陶謙は、重々しい嘆息を漏らした。
 この下邱から目と鼻の先――――曹操軍は猛進を続けているだろう。
 未だ、援軍は無い。
 これはやはり、天は徐州を、否、陶謙を見放したもうたのだ。


「何故です!? 何故!? 何故誰もこの徐州に援軍を送ってくれないのです! この徐州を、何故見殺しに……」


 悲痛に顔を歪め、憎らしげに呻く糜竺に、陶謙は穏やかな声をかけ宥める。


「そうではない、そうではないのじゃ。糜竺よ。誰もが、曹操を恐れておる。徐州の次は自分の国が狙われるのではないかと危惧することじゃろう。そんな状況で、援軍に兵を割けるはずもなかろう」


 もし、もし。
 己が逆の立場ならば、きっと彼らのように憂慮するのみで援軍を出そうとはしないだろう。自分とて、自分の身、自分の民が可愛いのだ。所詮、刺史も一人の人間なのだった。
 それを思えば、どうして諸侯を責められようか。
 悲しげに語る彼に、糜竺は声を震わせる。痛ましげに目を伏せ、俯いた。

 その時である。


「陶謙様! 糜竺様! 大変です!」


 慌てた風情の兵士が転がり込んでくる。


「ついに、曹操軍が来たか」


 絶望滲む糜竺の言葉に、兵士は否と答えた。


「援軍です! 北平より援軍が到着いたしました!」


 予想を上回る兵士の返答に、二人は顎を落とした。
 援軍? 聞き間違いではなかろうか。
 公孫賛が義に篤い人物だとは知っている。けれど、でも。

 まさか、こんな勝機すら無い窮地の国に援軍を送ってくれるなんて!


「この徐州に、援軍を送ってくださったか……」


 陶謙は感じ入ったように声を震わせた。


「只今、下邱の門前で待たせております。いかがなさいますか?」

「何と無礼なことを。この徐州を助けるために来てくれた大切な援軍を町の外で待たせるとは! すぐに下邱の町へと招き入れ、手厚くもてなすのだ!」


 糜竺が叱咤すれば、兵士は言いにくそうに唇を歪めた。


「それが、実は混じっていまして。それでどうしたものか……」

「混じっている? 一体何が?」


 訝る糜竺に、しかし陶謙は逸り会話を止めた。


「細かなことはよい、こうしてはおられん。出迎えに向かわねば。行くぞ、糜竺」

「はい、陶謙様!」


 沸き立つ喜びが抑えられぬといった風情の陶謙に、糜竺も大きく頷いた。

 そんな二人に、兵士は苦虫を噛み潰したような顔をするのだった。



‡‡‡




 徐州に到着したまでは良かった。

 だが、援軍に猫族と四凶がいると知った兵士はがらりと態度を変えたのだ。そして、門前に待たせて刺史のもとに行ってしまった。


「えー、つーか何で門前に待たされなきゃなんねーの? わざわざ来てやったのによー」


 とうとう痺れを切らした張飛が拳を固めて堅牢に閉められた門に近付こうとする。が、すぐに関羽と世平が咎めた。


「まぁ張飛の気持ちもわかるけどね」

「蘇双、お前まで何言ってるんだ」


 蘇双の隣で、関定が声を荒げた。


「だって見たろ? 最初は援軍だーって大喜びしてたのに、近づいてオレらの耳に気付いた時のあいつらの顔」

「趙雲が話をしてくれたからいいものの、そうじゃなかったら追い返されそうな雰囲気だったじゃねーかよ。……それに、幽谷を見た瞬間不吉だって、負けるのかって勝手なこと言いやがって……!」

「私のことは、お気になさらず」

「幽谷も、怒って良いと思うけど」

「慣れておりますので」


 そう、自分のことであれば慣れているから気にはならない。
 だが、これ以上猫族が酷い扱いを受けるのは許し難かった。

 関羽の願いを受け、徐州を助けるつもりではあるが彼らの出方次第では幽州に帰らせようか……。


「不思議だな。どうして人はこの猫の耳をそこまで忌避するんだろうか?」


 俺はむしろ可愛いと思うんだがな。
 趙雲の言葉に、幽谷は彼を流し目に冷たく見る。


「え、可愛いって……」

「だから、そう言うの止めろって! この天然女たらしめ! 姉貴もいちいち動揺しない!」

「し、してないわよ」

「……皆様。もう少し大人しくなさって下さい。人前ですよ」


 城壁の上には、こちらを――――猫族と四凶の動向を監視する兵士の姿がある。援軍に来たというのに、要らぬとでも言われそうだ。
 幽谷が見上げて声をかけると、関羽も兵士の目に気が付いて慌てた。


「とにかく、待ちましょ。今徐州は大変なんだし、猫族の力だって必要としているはずよ」

「猫の手も借りたいという奴だな」

「果たしてそうでしょうか」


 猫族に助けられるくらいなら、死んだ方がまし――――そう考える人間の方が多いのではなかろうか。
 兵士を見上げたまま目を細めると、不意に門が軋みを上げた。


「あ、門が開いたぞ!」


 門が開くと、そこから文官と、恐らくは刺史であろう老人が現れた。
 文官は最初こそ朗らかにしていたが、猫族に気が付くと愕然とした。疲労のありありと浮かんだ顔がさっと、青ざめ一歩後退する。


「じゅ、十三支!? 何故こんな卑しい者たちが……」


 予想通りの言葉に、幽谷は嘆息する。やはり、彼らは猫族や四凶の手を借りることは、拒むか。
 幽谷が関羽に声をかけようとした直後――――、


「だあああああ、もう嫌だ! 嫌ったら嫌だぞ! チクショー!」


 耐えかねたように、張飛が叫んだ。



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