――――目覚めた時、頭の中は朧だった。
 眠る前に何をしていたのか、全く覚えていない。
 いや、それどころか自分が誰だったのかも記憶されていないのだ。

 彼女は首を傾げて己の身体に被さる外套を退かして立ち上がった。着慣れた感じのする衣服も、馴染みが無い。
 周囲を見渡してみても、自分について知れるような物は一切無かった。焚き火だけに照らされた洞穴の中、光に群がる蛾が少々うざったい。顔に近付くのを払い退けた。

 自分は誰なのだろう。
 どうしてここにいるんだろう。
 眠る前、何をしていたのだろう。
 分からずに眦を下げた。

 不安がこみ上げて胸を重くする。
 ここから出れば何か分かるかも知れないと思い直し、暗くなりかけた思考を戻した。

 そっと足を踏み出して、出口を目指して歩き出した。
 靴だけは新しい物のようでとても歩きづらかった。洞穴の中は凸凹(でこぼこ)としているし、すぐにでも足が痛くなってしまいそうだ。

 何度か転びそうになりながらも、ようやっと光が遠くに見えた。右への曲がり角になっているようだ。安堵したところ、不意に照らされた岩に一つの影が映り込む。

 人影だ。
 ぎょっと足を止めると、それは徐々に近付いてきた。
 片足を後ろに下げた。逃げた方が良いかも知れない。もしもこれが、自分に害意のある人間だったら――――。

 砂利を踏み締める耳障りの音が、近付いてくる。

 こめかみに冷や汗が伝った。
 どうしよう。逃げたって良いけれど、でもこの奥は行き止まりだ。逃げたってすぐに追い詰められてしまう。

 だからといってこの場で遭遇して良いのかと言えば、その方が危険だ。今の自分は丸腰なのだ。
 彼女はくるりときびすを返して駆け出した。その際小石を蹴ってしまい、転がる音が相手に聞こえてしまっただろう。ああ、見つかった。
 それでも遮二無二逃げた。自分が寝ていた場所に向かって走った。

 戻ると即座に焚き火から太い枝を引き抜いて向き直った。


 足音が、聞こえる――――。


「もし、砂嵐(しゃらん)。起きているのかい?」

「え……?」


 砂、嵐?
 砂嵐とは、誰?
 聞き慣れぬ人名に動揺して枝を下ろすと、先程の人影の主であろう人物が炎に照らされながらこちらに歩いてきた。

 とても柔らかな、優しそうな青年だ。自分よりも幾らか年上だろう。
 彼は彼女を見るなり安堵したように眦を下げた。


「良かった。気が付いていたのだね。人の気配がしたから、山賊の類がここに侵入してきたのかと思って、らしくなく狼狽してしまったよ」

「あ、の……あなたは、誰ですか?」

「へ?」


 間の抜けた声を発し、青年は目を丸くする。
 こちらに駆け寄ってきて顔をまじまじと見つめてくる。少しだけ怖くて一歩後退した。


「あの……すみません」

「……ううん。頭を強く打ってしまっていたしねえ。一時的に記憶喪失になっているのかも知れない」

「頭、を?」

「ああ、そうだよ」


 青年は鷹揚に首肯した。彼女の身体を気遣って座らせると、目の前に座してここにいた経緯を分かりやすく、ゆっくりと説明した。

 曰く。
 自分は砂嵐という名前で、恒浪牙と名乗る青年とは、同じ孤児同士で義兄妹であるという。行商人として旅をしている時、とある町で砂嵐の見てくれに兵士が斬りかかり、避けたところ足を滑らせて頭を強打したのだという。頭を打った状態で揺らすのは憚られたのだが、町の中に長居するのも避けるべきだと考えられた為に町の近くの洞穴に寝かせたのだそうだ。
 義兄妹でありながら忘れてしまうなんて――――砂嵐は申し訳なくなって俯いた。

 すると、恒浪牙は砂嵐の頭を優しく撫でるのだ。ちょっとたけ、後頭部がずきっと痛んだような気がした。


「気にすることは無いよ。多分、そのうち元に戻るだろうから。深刻には考えないで、今はここを離れよう。さっき町の人間に見つかってしまったから、兵士がここに来るかもしれない。……ああ、もしまだ気分が優れないのならば私が背負ってあげるから。君が眠っている間に傷はだいぶ良くなっているけれど、無理はしちゃいけないよ」

「大丈夫、です。ごめんなさい」

「気にすることは無いさ。兄妹なんだもの」


 柔和な笑顔に、全身から力が抜けるような気がした。


「敬語は無しだよ。兄妹だからね」

「は――――え、ええ」


 慌てて言い直すと、彼は苦笑を浮かべた。


「……まあ、記憶を失って混乱しているだろうから。ゆっくり、慣れていこうか」

「ご、ごめんなさい……」

「良いよ。それよりも、その手にある枝は下ろした方が良い」


 火傷をしてしまうよ。
 そう言われて手元を指差された直後だ。


「あっ!」


 火が弾けて顔にかかってしまった。反射的に枝を落としてしまう。
 火の粉が当たってしまった頬い手を当てた。火傷をしてしまっただろうか。少しばかり痛みがある。


「ここを出たら、川に行こうか」

「……はい」

「さあ、火はそのままにして良い。処理をする暇も、多分無いからね」


 恒浪牙はそこで、砂嵐に眼帯を差し出した。

 首を傾げると、左目を隠しなさいと。


「どうして、左目を?」

「私みたいに、周りが君に親しげになる訳ではないからね。君の見てくれは、ちょっと特殊なんだ。それについては歩きながら説明しよう」

「……分かりました」


 自分の見てくれ……そう言えば、さっきも見てくれで兵士に斬りかかられたと言っていた。
 そんなに酷い顔をしているのだろうか、私は。
 砂嵐は眼帯を左手に押し当て、後頭部で紐を結んだ。

 それを見て、恒浪牙はやおら頷いた。



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