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 その男に感じたのは猜疑(さいぎ)だった。
 夏侯惇は砂嵐と談笑する彼女の義兄を強く見据え、眉根を寄せた。

 夏侯惇とて、兌州の町だからと周囲への注意を怠りはしない。ここには、他国からの間者が紛れ込んでいる可能性があるのだ。勢いに乗る曹操について、他国の要人らは片鱗とは言えど彼の器を知っているからこそ、彼の動きに非常に敏感なのだ。

 だのに、今砂嵐の後ろに現れたこの男の気配を、夏侯惇は全く捉えることが出来なかったのだ。本当に、すっと現れたかのように、彼は二人に接近していた。

 そんなことを砂嵐が分かる筈もなく。彼女は揶揄してくる義兄に拗ねたように唇を尖らせている。
 夏侯惇は彼の所作に細心の注意を払った。砂嵐はそうでないようだが、この義兄が誰かからの刺客だということも十分考えられる。

 夏侯惇が義兄に対して警戒を強めているなどとは露知らず、砂嵐は慌てたように夏侯惇を振り返った。


「あ、あの!」


 ずんと迫られ、彼は戸惑うように一歩後退する。


「……! な、何だ」

「今から急いで店に戻ってもよろしいでしょうか!」

「は?」


 何故、と問いかけたところ、どうやら彼女の義兄――――恒浪牙は店をそのままにしてここにいるらしい。砂嵐に訊ねたいことがあったからだと言うが……筆を何処で買ったかなんて、そんな下らない疑問だった。
 店を放置しているだけならまだしも、金もそこに置いたままだと言うから、夏侯惇もさすがに呆れた。けども、それも演技なのかと勘ぐってしまう。

 怒り心頭の義妹の頭を撫でながら、恒浪牙は苦笑して夏侯惇に肩をすくめてみせる。

 夏侯惇は彼から目を逸らした。


「義兄さん! ほら、早く!!」

「はいはい。まったく、砂嵐は心配性だ」

「義兄さんのしたことを思えば誰でも不安になります! 折角貯まったお金なのに、これじゃあ今までの苦労が水の泡ではないですか!」

「そうなったら、また稼げば良いのさ。お金が去っていくのなら、私達に縁が無かったということだよ」

「……きっとそのうち、義兄さんはお金に嫌われてしまうと思います」


 鷹揚な恒浪牙に砂嵐ももう怒る気が失せてしまう。長々と溜息をついて肩を落とした。とにかく、早く戻ろうと彼の背中を押した。

 ……本当に、演技なのか分からなくなってしまった。
 何となく――――何となく、これが彼の素の姿のように思えてならなかった。
 そう思わせることが彼の意図であるならば、相当な人物である。
 夏侯惇は砂嵐に押されて歩き出した恒浪牙の背中を見、ぐにゃりと顔を歪めた。

 しかし、訝った砂嵐に呼ばれ、彼女らを追いかける。
 砂嵐は何事か問いかけてきたけれど、彼は何でもないとかぶりを振った。

 すると、彼女はすっと眦を下げる。


「すみません。私の義兄は、何処か抜けているところがあるみたいで……ですが、薬の腕は確かですので、どうかご安心下さい」

「あ、ああ……」


 別に、薬の腕については兵士達の評判を聞いているので疑ってはいない。
 夏侯惇が疑っているのは恒浪牙の挙動だ。

 されど、そのようなこと義妹の砂嵐には言えず、適当に頷いて答えた。

 彼女は、苦笑しながら頭を下げた。


「すみません、本当に」

「いや……」


 再び恒浪牙の背中を押し始める彼女を見、夏侯惇は小さく吐息を漏らした。

 そのまま何とか薬屋に到着すると、子供が代わりに店の見張りをしてくれていた。良く砂嵐と遊んでいる、この近くに住む女の子であるらしい。
 彼女曰く、金を盗ろうとしていた輩がいたから、追い払ってずっと見張っていたということだった。恒浪牙は小さな女の子に小言を言われ、なかなか苦笑が消えなかった。

 役目を果たして満足顔の少女は、明日砂嵐と遊ぶことを約束して家に帰っていった。


「さあて、営業を再開しようか。砂嵐」

「はい。……今度から気を付けて下さい」

「分かってるさ。さすがにこの年で小さな女の子に説教されるのって恥ずかしいものだね」

「義兄さんが悪いんです」


 座って薬を整理する恒浪牙に、砂嵐は両手を腰に当てて、むっと唇をへの字に曲げた。

 砂嵐からも説教を食らうとでも思ったか、恒浪牙は彼女が口を開く前に夏侯惇に数枚の紙を取り出して差し出した。


「夏侯惇将軍。これをどうぞ」

「これは?」

「兵士の方に渡そうと思って、仕事中に暇を見て書いていたんですよ。分かりやすく書いていますから、まずこの通りにやればまず間違えることは無いでしょう。よろしければ今日に限りますが傷薬の材料もお分け致します。砂嵐。これと、これの材料を……そうだな、三日分の量が作れる程渡してもらえるかい」


 売り物の薬を示しながら恒浪牙が言うと、砂嵐は即座に頷いた。仕事となると、切り替えが早いようだ。
 恒浪牙の後ろに置いてある荷物の中から麻袋を幾つか取り出して一つ一つ確かめるように中身を見ていく。砂嵐は薬に必要な物は把握しているようで、恒浪牙に確認すること無く、それらしい材料をまた荷物から取り出した真新しい布に包んでいった。分かり易いように、薬ごとにまとめてくれた。


「……はい。この紐で二重に締めてある物がその紙の……ちょっと、失礼致しますね」


 夏侯惇の手にした紙を見ようと砂嵐が間近で覗き込むのに、夏侯惇は声を詰まらせ僅かに仰け反った。彼は、女が苦手なのである。


「どうかなされましたか?」

「い、いや……どれだ?」


 平静を装って問う。
 恒浪牙が吹き出したが、見ないフリをした。


「ええと、こちらです。もう一つ、一重の物がその上の、これです」

「……分かった。城に帰って、早速作ってみよう」

「分からないことがあれば、いつでもお訊き下さいませ。いつもここで店をやっていますから」

「ああ、助かる」


 薬が己で作れるとは、本当にありがたいことだ。
 砂嵐や恒浪牙に礼を言えば、二人は口を揃えて「お客様ですから」と答えるのだ。柔和な笑顔も、同じだ。

 義理の兄妹なのに、彼らはよく似ている。



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