「砂嵐、起きたかい?」


 朝日が眩しい。
 砂嵐は身を起こして恒浪牙を見やり、ふとこてんと首を傾げた。

 いつの間に、寝たのだろう。
 寝た覚えは無い。
 夜を迎えた覚えも無い。
 私はいつ、寝た?

 眉根を寄せる義妹に、恒浪牙は優しげな微笑みを浮かべてその頬を撫でた。


「急に走り出して、森の中で倒れているのだもの。驚いてしまったよ」

「急、に……?」


 どうして?
 小さく問いを漏らす砂嵐に恒浪牙はきょとんと瞬いた。


「覚えてないのかい?」

「……はい」


 戸惑いつつ首肯すれば、恒浪牙は顎に手を添えて考え込んだ。
 だが、考えても分からずに諦めてしまう。砂嵐が無事なら良い――――そう無理矢理解決してしまった。
 果たして、本当にそれで良いのだろうかと考えたのだけれど、恒浪牙が朗らかに「良いんだって」とこの話を終わりにする。

 それ以上砂嵐が食い下がらぬようにと、ここが何処で、自分達が今から何処に行くかを、彼は簡単に説明をした。
 仕方なく、自分が今まで何をしていたのかとは捨て置いて、砂嵐はその話に耳を傾けた。

 自分達は、今から兌州に入るそうだ。金も危うく、そろそろ何処かの街に滞在して路銀を稼がなければならない。ここから一番近いのは兌州だった。

 兌州……何か、引っかかるような気がする。
 けれど、その何かが掴めなくて。


「義兄さん……、その兌州は、私行ったことがあるのかしら」

「うん? 僕が覚えている限り、行ったことは無いよ」

「……そう、ですよね」


 兌州に行ったことは無い。
 なら、これは気の所為なんだ。
 そう。
 砂嵐は頷いて噛み締めるように繰り言のように恒浪牙の言葉を反芻(はんすう)した。

 なのに、どうも――――胸が重い。



‡‡‡




 幽谷の姿をした、犀華。
 彼女は幽谷とはまるで違う。けれど――――全く同じ。
 彼女の存在に驚き戸惑ったのは関羽だけではなかった。
 曹操や夏侯惇達もまた、彼女は本当に幽谷でないのかとあれこれと疑念を巡らせていた。

 彼女の変貌に警戒をより一層強めたらしい。兌州に戻ると、曹操は彼女を更に範囲を広げて捜索しだした。見つけた後、目の届く場所に置いておくつもりであるらしい。

 それが監禁という形だろうとは、関羽にも予想がついた。
 何とかして阻みたいが、彼女は関羽のことも分からない。関羽に制御出来ないのならば、このまま置いておくよりも監禁しておいた方が、彼にとっては安心できるのだ。

 見つかれば良い。
 曹操に捕まらなければ良い。
 どちらも本心だ。
 矛盾している。


「幽谷……」


 曹操にあてがわれた部屋の中、関羽は胸に手を当てて瞑目した。

 幽谷、あなたは一体何処に行ってしまったの……。
 犀華が全くの別人で、幽谷が幽谷であるなら良い。幽谷として猫族の側にいてくれているのなら――――。

 と、部屋の外で聞こえた兵士達の話し声に、はっと思考を中断した。


「――――と、こんなことをしている場合ではなかったんだわ」


 曹操にお茶を淹れてあげなくては!
 関羽は朝の鍛錬で、兵士からとても美味い茶葉を貰った。
 それを曹操に飲ませようと、今からそのお茶菓子になるものを買い出しに行こうとしていたのだ。急がなければ。

 武将として精鋭たる第三部隊を任された関羽は、日々彼らと共に鍛錬をする。
 鍛錬をしていれば、段々と兵士達と打ち解けられているかのような、そんな気がした。
 茶葉についても、その成果だと思うと、とても嬉しい。

 奇異なことではあるが、兵士達と仲良くなれると、自分に流れる人間の血も、強(あなが)ち嫌ではなくなってくる。

 好まれる流れでここに来た訳ではないが、ここでの日常も、さして嫌ではなかった。

 今、この状態にある関羽を幽谷が見た時、彼女はどう思うだろうか。


「早く買って、用意しなくちゃ」


 作ろうかとも考えたけれど、まだ人間達と上手く馴染めていないからと、やむなく買うことを選んだ。
 足早に城を抜けて――――門番にちゃんと事情を説明して通して貰った――――市井に飛び込めば、無遠慮に視線が集まってしまう。けども、それを気にせずに店に真っ直ぐ向かう。

 菓子屋の店主は勿論嫌な顔をした。けれども曹操が国に帰った際に兵士を率いているところをほとんどの民が見ている為か、彼は何も言わずに関羽が示した菓子を無愛想ながらに売ってくれた。それだけでもありがたい話だ。
 いつか町の人達とも――――なんて、夢の見過ぎかしら。


「ありがとう」

「……」


 礼を言っても早く帰れと言わんばかりに手を振る。
 関羽は笑顔で頭を下げて、小走りに元来た道を戻っていった。

 が、その道程にて、角から曲がってきた女性とぶつかってしまうのだ。


「きゃっ」

「あっ」


 互いに尻餅をつく。


「ご、ごめんなさい!」

「いえ、こちらこそ……」


 関羽がぶつかったのは長い黒髪の女性だった。片目を眼帯で覆い隠し、青い目が痛そうに細められている。
 彼女は足首を撫で、関羽に弱々しく笑いかけた。

 もしかして!


「い、今、足を……」

「ええ……あ、だけど大丈夫です。兄に薬を分けてもらいますから。急いでおられたのでしょう? 私のことならば、どうか気にしないで下さい」


 右足を庇いながら女性は立ち上がる。それを慌てて助ければ謝罪と共にお礼が帰ってきた。


「よければ家まで送っていくわ。私が悪いのだし……」

「良いんです。それに、ぶつかったのは、私にも非がありますから」


 女性は頭を下げて、きびすを返す。

 玉響であった。


「え……」


 関羽は目を丸くした。
 あれっと思った。
 今のはただの一礼だ。


 だのに……何故か幽谷を彷彿とさせる。


 ……相当、幽谷のことを心配しているのね、わたし。
 そこまで依存していたのかと思うと、自分が情けなくなってくる。
 自分自身に呆れつつ、関羽は足を引きずりながら歩いていく女性を、人混みに紛れて見えなくなるまでじっと見つめ続けた。転べば、即座に助けようと思った。

 されど、そんなことは無く。
 彼女の姿は、見えなくなった。



.

- 130 -


[*前] | [次#]

ページ:130/294

しおり