幽谷は、その日の夜は村の外で過ごした。
 どうしても、今は一人になりたかったのだ。
 樹上に上り、枝に腰掛けてただただ星空を見上げた。

 ……止めようと思えばまだ止められる。
 だが、関羽の強情さはもう痛い程知っていた。猫族の者達も同意を示したとあれば、もう幽谷個人が拒絶しても無駄なのだ。あの決定は覆されない。
 さっきから、自分の口から漏れた舌打ちは何度目だろうか。二桁は行っているのではなかろうか。

 幽谷は嘆息を漏らして、ふと目を閉じた。

 こうなれば、もう幽谷が関羽よりも先に曹操を始末するしかない。
 関羽と曹操を接触させてはならない。関羽の情が強まるきっかけを与えてはならないのだ。

 気付かぬままならそのままで。

 曹操に付け入る隙を見せては、ならぬ。

 それに現在の曹操の勢いは驚異的だ。
 所業も、呂布とは類が違うものの、乱世を荒らす群雄の一人と判断するに足る。これ以上のさばらせておいては、関係のない猫族まで関わらざるを得ない状態にまで悪化しかねない。一応は、そんな懸念も抱いてはいた。そしてその時は、密殺しておこうとも、考えていた。

 その戦に出る以上――――殺せるものなら殺してしまおう。頭を切り替えて戦に臨まねばなるまい。

 一度深呼吸すると、微動した袖に右上腕の鱗が擦れた。外套を脱いで右の袖を捲り上げる。
 広がってしまった鱗が、月光に美しく煌めく。だが、それよりもずっと恐ろしく、そして気味が悪い。撫でれば硬質なそれに温度は無かった。

 自分を水の中に引きずり込もうとするあの手が、この鱗を広げているのだろうか。
 あの手の正体は、一体何なのか。
 どうして水のある場所に手だけで現れるのか。
 ……分からない。
 もう一度あの手と接触して、逆に掴んで引き上げてしまえば、あるいは分かるのかも知れない。そうする勇気も無いから、その方法を取ることは出来ないのだけれど。

 堅いそれを撫でていた指先が、ふと鱗と鱗の隙間に引っかかる。それだけで激痛が走った。
 剥がすとなれば、相当な苦痛を伴うだろう。でも、これが気持ち悪くて仕方がなかった。


 無性に、剥がしたい。


 幽谷は目を細め、隙間に爪を引っかけた。歯を食い縛り、思い切り力を込めるのだ。
 びりっとした嫌な音と共に、美しい色合いの鱗が肉から剥がれる。


「――――アッ」


 直後襲ってきた想像を絶する痛みに、幽谷は上体を曲げた。今まで、抉られても、斬りつけられても、このような強烈な痛みは無かった。たかだか一枚の鱗を剥がしただけで、全身を灼かれるようで、痺れるような苦痛に感覚が分からなくなってしまう。

 怪我は大したものではない。
 だのに剥がれた場所から、まるで滝のように止め処無く血がこぼれてくる。
 幽谷は呻き、腕を押さえた。

 痛い。
 熱い。

 鱗を剥がしただけだ。
 剥がしただけで、こんな激痛。
 まるで剥がした罰のように、全身が燃えている。


「ぐ……ぁ……っ」


 耐え難い苦痛であった。
 三半規管も機能しなくなって、平衡感覚も怪しい。

――――と、いつの間にか堅く瞑っていた目を開いた瞬間。

 視界に自分が乗っていた筈の太い枝は無かった。
 あるのは急速に近付いてくる枯れ草と緑に覆われた地面だけ――――……。



‡‡‡




 世平は、森の中を捜していた。
 関羽が幽谷がいないと相談してきたのだ。
 世平自身彼女の様子が気がかりであったから、関羽を寝かせて村の周囲を捜すこととした。

 泉沈には悪いが、星河を起こして手伝ってもらう。幽谷を捜して欲しいと頼み込めば、ある程度理解したのか快く了承してくれた。幽谷から泉沈の指示以外は聞かないと聞いていたから、この時は安堵した。
 星河が鼻を動かすその後ろにつき、時たま幽谷を呼ぶ。


「こうも暗ぇと、捜すのも一苦労だな」


 星河が同意するように吠えたのに、世平は笑う。
 星河は人間に対しては敵意剥き出しだと言うが、猫族には態度は柔らかい。されど懐いているという程でもなかった。気位が高いらしく張飛や関定などは自分よりも下に見ているようだった。

 と、不意に星河が足を止める。耳をぴんと立てて西の方角を見やった。

 かと思えば、駆け出す。


「星河! 見つけたのか?」


 慌てて彼を追いかけると、星河は吠えた。

 浮き出た木の根を飛び越え草をかき分け進む。
 幽谷を見つけたのだろうか。
 世平は星河の姿を見逃さぬように、速度を上げた。

 すると木の根元に見慣れた衣服の人間が倒れているのを遠目に見つけた。


「……幽谷!!」


 まさか木から落ちたのではないか――――世平は急ぐ。
 幽谷の側に屈み込みその身体を抱き起こした。右上腕から大量の血が流れていることに気が付く。剥がれてしまったのか、前よりも広がっているらしい鱗の一部で肉が剥き出しになっている。

 その様にぞっとした。
 鱗を剥がしただけで、こんなにも出血をするか……?


「幽谷! しっかりしろ、幽谷!」


 幽谷は目を開かない。気絶しているようだ。顔も首元も汗で濡れ、苦痛に顔が歪んでしまっている。
 彼女の左手にある一枚の鱗を見、舌打ちする。


「自分で剥がしやがったのか……!」


 何かで圧迫して血を止めなければと自らの服を破こうとした世平に、星河が吠えた。
 彼を見ると、幽谷の右腕に向かってかまびすしく吠えている。

 何事かと見下ろせば、止まらない血の下で、何かが生き物のように蠢く。
 そして浮き上がってくるのだ。

――――鱗が。


「な……!」


 世平は声を失った。
 血が止まり、僅かに赤く濡れた鱗が元のように肉を覆い隠す。
 有り得ない、不気味な光景に、世平は暫く声を発せなかった。


「何だ、これは……」


 血をまとわせながら、何事も無かったかのように煌めく鱗に、世平はやっとのこと、咽を震わせそう呟いた。

 そして、同時に思った。


 これを知った時、幽谷は更に己を恐れるのではないだろうかと。



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