これは、非常に困ったことになってしまった。
 恒浪牙は一人頭を抱えた。

 まずい。
 非常にまずい。
 このままではきっと犀煉に怒られてしまう。

 けれど、どう言えば良い?
 何を言っても看破されてしまいそうな気がする。
 しかし、言わないで《あのこと》がバレてしまった方が恐ろしい。と言うか、……確実に息の根を止められる。
 森の中悶々とする彼の側には誰もいなかった。
 あの義妹の姿も無い。


「ああああぁぁぁ……! 彼女がまさかあんなことになっているなんて!」


 耐性が出来ているからと、術を強く、複雑にし過ぎたのかもしれない。過剰なそれは、彼女の意識の根底に眠る、《出てきてはいけないもの》を呼び覚ましてしまったのだ。
 今すぐにでも追いかけなくてはいけない。
 されど、彼女の度を越えた健脚に自分が追いつける筈もない。自分は武将でも何でもない、薬売りの地仙なのだ。山賊などから逃げる以外に走ったことなんて、ほぼ皆無に近い。

 彼女が何処に行ったのかも見当がつかない。犀煉に相談――――いや、殺されるから嫌だ。


「ああ……だから術を使いたくなかったんだ。久し振りすぎて感覚が鈍っているのに……」


 願わくば、彼女が犀煉と、《あの者達》に接触していないことを。
 恒浪牙は重い溜息をついて歩き出す。



‡‡‡




 ここは何処だ。

 記憶が酷く曖昧だった。
 目が覚めたら目の前には見知らぬ男がいて、自分を知らない名前で呼んだ。おまけに見慣れない服を着ているし、本当にもう、訳が分からなかった。

 すぐに逃げ出してやったけれど、ここは一体何処なんだろう。どの国にいるのかも分からない。
 ……いや、それ以前にどうして犀家にいなかったのか、分からないのだ。

 余程のことが無い限り、犀家の人間は、暗殺以外では犀家を出ることは無い。ここにいるということは、何か暗殺の仕事を得ているのだ。今まで自分には全く回ってこなかった筈なのに、どういう風の吹き回しなのだろうか。

 ……あの人が、当主に口利きしてくれた?
 いや、それは考えられない。
 あの人は厳格だ。自分の腕は全く信用してくれていない。自分に仕事を回してくれる筈がない。

 それじゃあ、どうして?

 幾ら考えても、幾ら記憶を手繰っても、分からない。
 いつ寝たかも分からないのに……。

 何がどうなっているのか……せめてそれをあの男に訊けば良かった。
 だが、もう彼からはだいぶ離れてしまった。今更戻れない。

 では、何処に行けば良い?
 ……分からない。
 ふと、彼女は立ち止まる。途方に暮れたように木に寄りかかって眦を下げた。

 こんな時、あの人がいてくれれば、良いのに。

 大切な人で、頼れる人。
 自分の唯一の心の拠り所――――。

 逢いたい。
 ぶわりと、想いが膨れ上がった。

 彼に逢いたい。
 逢って抱きつきたい。
 頭を撫でてもらいたい。
 そうしたら――――こんな不安も消えてしまうのに。

 この森に、自分は独りだ。右も左も分からない。過去も今も分からない。何をするべきなのかも、掴めない。

 あの人を求める心だけが、強まっていく。
――――このままじゃ、駄目だ。
 彼女は溜息をついて、木から離れた。

 取り敢えず、人を捜してこの国が何処なのか訊こう。それから何をするかを考えよう。
 大丈夫、もう良い年なんだから。十八になったんだから。自分のことくらい自分で出来る。
 自身にそう言い聞かせて、彼女は歩き出した。

 それでも、大切なその姿を捜さずにはいられない。

 もう末期だと、自分でも思う。
 そのような関係になってはいけないけれど、やっぱり自分はあの人のことを想っている。

 抱いていけない――――恋心。
 きっと彼は気付いていないから、隠し続けなければならない。
 頼ってはいけない。
 それは今まで何度も思ってきたことだ。何度も思って、結局破ってしまった何十回、否、何百回もの決意。

 今度こそ、頼らずに行こう。

 きっと、大丈夫。
 大丈夫だから。


「あたしは、もう一人前なんだから……!」


 彼女は胸に手を添えて、強く言い聞かせた。



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