

「ああ」


 夏侯惇の用があったのはもしかしたら砂嵐だったのかもしれない。
 先日彼に薬草を届けに行っていたようだから、その礼を言いに来たと考えられる。
 律儀なお方だなあ。
 そう思いながら、恒浪牙は夏侯惇の背中を見送り、すっと目を細めた。



‡‡‡




 大変。
 降り出した雨に砂嵐は手にした薬草を抱き込んで顔を歪めた。
 独特な臭いがあるからこれは通り雨だろう。

 強かに降り注ぐ雨粒に砂嵐は近くの木の下に避難した。
 されども、それでも枝葉の間からも雨は降り懸かってくる。


「何処か洞窟を捜さないと……このままじゃ濡れてしまうわ」


 濡れれば自分は動けなくなる。
 そう恒浪牙に言われていた。体質的なもので彼にもその確かな理由は分からないのだけれど、全身がずぶ濡れになると力が入らなくなってしまうのだ。
 故に、今は最悪の状況と言えた。

 砂嵐は嘆息を一つして木の下から抜けて走り出した。

 洞窟なんて、この山では見たことは無かったけれど、それでも探さなければこのままでは砂嵐は身動きが取れなくなってしまうのだ。
 砂嵐はしとどに降る雨で霞んだ視界の中、洞窟でなくとも雨宿りできる場所を探した。

 しかし、それは一向に見つかること無く、雨は砂嵐の身体を濡らしていく。
 身体が重くなっていくのは、服が水を吸っただけではないだろう。

 歩きながら、体温が急激に下がっていくような感覚に身震いした。自身の身体を抱き締めながら、彼女は近くの木の下に逃げ込む。


「……どうしよう」


 ……手が、足が、痺れたようになって、動かなくなっていく。
 初めての感覚に戸惑いつつも、その意識すら朧気になっていった。
 これがあるから、義兄は雨に濡れては駄目だと言っていたのだ。

 このまま雨が止んで、暫くは動けないだろう。
 どう、しましょう。
 その場に腰を下ろして砂嵐は木の幹にもたれ掛かった。

 すると、うつらうつらと、眠気に襲われる。
 抗いきれない睡魔に、砂嵐はゆっくりと瞼を下ろし始め――――騒々しい雨音の中に聞き慣れた声を聞いた。
 閉じかけた瞼を押し上げて首をもたげた。気怠い。


「あ……」


 霞んだ世界。
 その中からぼんやりと浮かび上がった姿――――。


「……あ、れ」


 はっきりとその姿が見えた時、砂嵐の中に浮かんだのはまず疑問だ。
 だって、その人物は色々と多忙な筈の人間だ。
 こんな場所に来れることは無いのだ。


「な……おい、大丈夫か!?」

「あの……えと、す……いませ、ん?」


 頬に手を添えられ、その手がびくりと震える。


「……体温が下がっている……! 何をしていたんだ、ここで!」


 何って、薬草を取りに来ていただけで、雨にずぶ濡れになったってだけで……。
 そう答えようとした口はしかし、動かない。

 気付けば、全身に力が全く入らない。


「……仕方がないか」


 嘆息混じりの声の後、ふわりとした浮遊感。

 身体の感覚が分からない砂嵐には、何があったのかも分からない。
 それに――――凄く眠たいのだ。

 もう、自然と瞼が降りていく。
 抗えない。
 ぼやけた視界で《彼》の顔を間近に認めた瞬間、意識が急激に遠退いていった。



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