時は後漢末。
 魏、呉、蜀の萌芽さえなく群雄割拠する時代。

 大陸を二分するかのごとき大河、長江を中心に、一つの勢力が拡大し始める。
 長江の支流、漢水より名を取り、漢帝国と銘打った一大勢力は、広大な大地を我がものとするまでに膨れ上がった。

 しかし、戦乱の世を圧倒的な力で統一してきた王朝は、四百年経った今……その命数を使い果たそうとしていた。
 奸臣の専横に、宦官による腐敗政治。
 統一された世は、次第に乱れてゆく。
 そのしわ寄せは民衆たちに及んだ。
 彼らは、皇帝たちの贅沢な生活を支えるため、重税に苦しむ。
 土地を捨て流民となる者が荒野に溢れ返り、世に苦痛の呻きが響き渡る。

 その頃、各地で黄色の頭巾をかぶった黄巾賊と呼ばれる集団が反乱をはじめた。
 それは、次第に大きなうねりとなっていった。


それは中国大陸の覇権を争う
―――三国時代の幕開きだった―――




‡‡‡




 幽谷は森にいた。猫族の村からはだいぶ離れた森だ。
 そこで一人山菜摘みをしていた。

 いつもより、多く採れた。
 これならきっと関羽は喜んでくれるだろう。


「さて……そろそろ戻らなければね」


 そろそろ正午だ。
 正午からは張飛と鍛錬の約束がある。
 山菜が山積みになった籠を抱え直して幽谷は身体を反転させた。

 慣れた足取りで不安定な斜面を危なげ無く降りていく。

 しかし森から出た辺りで、森の茂みから彼女のもとに一頭の狼が駆けてきた。
 尻尾を振って足にすり寄ってきた狼に屈み込むと、顔を舐められた。

 幽谷は狼に笑いかけた。


「どうしたの? あなたがここまで出てくるなんて珍しいわね。いつもは追いかけても深くまでなのに」


 頭を撫でようとした彼女はしかし、狼が鳴いた瞬間表情を変える。すっと眉を顰(ひそ)めた。


「……何ですって」


 狼が何を伝えたのか、幽谷しか分からない。
 彼女は山菜を放り投げて駆け出した。全速力で風を切り、村へと急ぐ。

 狼はそれを見届け、森の中へと戻っていった。


「……急がなければ……皆様、どうかご無事で!」


 障害になる物は全て跳躍して越えた。
 真っ直ぐに村を目指した。

 暫くして村の家屋が見え始めると、その手前に集まる集団が在った。

 そこで幽谷は一旦止まり、ふと呼吸を浅くした。ゆら、ゆら、と足音を立てずに歩き出す。
 そうしながら懐から一枚の札を取り出した。何事か書かれたそれを口にくわえた。

 近付けば聞き覚えのある怒声が耳に届いた。


「んだと! 誰がガキだよ! テメーの方がチビじゃねーかよ!」


――――張飛様だわ。
 まさかあの数を相手に一人で?
 加勢しなければ!
 幽谷は札をくわえたまま走り出した。更に外套の下から小振りな形状の短刀――――古は暗殺によく用いられる匕首(ひしゅ)を取り出して逆手に持ち、上体を前に倒しながら神速以上の速さでもって集団を縫うように走り抜ける。


「この夏候惇を怒らせたこと、後悔するがいい!!」


 怒号の後張飛に憤然と斬りかかる一人の男。
 少し離れた場所には偃月刀を握り締めた関羽が不安そうに張飛を見つめていた。


「うりゃあ!」


 張飛は 指の付け根につけられた鉄で男の剣を受け止める。

 その隙に彼の背後に接近し、札を口から落として匕首を振り上げた。
 首筋を狙って振り下ろす!


「っ!?」


 男が幽谷の気配に気付いて右に飛び退いた。
 匕首は髪を裂くだけだった。


「何だ貴様!? いつの間に背後へ――――」


 彼を見やると、男は驚愕に目を見開く。目の端が裂けんばかりだ。
 彼が驚く理由は一つ。

 この色違いの両目だ。


「その目、四凶かっ!!」


 途端に周りがどよめく。

 集団の正体は人間の兵士達だった。
 人が来たことなんてただの一度も無いこんな山間に、何の為に現れたのか。

 片目を眇め幽谷は匕首を構えた。

 そんな彼女に、


「幽谷!!」


 関羽が駆け寄ってくる。

 幽谷は関羽を背中に庇った。


「関羽様、張飛様。何事ですか」

「人間がいきなり村にやってきたんだよ!」

「黄巾賊がわたし達の村に隠れてるなんて言い出して……」


 黄巾賊というのは、黄色の頭巾を付け漢帝国への反乱を起こす農民である。一年前幽谷がこの村に来た当時にも、彼らは各地で暴れていた。
 叛徒とは言え人間なのだから、猫族の村に入ってまで助かろうとはしないのではないだろうか。
 それに今までこの村に猫族以外の者がやってきたなんてことは無かった。


「……まさか十三支の村に四凶までいたとはな。これは、ますます怪しくなってきた」

「私達にしてみれば、あなた方の方が十分怪しいのですが」

「黙れ! 四凶如きが俺に口答えするな!!」

「口答えではなく、こちらから見た事実を申したまでです。事実は色んな角度から見なければ、見えてこないことが多々ございます故。一方的なものの見方は、何事に置いても大局等を見逃してしまいましょう」


 さらさらとした幽谷の態度に、男の額に青筋が浮いた。風で揺れる前髪の隙間から確認できた。
 勿論、幽谷に挑発しようなんて意図は全く無い。ただ思ったことを口にしただけだ。

 だが四凶という、人間に生まれながらに人間でない卑しい化け物という意識が根強く残っている上矜持の高そうな男からすれば、正論とも言える彼女の言葉は神経を逆撫でした。


「貴様ぁっ!!」


 男が幽谷に斬りかかる。

 幽谷はそれを受け止めた。加減をし、互角の力で鍔迫(つばぜ)り合いをする。

 それでも相手は驚いた。

 その隙を突いて横合いから張飛が男に殴りかかる。避けられた。


「く……っ!」

「何だ、口だけかよ」


 鼻を鳴らし、張飛は勝ち誇ったように笑む。

 劣勢の男に、兵士達が息巻いて加勢しだした。


「このぉ……っ! 夏候惇様に加勢しろー!」

「うおおおお!!」


 張飛に襲いかかった兵士は、幽谷の前に飛び出した関羽によって昏倒させられた。


「何だと!? 貴様ぁ! おおおおお!!」


 更に別の兵士。
 関羽に刃を向けた瞬間顔面を幽谷に殴られ鼻血を垂らしながら倒れた。


「十三支に四凶がぁ! 貴様ら、一度ならず二度までも手向かうか……!」


 憎々しげに唸る男――――否、夏候惇は兵士達に号令をかける。

 全員が応と答えた。


 が。


「止まれ!」


 鋭利な声がしたかと思えば、辺りは水を打ったようにしんと静まる。

 幽谷は匕首を構えたまま再び関羽を後ろに庇って、村から現れた一人の男を睨めつけた。



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