幽谷は、今どうなっているのか。
 曹操軍に来てから、関羽は暇さえあればそのことを考えた。

 犀煉によって何処かに連れ去られた幽谷。
 一応、呂布のもとに行かれては困るからと、曹操も彼女の行方を探しているらしいが、未だに良い報告は聞かない。呂布のもとに行ってもいないようだ。
 犀煉は何を思って自分達の側に幽谷を置いてはおけないと、連れ去ったのだろう。
 幽谷に何を感じたのか。

 かつて彼は、幽谷を、自分達四凶を芥(ごみ)だと断じた。自分にとって幽谷は、芥以外の何物ではないと。
 だのに、彼女を心配しているようにも見えて。彼女のことを考えて行動しているように思えて。
 犀煉という四凶は、幽谷を本当はどうしたいのか皆目分からなかった。

 幽谷は、無事だろうか。

 自分のもとに戻ってきてくれたら――――。
 そう考えて、慌ててかぶりを振った。
 駄目だ。
 幽谷には猫族を守って欲しいと言った。
 わたしは、幽谷に甘えてばかりじゃ駄目だ。

 もう、今日はよそう。また明日考えてしまうかもしれないけれど、今だけは――――戦のことだけ考えなければ。
 関羽は瞑目し、一つ深呼吸した。

 関羽は曹操軍の第三部隊を束ねる将として、国境に向かっていた。
 第三部隊は精鋭の騎馬隊である。曹操から関羽に五百人の彼らを率いるように命が下ったのだ。
 当然ながら、部隊の兵士は全て、十三支の関羽に反発している。見放されたのだと士気を下げる者もちらほらと見受けられた。

 命令に従ってくれないかもしれない。
 けども、自分の失態で彼らを死なせることだけは、決してしてはならない。自分の両手には、五百人分の命が抱えられているも同然なのだ。一つとしてこぼしてはならぬ。
 関羽は先程までの思考を切り捨て、前方を見据えた。

 やがて、袁紹軍が見えてくると、兵士達を振り返って声を張り上げた。


「整列!」


 兵士達は無言だ。だが、一応号令には応えてくれている。

 彼らの命は、自分の判断次第。
 猫族とは違う。彼らはつい先日知り合ったばかりで戦力の程も把握出来ていないばかりか、自分を認めてくれてもいない。きっと、やりづらい。
 でも、それでも、彼らの命は落とさせやしない。
 堅い決意を胸に、関羽は少しばかり顎を引いた。

 その時である。


「おい見ろ! 曹操様だぞ!」


 兵士の驚いた声にえっとなって視線を巡らせれば、確かに彼の姿が。その後ろには夏侯惇と夏侯淵の姿も見られた。


「曹操!? どうしてここに?」

「今日はお前の初陣だ、その手腕、是非近くで見せてもらおうと思ってな。私たちも共に行かせてもらおう」


 関羽に歩み寄る三人の姿に、兵士達は打って変わって勇みだした。
 そんな彼らを一瞥し、曹操は関羽に問いかけた。


「して関羽よ、今回の戦い、どう展開するつもりだ」


 関羽ははっとして、つかの間思案する。


「……さっき、敵陣を見てきたんだけど、わたしは真正面から行こうと思うの」


 そう言うと、夏侯淵が鼻で笑った。


「兄者、やはり十三支に指揮は無理だ。この布陣で真正面はありえない」

「ああ、これは向こうの策略に嵌るな」


 この言葉も、関羽には予想出来ていた。
 大きく頷いて、言葉を続けた。


「昨日敵陣を見に行ったらその数は約千ほどだったわ。でも、今見えている正面の敵陣はどう見ても五百ちょっと。たぶん正面に見える向こうの陣は囮。敵はきっと左右に部隊を隠しているわ」


 夏侯惇達が言いたいのはこれだ。
 昨夜、敵陣を見てきて良かった。出なければこの策に気付けなかったかもしれない。


「だからわたしが真正面から突撃すれば、左右の部隊が出てくると思うの」


 その時、関羽の部隊は二つに分かれ、それぞれ右翼と左翼を旋回しつつ回り込む。
 攪乱した右翼、左翼に隠した残りの部隊で叩く。

 しかし、これには相応の腕と機動力を必要とした。

 おまけに片方を関羽が先頭を務めるものの、もう一つは率いる者がいない状態で動くこととなる。
 ここに幽谷がいれば――――。
 曹操達にそれを語りつつ、再び脳裏に幽谷の姿を思い浮かべてしまった。こんなにも、自分は彼女の武に頼り切っていたのかと思うと、少し情けなくなる。


「ならばその役、私が買って出よう。左翼は私に任せろ」

「え?」


 関羽は頓狂は声を出した。


「曹操様が出られるのですか!? それなら俺が行きます!」

「よい、面白そうな策だからな。乗ってみたいと思ったまでだ」


 夏侯惇を手で制した曹操は兵士達を見やる。


「聞いたな、第三部隊の兵たちよ! お前たちの新しい将は中々に面白い策を思いつく。しかし、この将はどうやら相当厳しいようだ。お前たちにとても高い能力を要求している」


 兵士達は、黙って曹操の言葉に聞き入っている。


「だが私はお前たちならやれると信じている。我が曹操軍、催促の騎馬部隊であるお前たちの力、見せてやるのだ!」


 直後、兵士達は鬨の声を上げた。
 団結した彼らは、士気も上がったようだ。曹操という武将の器を改めて見せつけられた。


「曹操、どうもありがとう。あなたのお陰で兵たちがひとつにまとまったわ。みんな言うことを聞いてくれなかったらどうしようと思っていたから……」

「安心するのはまだ早いぞ」


 曹操は即座に冷たく言葉を返した。


「兵は将の働きを見る。それによって従うかどうか決めるのだ。此度の初陣でお前の力を見せろ。そして兵たちの心を掴むのだ」


 強く、見据えられた。
 知らず、背筋が伸びる。


「……わかったわ」


 そこで、夏侯惇と夏侯淵が何かを話している。少々潜めた声であるから、聞き取りづらい。まあ、多分聞いたって教えてくれないのだから構わないか。
 彼らから目を逸らし、ふと言い忘れていたことがあったことを思い出す。


「あともうひとつ言っておかなければならないことがあるわ。さっき、敵陣を見てきたと言ったけれど、どうやら向こうの大将が文醜のようなの」


 すると、夏侯惇がぎょっと関羽を振り向く。


「何だと!? 袁紹軍二虎将軍の一人じゃないか!」

「ただの国境の小競り合いではないのか?」


 袁紹軍に視線をやって、曹操は目を細めた。


「どうやら袁紹は本気で我が国へ攻め入ろうとしているようだな。……今日私がここへ来たのも偶然という訳ではないということか。面白い。この戦い必ず勝利するのだ!」


 関羽は、大きく頷いた。



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