15
そこは、阿鼻叫喚の地獄絵図だった。
腐敗した狼の足に蹴り上げられ、牙に噛み千切られた四肢が散乱する。
悲鳴は容赦なく鼓膜を貫いた。
耳も目も塞ぎたいような有様だった。
兵士の全てが恐れを成して逃げ出し、敵も味方も無い状態だ。恐慌し腰を抜かした兵士が狼に武器を振るうが、簡単に避けられて餌食となる。
幽谷は逃げる兵士の間を縫って狼に近付いた。そうしながら、泉沈の姿を探した。
彼の姿は、付近には見当たらなかった。いないのだと安堵したいが、離れた場所から術を使っているのではないかと疑念がそれを許さない。
これは泉沈がしたのではないのだと心底から願い、幽谷は匕首を構えた。
跳躍し、鼻へ匕首を突き刺そうと振るう。
が、避けられた。
狼は幽谷に向かってぐわりとあぎとを開いた。
噛まれる!
避けようと頭を働かせた直後、腐ったような臭いと血のそれとが混ざったような異臭が鼻腔に入ってきた。
途端に吐き気を催し眩暈に襲われた。
その中で、何とか匕首を投げつける。それは舌に突き刺さり――――するりと通り抜けた。
「なっ!?」
驚愕。
刺さらない!?
幽谷を挟み込もうと狼が口が閉じる。
まさか、これは。
「幻覚――――」
直後、目の前から赤が消えた。
雲の浮かぶ空と、山並みが広がる。
消えた。
狼が、消えた。
あれは、幻覚だったのだ。あの臭いも、何かの細工だろう。
着地した幽谷はほうと吐息を漏らし、周囲を見渡した。
そこに噛み千切られた死体などは無く。
ただ、不可思議な程に赤い液体が大量に広がっているだけ。
幻覚であったのならば、血がこんなにも流れている筈はない。
では、この液体は、何だ――――。
ごぼり。
「え……?」
ごぼ、
ごぼ、
ごぼ、
ごぼり。
一面に広がった赤い液体が、脈打つかのように、所々が盛り上がった。
幽谷は一歩後退した。
「ひい!! なっ、何だこれは!?」
逃げ遅れたらしい兵士の一人が腰を抜かしずりずりと後退りして逃げようとする。
他の兵士も、新たな怪異を恐れて逃げ出している。
幽谷も一旦離れて様子を見ようときびすを返した。
けれども、直後に生ぬるい何かが足に巻き付いた。足が動かない。
見下ろせば、触手のようなものが蜷局(とぐろ)のように巻き付いている。どろどろと一部が滴って靴を、地面を赤く汚した。
それはあの赤い液体から伸びていた。未だごぼごぼと脈動のように数カ所が盛り上がっている。何度強く足を引いても凄まじい力にびくともしなかった。
これは、一体何なの……?
泉沈のしたことではない?
じゃあ、誰のしたことだというの?
「……っ」
何だというのだろう。
飛ヒョウで赤い触手を切り裂こうと屈み込む。
それを察知したか、直後に触手が強い力で足を引いた。
咄嗟に踏ん張れずにその場に尻餅をついた。
それだけでは済まない。
触手はまるで幽谷を赤い液体に浸そうとするかのように引き寄せていく。みしみしと触手の巻き付いた足首の骨が軋んだ。
引き込まれたらマズい――――漠然とした危機感に飛ヒョウを握り直す。
が、
「幽谷!」
呼ばれたと同時に触手が一刀両断された。
驚く間も無く手を掴まれて立ち
上がらされる。
抱き寄せられたかと思えば――――不意に右上腕が熱を持った。むず痒いような感覚に脂汗が浮かんだ。
動いて、いる。
――――いいや、違う。
多分、この感覚は。この痒さは。
鱗が生えてきている。
唐突に耳鳴りがした。けれど、それよりも何よりも右腕が気持ち悪い。
幽谷は右上腕を押さえた。布の下で何かが蠢いていた。
まさか……あの液体は。
眼前を覆い尽くす青を押しやって振り返ると、液体から何かが伸びてきた。
それは腕だった。
赤い液体から伸びているというのに、それは徐々に赤みを失って透き通っていく。その肌は、手に近付くにつれ虹色の鱗を帯びた。
ああ、あの腕だ。
どくりと心臓が跳ね上がった。
液体なら水でなくとも何でも良いのだろうか。
「幽谷!」
「っ、あ……」
肩を掴まれて揺さぶられる。
はっと右上腕から手を離して顔を上げると、背中に追いやられた。
「お前が前に言っていたのは、あの腕か?」
「……はい。けれどまさか、あのような液体から出てくるなんて」
「戦の最中にまで出てくるとは、迷惑な奴だな」
大剣を構え趙雲は腕を睨みつける。幽谷が口を開こうとすると、その前に近付くべきではないと制されてしまった。
「また進行してしまうぞ」
……いや、もう広がっている。
どのくらい広がってしまったのかまでは分からないが、確実に広がっている。
こればかりは今は言わないでいた方が良いだろうから何も言わずに幽谷は彼から離れた。
「しかし……斬れるのですか?」
「……分からない。やってみないことにはな」
絶対に腕には近付くなと言い聞かせ、彼は腕に斬りかかった。
腕は趙雲を避けようとはせずにただじっと構えている。
趙雲は裂帛(れっぱく)の気合いで大剣を振るう。
だが――――弾かれた。
「何……!?」
渾身の力で斬りかかったというのに、まるで金剛石のような強度だ。
趙雲は一旦距離を取って剣を構え直した。
「大丈夫ですか」
「……ああ。しかし、あれは簡単には斬れそうにない」
厳しい面持ちの彼を後ろから見つめ、幽谷は手にした飛ヒョウを腕へと投げつけた。
強固な鱗はそれを弾き、地面に落ちる。
「幽谷!」
「……」
趙雲を押し退けて前に立つ。強く腕を見据えた。
……恐ろしい。
けれどもこれは自分がどうにしかしなければ。自分が対峙しなければならない。
右上腕の鱗がこの腕の所為ならば、どうにかして消し去れないだろうか――――。
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