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 幽谷は腕を強く見据えた。
 腕は、それまでと違い、まるで幽谷を待っているかのようにじっとしている。

 近付けば殺されてしまうだろうことは容易に予想出来た。
 そして、また抵抗して逃れれば鱗は広がる。
 近付くのは危険だ。

――――では、どうやって消せば良い?

 考えろ。
 あれが痺れを切らす前に答えを出してこの腕を消さなければ。

 幽谷は柳葉飛刀を構えた。
 鱗は堅すぎる。
 では、その隙間を抉れば?
 剥がせば気も遠くなる激痛が襲う――――それも、あの腕も同じだとすれば、撃退出来るかも知れない。
 早く撃退しなければ、関羽が曹操の凶刃に倒れてしまう。
 幽谷は唇を舐めて腰を低くした。

 その隣に趙雲が立った。


「趙雲殿」

「無理はするな。あれには、近付かない方が良いんだろう?」

「そうですが……私がどうにかしなければなりません。それにいつまでもこの腕に時間をとられる訳には参りません」


 関羽のもとに早く馳せ参じたい。
 曹操に殺されていないか、もっと別の――――幽谷が厭う事態になっていないか、不安だった。
 その為にはこの腕を始末しなければ。

 物理的な攻撃が効かないのなら、方術で炎を出そう。


「このまま――――」

「その腕から離れろ!!」


 鋭い怒声に幽谷は身体を大きく震わせた。
 ぎょっとして振り向けば、犀煉が怒りと焦りを露わにした形相でこちらに走ってきていた。


「犀煉? どうし――――」


 彼は幽谷の腕を掴むと乱暴に後ろへと押しやった。
 地面に倒れる彼女に趙雲が駆け寄る。


「何をするんだ!」


 趙雲が怒鳴るが犀煉は背を向けて腕を睨めつける。


「煉……?」


 彼は右手を何かを描くように動かすと、それを腕に向けて掲げた。

 すると――――。


「あっ」


 腕が火に包まれた!
 それは嫌がるように暴れた。地面を殴り赤い液体を飛び散らせる。

 ああ、やはり火が効くのか。
 そう思いつつ、趙雲の手を借りて立ち上がった。赤い液体がかかりそうになって、趙雲が咄嗟に引き寄せる。

 悶える腕を見つめている内、幽谷ら己の右上腕に違和感を感じた。
 えっとなって押さえると、ややあって灼熱がそこに生まれた。
 焼ける……!


 腕が、焼ける!


 幽谷はその場に座り込んだ。右腕を押さえて苦痛に悶えた。


「幽谷!? どうしたんだ、幽谷!」

「あ、が、あぁぁぁ……っ!!」


 焼けていく。
 右腕が熱い。
 燃えているのはあの腕なのに。

 どうしてこんなにも熱いのだ!


「犀煉! これは一体……」

「今それを説明している暇は無い! 幽谷を連れてここから離れろ!!」


 がなるように言う犀煉に、趙雲は目を細めた。しかし、それ以上問いかけることは無かった。彼は幽谷を抱き上げて駆け出した。彼女をあの不気味な腕に近付けたままではいけないとは、彼も思ったからだ。
 犀煉に背を向けて疾駆した。

 犀煉はそれを肩越しに見送り、腕に向き直る。



‡‡‡




 暫く走っていると、強烈な熱さも、焼かれる痛みも徐々に収まっていった。


「……もう、良いです」


 趙雲を止まらせて地面に立った幽谷は呼吸を整えつつ右上腕を押さえ、鱗を確認する。ああ、やはり広がっている。布越しの感触だが、恐らくはもう肘辺りまで達している。ゾッとした。

 己の身に何が起こっているのか、皆目分からない。

 犀煉が知っているというのなら、これは四凶に関わることなのだろう。しかも、犀煉の言葉から察するに、鱗が生えるのは幽谷限定の変化だ。
 犀煉は、こういった現象について、幽谷よりも知っている。
 この戦が終わったら、聞かなければ。

 唇を引き結び、背後を振り返る。
 どれだけ走ったのだろう。犀煉とあの腕の姿も、刃を交える兵士達で見えなくなってしまった。あれだけの騒動があったというのに、戦はまだ続いている。曹操か、別の武将が支持を飛ばしたのだろう。その統率力はどの軍よりも優れているといって良い。

 戦がまだ終わらないのならば、関羽はまだ曹操のもとにいる。
――――戻らなければ。


「趙雲殿。先程は感謝致します。私は関羽様のもとに参ります」

「俺も行こうか?」

「いいえ。恐らくは、公孫賛軍にも混乱がありましょう。あなたがいなければなりません」


 趙雲に頭を下げ、幽谷は身を翻す。

 阻む者達は容赦なく斬り捨て、敵陣まで一直線に向かった。
 だが、先程の幻覚の所為で、未だ逃げ出す兵士もいるようだ。この戦が混沌と化しつつあったことを考えれば、無理もないことだ。
 だが、逃げ出す兵士が殺されるところを見るのは、正直キツい。殺さなくても良いのにと心の片隅で思ってしまう。

 もう、辺りは血臭しかしない。気分が悪くなりそうな程にむせかえる。
 勝てるか、勝てないか……分からない。
 あのような幻覚に乱されなければまだ勝機はあったのかも知れないが、今のこの状態では難しい。

 戦を終わらせる為にも、曹操を討ち取らなければ。


――――直後である。


 遠くで、鐘が鳴った。


「あれは……退却の合図!?」

「そんな、どうして今!!」


 これは、曹操軍の兵士か。
 愕然と陣の方角を見やる兵士達を一瞥し、幽谷は速度をぐんと上げた。

 関羽が曹操を討ち取ったのだろうか。
 ……そうであって欲しい。

 願わくば、それ以外でなければ、良い。

 ざわめきだした心中に顔を歪め、幽谷はひたすらに駆けた。



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