文醜が昏倒すると、兵士達は一様に慌て、彼の身体を数人で抱えて足早に撤退していった。

 それを見送った彼女が口を開いたまさにその瞬間、関羽は勢い良く抱きついた。
 疲労も身体の痛みも忘れた。
 ただ、ただ彼女に再会出来たことがとても嬉しくて、涙を滲ませてはしゃいだ。

 しかし、彼女は困惑し、関羽を剥がす。


「ちょっと待って! 落ち着きなさいよ!」

「幽谷?」


 きっと睨まれ、関羽は首を傾けた。そのかんばせは、次の彼女の科白に心共々凍り付いた。


「あなた、誰」

「え――――」


 誰って……分からないの?
 関羽は冷水を浴びせられたかのような心地だった。

 されど、この衝撃によって気持ちが落ち着いてくる。
 そう言えば、彼女はこんな口調だっただろうか。
 そう言えば、雰囲気だっただろうか。


「あの……、あなた、は」


 やっとのこと絞り出した声に、彼女は眉根を寄せた。
 ややあって、関羽の肩から手を離すと、後頭部を掻きながら嘆息する。


「あたしは、犀華。幽谷なんて名前じゃないし、あなたとも会ったことは無いわ。そんな顔しないでよ。これじゃまるであたしがあなたを虐めたみたいじゃない。折角助けてあげたのに、勝手に勘違いして、勝手に傷ついて……」


 五月蠅そうに関羽を睨みつける。

 関羽は即座に謝った。
 でも、やはり外見は幽谷そのものだ。瓜二つなんてものではない。服だって幽谷の物だし、本人に間違いないのに。

 まさか……犀煉が何かをしたの?
 犀華なんて、まるで犀家の暗殺者、しかも犀煉の血縁であるかのような名前だ。
 彼が幽谷に何かをして、こんな風になってしまったのだとしたら――――。


「……っと、ちょっと!」

「へ? あっ、はい!」


 耳元で苛立った呼びかけに裏返った声で返事をして、いつの間にか俯いていた顔を上げれば、犀華は不機嫌そうに唇を曲げて関羽を睨んでいた。
 関羽はまた謝罪する。


「……ご、ごめんなさい。わたしの友達が今行方不明で、あなたが凄くそっくりだったから、つい」


 ふうん、犀華は興味が無さそうに鼻を鳴らした。


「まあ、良いけど。そんなことよりも、あなたはここが何処だか分かる?」


 関羽が簡潔に答えると、犀華は考え込んだ。ぼそぼそと何かを呟いていたが、早口で聞き取れない。辛うじて、犀家、という単語が聞こえた。
 ふとぐぐっと眉間に皺が寄ると、長々と吐息を漏らした。

 それから倒れる兵士と腰を抜かして茫然と見上げてくる兵士に視線をやり、片目を細めた。


「その倒れてる方、早く手当しないと死ぬんじゃないの?」

「え、ええ……。兌州に戻らないと」


 座り込んでいる兵士に声を掛けると、彼ははっと我に返ってすぐに立ち上がった。多少よろめいてしまっていたが、倒れた兵士を助け起こして肩に腕を回させて立ち上がらせた。
 関羽もそれを手伝おうと駆け寄ると、その前に犀華が反対側を支えた。


「何処の軍なの」


 えっとなって足を止める関羽に、犀華は舌打ちした。


「あなたも疲れてるんでしょう? 送ってあげるって言ってるの。さっさと案内しなさいよ」

「あ、ああありがとう! ええと、こっちよ」

「ちょっ、怪我人を急がせるつもり!?」


 走り出すと、怒られてしまった。
 全然、違う。
 関羽の知る幽谷とは、まったき別人である。身体は、多分幽谷のものだろうに。

 じゃあ、幽谷の意識は一体何処に行ってしまったのだろうか。
 兵士をキツく叱咤する犀華を見やり、関羽は眦を下げた。



‡‡‡




 関羽の姿が、何処にも見えぬ。


「くそっ! 一体どこまで行ったというのだ!?」


 苛立たしげに漏らし、曹操は周囲を睨む。
 閑散とした大地に、それらしい姿は全く見えなかった。
 まだ遠くにいるのか――――更に進もうとした彼を、しかし背後からの声が呼び止める。


「曹操様お待ち下さい! ここはもうすでに敵国。これ以上、曹操様を行かせる訳にはいきません!」

「あいつも文醜の返り討ちにあったのかもしれません。もう諦めて帰りましょう」


 いいや、そんな筈はない。
 関羽は自分が認めた将。文醜を相手に勝らずとも、簡単に死ぬ器ではない。
 歯噛みした刹那、地平線に影が浮かんだ。

 はっと見やれば、それは徐々に近付き、形を判然とさせていく。

 関羽と、兵士であった。

 たまらず曹操は駆け出した。

 それを慌てて夏侯惇達も追いかけた。

 しかし、途中で彼らは足を止めるのだ。
 負傷した兵士を支える女性には見覚えがあった。というよりも、つい先日徐州の戦場で相見えたばかりの相手だ。

 関羽が自ら徐州に残し、そして犀煉にさらわれた。ここにいる筈などない。

 だのに――――。


「曹操……!」


 関羽に視線を戻すと、彼女は少しばかり安堵したように息を吐いた。

 すると、曹操の中から女のことが一瞬で弾き出されてしまう。視界からも兵士と共に消えて無くなった。
 ずかずかと関羽に歩み寄り、怒声を浴びせかけた。


「この馬鹿者が! 私が止めるのも聞かずに行きおって! 向こう見ずにも程がある! 犬死には誰も喜ばん! 蛮勇は罪だ! わかったか!」


 関羽は圧倒されたように鼻白んだ。小さく謝罪し、そっと女の背後に隠れてしまう。恐らくは、癖になってしまっているのだろう。
 視界に戻ってきた――――といっても一方的に追い出していたのだが――――彼女を睨みつけると、


「ちょっと、何であたしの後ろに隠れるのよ。あなたのところの大将なんでしょう? 怒られたくらいで何逃げてんの」


――――口調がまるで違っていた。
 曹操は瞠目し、彼女を凝視する。


「……幽谷?」


 今度は曹操が睨まれた。


「あなたもあたしを誰かと勘違いするの? もう、いい加減してよ。ほんっと迷惑……」


 うんざりしたように首を左右に振る幽谷。彼女は、こんな性格ではなかった。しかし、容姿は幽谷そのものだ。青い筈の瞳を隠した眼帯を取り去れば、確かなものとなる。

 肩越しに振り返れば、さしもの夏侯惇達もこれには困惑を隠しきれないようだ。どう声を掛けるべきか迷っている。


「……何よ。人のことじろじろと見て」

「眼帯を取れ」


 途端、彼女は血相を変えた。


「は……はあ!? そんなの出来る訳ないでしょう! あ、あたしは……目玉が無いから眼帯してんのに。それをほいほい他人に見せられると思うっ?」


 目玉が、無い?
 曹操の眉間に皺が寄った。
 眼帯を手で隠し曹操を睨む幽谷によく似た女性を見つめた。

 それは嘘ではないのか?
 いや、だが……彼女の表情を見るに僅かな怯えが見える辺り、あながち嘘とも思えない。
 とするならば、この女は、何だ?
 外見は幽谷そのもの。衣服や腕輪までそっくりな者がいるなど有り得ぬ。
 では、この感情的な性格はどう説明する?


――――犀煉か?


「……っああもう、ほんっと失礼な軍ね! 何処の誰だか知らないけど、初対面の人間に、そういう不躾なこと言うってどうなの!?」


 憤懣やるかたなしといった体の彼女は怒鳴り、兵士の腕を関羽の肩に無理矢理回すと、彼らにさっと背を向けた。

 そこでようやっと、夏侯惇が口を開く。


「お、おい! 何処へ行く!」

「何処だって良いじゃない。あたしとあなた達は初対面なんだから、詮索される覚えなんて無いわ」


 この人達を送るんじゃなかった。
 そう吐き捨て、女性は大股に歩き去っていく。

 関羽が咄嗟に手を伸ばすが、傷ついたように、眦を下げて降ろした。


「関羽、どういうことだ。あれは幽谷ではないのか」

「……わたしにもわからないわ。姿は、幽谷そのものなのに、性格がまるで別人で……」


 幽谷。
 そう漏らして、去りゆく女性の背中を振り返る。
 今一番混乱しているのは彼女だろう。そして、この事態に一番傷付いているのも、また。
 それ程に、関羽にとって幽谷の存在は大きいのだ。

 関羽の置き去りにされた子供のような顔に、曹操は知らず拳を握り締めた。



.

- 128 -


[*前] | [次#]

ページ:128/294

しおり