「あ〜あ、やっぱり行くのか。ヤダな、戦なんて」


 関定がぼやいた瞬間、世平が拳骨を落とした。


「いつまでも不平を言うな。猫族の質が疑われるぞ」


 「分かってるって」痛む頭を撫でながら、関定は吐息を漏らす。


「ただちょっと言ってみただけだよ。なのにいきなりゲンコツなんだもんな」


 今、猫族は趙雲の率いる二千の兵士と共に、窮地に立たされた徐州を救うべく下邱に向かっている。

 幽谷は関羽の横につき、周囲を警戒しながら、二人の会話を聞いていた。

 だが、関定が漏らすのも無理もないと幽谷は思う。
 まだ一年だ。猫族が平穏を取り戻してからまだたったの一年しか経っていないのだ。それなのに今、今までよりもずっと危険な戦地に赴いている。
 関定以外にも不平や不安を抱える者はいる筈だ。

 やはり、自分一人で徐州に向かった方が良かったのではないか、今でもそう考えてしまう。
 こっそりと吐息を漏らした。

 すると不意に、


「失礼する」


 足早に趙雲がやってきた。後ろに、誰かいるようだ。


「趙雲、どうしたの?」

「実は、俺の騎馬隊の荷物に劉備殿が紛れていたんだ」


 とんでも無いことを言いながら、彼は後ろにいた者を前に出す。
 いない筈の人物に皆仰天した。

 彼は――――劉備は関羽に勢い良く抱きつく。


「劉備!? どうして!?」

「ぼく、お留守番は嫌。お願いだから一緒に連れてって」


 関羽は劉備を剥がし、屈み込んで目線を合わせた。危険だからと諭すが、劉備は食い下がる。不安で金の瞳が揺れていた。

 まさか、泉沈もついてきたのではないかと周囲を見渡すが、それらしき姿は何処にも見あたらない。ほっと胸を撫で下ろす。
 彼も危険だという理由で蒼野に残してきたのだ。無論ついて来て人間を殺す気満々だったので説得するのにはかなり苦労したが……何とか折れてくれた。蒼野で大人しくしているようにとの約束を守ってくれるかは分からないが、そればかりはもう祈るしか無い。


「姉貴、仕方がないんじゃないか? どのみち今からじゃ引き返せねーしよ」

「劉備様は、俺たちでしっかりとお守りしよう。それに、劉備様が一緒ならば心強いしな。やはり我ら猫族には劉備様がおられないと」


 関羽は渋る。

 なかなか許してくれない彼女に、劉備は必死に言葉を重ねた。どうしても。一緒に行きたいのだ。危険なのは彼も承知の上。


「お願い、関羽。関羽がもう帰ってこないって言われて、すごく怖いの。ぼく、いい子にしてるから。絶対にみんなの邪魔をしないから。だからお願い!」


 大方、泉沈がからかったのだろう。とは思いつつ、これが彼の占いの結果でないことを願いたいものだ。


「……どうしよう、幽谷」


 縋るように見上げられ、幽谷も渋面を作る。

 彼の為を考えるならば、徐州に連れて行かない方が良い。
 けれども、必死の体(てい)で訴える彼の願いを無碍にも出来ない。彼は偏(ひとえ)に関羽の心配をしているのだ。その上で、危険を冒そうとしてでも一緒に行きたがっている。
 とてもじゃないが、強引には帰せない。

 それを言えば、関羽はようやっと諦めたように吐息を漏らした。


「分かったわ。絶対にいい子にしているのよ」


 関羽が了承すると、劉備は安心したようにとろけるような笑みを浮かべて、礼を言った。


「趙雲ごめんなさい。迷惑をかけてしまって」

「何、大したことではない。では失礼する」


 趙雲は一礼すると、足早に騎馬隊の方へと戻っていく。

 それを見届けて幽谷はまた周囲を見渡す。
 と、ふと左手が握られた。

 視線を落とせば、劉備だ。一緒に行けることが余程嬉しいようで、頬を赤く染めてとろけるような笑みを浮かべている。

 彼の笑顔に、肩から力が抜けた。その時になって、自分がいやに身体を強ばらせていたことに気が付く。
 曹操に関羽を会わせないように、彼に何もさせないようにと、知らず息んでいたようだ。

 下邱に近付いていくと、曹操の足跡が手に取るように分かった。

 烏が群を成し、転がる亡骸をつついて回る。腐臭も凄まじい。
 無惨――――その言葉では形容しきれぬ、あまりに惨(むご)い光景がそこには広がっていた。


「こ、こいつは……」

「なんてことだ……」


 想像以上である。
 誰もが青ざめ、その光景を見渡す。


「ひでぇことしやがる……!」

「兵士だけじゃないね。百姓とか女子供まで」

「徐州を滅ぼすつもりかよ!」


 公孫越の言う通りだった。これはもはや侵略ではない。まったき破壊行為だ。
 到底反董卓軍の発起人の所業とは思えなかった。

 幽谷もまた、想像を絶する惨害に愕然とした。

 これでは、下邱の民も無事で住むかどうか――――。


「止めなくちゃ……! こんなの、絶対に止めなくちゃ!!」


 身体を震わせて、関羽は声を絞り出す。曹操の民を思う姿を垣間見た彼女にとっては、この光景は衝撃的だったに違いない。それでも、その黒い瞳に憤りや憎悪は無く。在るのはただただ深い悲しみだった。


「関羽様」


 肩にそっと手を置くと、彼女はそこに己のそれを重ね、瞑目した。ややあって開眼すると、


「……皆、急ぎましょう。一刻も早く、徐州を救いたい。こんな酷いこと、止めさせなくては!」


 力強く呼びかけた。

 猫族は皆一斉に声を上げ、応(いら)える。

 幽谷や趙雲も、黙して頷いた。
 すると、関羽が幽谷を呼ぶ。


「はい」

「心労で倒れたばかりで身体が辛いかもしれないけれど、わたしと一緒に戦って欲しいの。曹操を一緒に止めて」


 止める。
 討つ、ではなく。
 幽谷は胸に蟠(わだかま)るモノを押し殺し、関羽に深々と頭を下げた。


「我が命は、あなたの傍に」


 顔を上げると、関羽は小さく謝罪し、礼を口にした。



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