『わたしたち猫族は、かつて曹操の元におりました。まず、わたしが曹操の元へ向かい、和平を唱えてみます』


 和平を申し出るのは、確かにこの状況では得策と言えるのかもしれない。この圧倒的な兵力差では、望みあるなら戦いは避けるべきだ。よしや、徐州の民を無情に蹂躙した相手だったとしても。
 ……もっとも、彼が快く和平に応じるなんて、全く考えられないけれども。

 曹操のもとにいたからと、和平交渉には関羽が名乗り出た。勿論彼女には護衛として幽谷も同行する。張飛がついて行くと言い張ったが、幽谷がいるからと言い聞かせた。

 関羽は武器を世平に預けた。が、幽谷は事態が切迫した時にだけという条件で暗器の所持を許してもらっている。

 徐州を見下ろす曹操軍に向かって、途中まで馬、その先は大股に歩く。
 関羽を守るように幽谷が前を行った。

 曹操軍に近付いていくと、相手もこちらの姿をはっきりと見ることが出来る。
 勿論相手はこちらが和平交渉に来ているなどとは知らない。一斉に武器を向けられると共に、先陣に構えていた武将が二人――――夏侯惇と夏侯淵が、殺気と共にこちらに躍りかからん勢いで駆け出した。

 ――――されど、後ろに現れた影に止められる。

 幽谷は足を止めた。


「……曹操」

「え? ……あっ」

「こちらに来ます」


 夏侯惇達の制止の声が、風に乗って微かに聞こえる。
 しかし、彼は歩みを止めなかった。単身こちらに悠然と歩いてくるのだ。

 幽谷は顎を僅かに引き、前に出ようとした関羽を手で制した。

 曹操が、前に立つ。


「何故ここに来た? わざわざ死にに来たのか」

「あなたと話をするためよ」


 わたしはあなたを止めたい。
 はっきりと言う関羽に、曹操は口角を弛めた。小馬鹿にされている。


「一振りの刃すら持たず、どうやって私を止めるつもりだ? まさか私を説得しようと思っていた訳ではあるまい」

「話してみなければわからないわ……」

「正気か……?」


 曹操の秀麗なかんばせから笑みが消えた。眉を顰めて関羽を探るように見据えた。


「どこまでおめでたいんだ。ここまで呑気だと流石に笑えないぞ」


 それから、ぽつりと漏らすのだ。まったく笑えないと。
 そして、すらりと引き抜かれた鋭利な剣。

 関羽が息を呑んだ。

 幽谷は咄嗟に関羽を下がらせて身構えた。暗器はまだ持たない。


「下らぬおしゃべりはここまでだ。武器の一つも持たず敵陣にのこのこやって来た、己の軽率さを恨むのだな」

「曹操! あなたの目的は一体何なの!?」


 たまらず、関羽が声を張り上げた。


「あなたはどこまで望むの? どこまで手に入れればあなたは満足するの?」


 すべてだ。
 曹操はにべもなく答えた。

 ……何故だろうか。


「私はすべてを望む。この大陸のすべてだ。大地も、人も、金も、文化さえも、すべて私の物としてみせる」


 何かが、おかしいのだ。
 何処か――――。


「私は私が望む物をすべて手に入れる。そして私を拒絶する物はすべて排除する。関羽、お前もだ」

「……あなたは」


 静かに語る彼を見つめ幽谷は目を細めた。


「あなたは、本当にそれを望んでいるのですか?」


 彼の言葉が、何故かこの時だけ酷く空虚に聞こえるのだ。
 己の望む物をすべて手に入れる。拒絶するならすべて排除する。それが、関羽ですら。
 何処がどう空虚なのかは分からない。
 けれど、何処かに実が無い気がする。何処かがいやに引っかかる。
 気の所為なのだろうか?

 幽谷の問いに、曹操はさも当然だと言わんばかりに頷くのだ。だが、彼女はそれでも釈然としない。


「関羽。お前を殺すのは実に惜しいが、私を拒み、私の物にならぬのならお前を生かしておく必要はない」


 幽谷は外套の下に手を伸ばした。匕首を、持つ。


「関羽様。戻って下さい。ここは私が」

「……幽谷。私にも匕首を貸して」

「は?」


 何を言い出すのかと関羽を振り返ると、彼女は曹操を強く見据えていた。その黒の双眸にはくっきりとした闘争の意志が感じられた。逃げるのでなく、抗うつもりでいるのだ。

 幽谷は小さく頷いて外套の下から刃が柳の葉のような――――柳葉飛刀を取り出して匕首を関羽に手渡した。


「無理はなさらず」

「幽谷も」


 曹操を睨みつけると、彼はふっと笑って徐(おもむろ)に――――剣を下ろした。


「無様に命乞いでもしようものならその場で斬り捨ててやろうと思ったが」


 ……つまりは自分達を試した、と?
 匕首を下ろす関羽とは違い、幽谷は腰を低くした。

 されど、


「明朝、我らは下邱を攻め落とす」

「明朝……!」

「私を止めるというのであれば言葉ではなく力で止めて見せろ。お前の命、それまでとっておいてやる」


 関羽は幽谷の肩を叩いて大きく頷いた。
 それに従い武器を下ろし、外套に戻した。


「私は絶対にあなたを止めてみせる!」

「我が軍十万に対してどう戦うつもりだ? ……ああ、虎牢関のように、幽谷が一人で蹂躙すれば、さすがに危うかろうな」


 どくり。
 曹操の言葉に記憶が蘇る虎牢関での殺戮。確かに、ああすれば彼らを退けることが出来そうだ。
 そんな考えを遮るかのように関羽が幽谷の手の握り締めた。

 彼女を見やれば曹操を見据えて、


「そんなことはさせないわ。幽谷は望んでいないもの」

「ならば、この圧倒的な兵力差の前では何も出来ようもない」


 ……しかし。
 曹操はそこで沈黙した。何かを思案するように目を伏せた。
 ややあって、


「万が一それでもお前が勝つようなことがあれば。お前がそんな圧倒的不利な状況でも覆せるような将ならば……」


 呟くように漏れた言葉の続きは、無かった。
 彼はくるりときびすを返して陣へと戻っていく。


 曹操は和平には応じなかった。



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