幽谷が目覚めたのは暗い洞穴だった。たった一つ、小さな火に照らされた冷たい空間だ。
 のっそりと起き上がり、辺りを見回した。

 ……と、腹の鈍痛に呻いた。

 その痛みで、赤い瞳が脳裏に蘇る。

 ああ、そうだ。自分は犀煉に腹を殴られたのだ。そして気を失って――――ここに連れて来られたということか。
 洞穴の中に犀煉の姿は無かった。外に出ているのだろうか。
 ならば、今のうちに逃げてしまおう。そうして徐州に戻って関羽様の代わりに猫族の方々をお守りしなければ――――。

 そこで幽谷は暗闇を睨んだ。人の気配がしたのだ。誰かがこちらに近付いてくる。
 咄嗟に懐に手を伸ばし、自分が裸であることに気付いた。周囲を見渡しても衣服は見つからない。

 これでは、相手を威嚇することすら出来ないではないか。


「……ああ。起きたのですか」


 暗闇から現れたのは、青年だ。細目に柔和な笑みを浮かべた物腰柔らかな、青年。
 勿論会ったことなど無い……筈だ。
 でも、どうしてか、既視感を覚えてしまう。

 彼は困惑する幽谷に微笑みかけると、そっと側に腰を下ろした。外套のような物を肩に掛けて剥き出しの上半身を隠してやると、幽谷の手に白湯(さゆ)の入った椀を握らせた。


「お飲みなさい。少しばかり薬を入れてあるから苦いかもしれないけれど」

「……要りませぬ」

「まあ、そう言わずに。毒などではありませんよ」


 柔らかに促してくる。

 けれど幽谷は椀を青年へと押し返した。
 会ったことなど無い筈なのに、既視感を覚えてしまうのが、どうにも怪しい。
 幽谷は青年を睨みつけた。

 すると、青年は困ったように後頭部を掻いた。


「ううん……飲んでもらわないと、私が犀煉殿に怒られてしまうのだけど……どうしても嫌ですか?」

「あなたは、犀煉とどのような関係なのですか?」

「昔からの付き合いなんです。そうそう、犀煉殿が作った毒に対する解毒剤は、全て私が作らされているんですよ。私はただ薬の知識に長けているだけのその辺の旅人なんですけど」

「旅、人」


 ……いいや、そんな筈はないか。
 一瞬浮かんだ予想は即座に打ち消した。年月を考えれば有り得ない。
 首を横に振ると、青年はまた困ったように眦を下げた。

 青年の頼り無げな雰囲気に警戒心が薄れかけた。すぐに気を取り直したけれど。


「じゃあ、少し、私とお話ししましょう。といってもあなたのことになるんですがね。……いや、その前に私のことを話しておかねばなりませんか」


 青年は苦笑混じりに言って、最初に名乗った。
 彼は恒浪牙(こうろうが)と言った。生まれは冀州の山間部で、元々行商人として各地を転々としていたそうだ。
 そんな彼が、どうして自分の話をするのだろう。知らぬ関係である筈なのに――――。


「一応、私とあなたは遠い昔に会っているんですよ。あなたは全く覚えていないんですがね」

「……そうなのですか?」


 鷹揚に首肯する。


「そんな、一体いつ……」

「あなたがとても小さい時ですよ。私が、あなたを犀煉殿に預けたのです」

「――――」


 顎が落ちた。
 打ち消した予想が、かちりとはまるなんて。

 しかし、驚きよりも懐旧よりも、何よりも混乱が勝った。

 この青年、何処をどう見たって幽谷よりも少しばかり年上であるようにしか見えない相貌なのだ。この若さで幽谷より二十近くも離れているなんて、もはや化け物の領域ではないか。有り得ない。
 まじまじと探るように恒浪牙を見つめると、返ってきたのは苦笑だ。


「私、こう見えて地仙なんです」

「……は?」

「ですから、地仙。一応、不老不死の身体になっちゃってるんですよ、私。本当に薬の知識しか無い旅人でしかないんですが」


 自分の顔を指差し、そう語る。
 ……そんなさらりと暴露してしまって良いのだろうか。
 むしろ、信憑性に著しく欠ける気がするのだが。

 反応に困ってしまい、幽谷は唇を歪めた。

 仙人には天仙、地仙、尸解仙(しかいせん)と三つの位がある。
 天仙は肉体を持ったまま仙人となり、天に住む者。
 地仙とは天仙になる程の功徳を積んでいない地上に留まった仙人。
 尸解仙とは、肉体を捨て尸解術により仙人になった最下位の仙人である。

 その地仙が、今目の前にいるというのか。
 ……正直、信じたくはない。こんな鷹揚とした青年がそんな大それた存在だなんて。
 幽谷の半分に据わった目で悟ったのか、恒浪は顎を撫でた。


「そりゃあ、信じられないでしょうねえ。犀煉殿にもぶつくさ言われていますし。けれど、本当のことですから、信じてもらいたいんですけど。何なら胸を刺していただいても構いませんよ。私、普段から辟兵法(へきへいほう)を使用しているので、傷一つ付けられませんから」


 と言いつつ、懐から圏(けん)を取り出す。
 躊躇う素振りも無く、彼は己の手首に刃を当て、すっと引いた。

 果たして――――血は流れなかった。
 それどころか傷すら付いていないのだ。
 恒浪牙は首を傾け「ね?」と笑いかけてきた。


「まあ、これも道士や女冠でも能力あれば出来てしまうんですけどね。これで信じていただけたら嬉しいんですが、如何でしょう」

「……ええと、」


 やはり、まだ胡散臭い。
 彼が本当に母から自分を託され、犀家に入れた旅人だというのも、既視感だけではっきりと記憶に無いので半信半疑だ。彼の言葉を鵜呑みにするには、まだ警戒がある。
 幽谷が返答せずにいると、恒浪牙は眉をハの時にしてまた悩み出すのだ。


「どうしたら信用してくれるかなあ……」

「……すみません」

「謝るくらいなら、信じて下さいよ」

「そればかりは」


 恒浪牙は唇を尖らせて恨めしそうに幽谷を睨んでくる。

 信用出来ないものは仕方がないのに。
 幽谷は片眉を上げた。

 が、ふと恒浪牙が何かを思いついた。先程幽谷が押し返した椀をまた幽谷の手に握らせる。


「これを飲めば私が曲がりなりにも仙人だって分かりますよ。どうぞ」

「……信用出来ないのですが」

「騙されたと思ってお飲みなさいな。少量でも弱った精神に良く効くんですよ」


 信用出来ないから、飲まないのだ。
 そう言っているのに恒浪牙は彼女が飲むのを期待して待っている。この男の調子が本当に良く分からない。こちらの調子が狂ってしまいそうだ。

 顔を歪め幽谷は恒浪牙を見る。促された。
 ……飲むしか無いのか。
 嘆息を漏らし、ややあって意を決した。椀に口を付け、白湯をぐっと呷る。恒浪牙の言う通り、ほんの少しの苦みがあった。

 精神を落ち着ける薬なのだろうが、これで本当に効くのか――――。


「あ……っ!?」


 刹那であった。
 ぐらりと眩暈がしたかと思うと、頭を鈍器で殴られたかのような痛みに襲われた、
 思わず椀を放り投げた。頭を抱えて身体を倒した幽谷の背に、優しく触れ、撫でる手。


「な……っ何、を――――ぐああぁ!!」


 頭が割れる!
 何だ、この痛みは!
 ああ、割れてしまう、割れてしまう!
 幽谷は奥歯を噛み締めまるで唸るような呻きを漏らした。

 苦しむ彼女に、恒浪牙は優しく語りかけた。


「大丈夫です。痛いのはすぐに収まりますから」


 痛みが収まった時、あなたは別人になっちゃいますけど。
 間延びした声にぎょっと顔を上げる。しかしすぐに頭痛に俯いた。

 痛みは更に酷くなった。まるで――――骸骨を割られ、脳を手でぐちゃぐちゃにされているかのような……ああ、痛い!!

 痛い!
 痛い!
 痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛いいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたい!

 頭が割れる。本当に割れてしまう!

 関羽様、関羽様。
 誰でも良い、誰か、助けて。
 痛い。
 割れる。
 割れる。
 関羽様。
 関羽様。
 関羽様。
 かんうさま。
 かん、う、さま。



















 かんうとは、誰だ?



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