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 恒浪牙と砂嵐は兌州の主曹操の住む町を訪れた。
 交渉し、一月程の宿を取って商売をする為の準備に移った。

 砂嵐は店を出すのに何処か手頃な場所を探しに出たのだが、兌州に入る前にそれとなく教えていた猫耳の生えた人間――――猫族の娘とぶつかって足を挫いてしまったと足を引きずりながら戻ってきた。
 恒浪牙が見た時には、足首は赤く腫れ上がっていた。
 当然、恒浪牙は砂嵐をキツく叱った。


「まったく……、曲がり角では気を付けなくてはいけないだろう」

「ご、ごめんなさい……。でも、人が多くて、場所を探すのは難しかったんです。つい、横に目を凝らしていて……」


 恒浪牙は薬を塗って包帯を巻き付けると、砂嵐の額を小突いた。「仕方がない子だ」ぼやいて、道具を片付けた。

 それを手伝おうと手を伸ばせばまた怒られてしまう。


「暫くは安静にしなさい。治るまでは仕事は私一人でしていよう」

「ごめんなさい……」

「謝る代わりに、大人しくして、早く治しておくれ。看板娘がいないから、薬の売れ行きが不安だよ。私は、客受けがそんなに良くないからね」


 冗談混じりに言って、もう怒っていないと暗に告げる。

 それに、砂嵐は安堵した風情で口元を綻ばせた。

 恒浪牙は一つ頷いた。
 今日の準備は、もう終わっているからと、砂嵐の代わりに町を見てくると、動き回らないようにとキツく釘を刺して部屋を出て行った。扉が閉められ、足音が離れていく。

 足音が聞こえなくなると、砂嵐はたちまちに表情を陰らせた。


「迷惑を、かけてしまった」


 義兄だと言う恒浪牙のことを、自分は忘れてしまっている。事故だったとは言え、自分にとっても大事だっただろう存在を忘れてしまうなんて、本当に申し訳なかった。
 だから、早く思い出そうと自分なりに頑張っているし、それ以上の迷惑をかけないように日頃から心がけていたつもりだった。

 それなのに、こんな怪我をして大事な商品(くすり)を使ってしまった。
 良い場所を見つけてあげたかったのに。
 悄然(しょうぜん)と肩を落とす。


「……それに、あの子にも迷惑をかけてしまったし」


 急いでいたのであろう、あの猫族の可愛らしい少女。
 菓子を大事に抱えていたけれど、彼女こそ怪我は無かっただろうか。そして、菓子は無事だっただろうか。
 今度会うことがあれば、その時はちゃんとお詫びをしよう。
 この町に住んでいる子であれば良いのだが――――。

 粗末な寝台に座っていた砂嵐は、そのまま横になって目を閉じた。
 すると、次第に睡魔が意識を包み込むように、呑み込んでいく。
 そう言えば、私、昨日はちゃんと眠れていなかったっけ。

 睡魔に身を委ねるのは、さほど遅くはなかった。



‡‡‡




 手頃な場所を確保して宿に戻ると、砂嵐は健やかに眠っていた。

 恒浪牙は一瞬身構え、ほうと吐息を漏らす。
 砂嵐に歩み寄り、頬をそっと撫でた。さらりと、漆黒の髪が落ちてしまった。擽(くすぐ)ったかったようで砂嵐が身動いだ。起きる気配は無い。


「《作る》のは随分と久し振りだったけれど、何とか安定しているようだね」


 一部のみ移動させた記憶も良く馴染んでいるようだし。
 一時はどうなるかと思ったけれど、今は取り敢えず《あの時》のようにはならないだろう。
 だが、問題が別にある。

 恒浪牙は背後を振り返った。
 そこには、大きな黒い衣装箱がある。それは幻覚で隠しているから砂嵐の目には映らない。彼女が出かけていた間に、こっそり違う場所から移動させてきたのだった。

 それは、状態を維持する為に砂嵐の傍に置いておかなくてはならない。だが、絶対に彼女の目に映してはならぬ物でもある。

 面倒なことになってしまったと、しみじみ面倒に思う。
 やはり、人間不慣れなことはしない方が良いのだ。……ああ、自分は人間ではなかったんだった。正しくは《元》人間だ。


「……今のうちに、調整をしておいた方が良いかもしれないな」


 呟き、砂嵐の頬に当てていた手を離してこめかみに翳(かざ)した。
 すると淡い光が生じ、それはやがて砂嵐の顔から首、そして身体を包み込んでいく。
 砂嵐は未だ眠ったままだった。

 砂嵐の様子を一瞥した彼は、ふっと表情を消し去った。
 何事かを早口に呟いた。

 やがて――――砂嵐の身体を覆う光が突如として霧散する。それはまるで花弁のようにひらひら途中を舞い、寝台に、床に落ちる。

 刹那、砂嵐の身体の真上に円形の、不可思議な模様が浮かんだではないか。青い光を放つそれは右回りに動いている。
 中心には文字が浮かび、一際強い光を放っていた。
 文字を囲うように円状に並んだ奇形は、どれも解読不可能だ。
 しかし、恒浪牙はそれを探るように眺め、一つ頷く。


「異常は、無し、と」


 安堵したように漏らし、指を鳴らせばその模様は消えた。
 未だに昏々と眠る砂嵐に微笑みを浮かべて、衣装箱に腰掛けた。


「犀煉も、あの子には随分と入れ込んでいるようだ」


 分からなくもないけれど、ね。

 彼は、ちゃんと分かっている。
 彼女が《彼女》でないことを。
 その上で、やはり世話を焼いている。
 分かっていても割り切れないのだろう。だが、それが人の心というものだ。

 苦笑めいた微笑みを浮かべ、恒浪牙は衣装箱の蓋を撫でる――――。



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