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関羽は制止の声を上げた。
彼女は手首を捕まれて早足に歩かされている。が、幽谷の歩みは止まらない。
どうして幽谷は、こんな……。
痛みに顔をしかめながらも、関羽の頭の中では公孫越の言葉が反響する。
公孫賛が、援軍に猫族を出したくないと考えてくれている。でも、幽州から兵は出せない。袁紹に脅かされている為もあるし、徐州を落とした曹操の勢いを警戒しなければならないから。
関羽だって、戦にはもう出たくない。
だけど、でも。
このまま公孫賛に甘えて、彼の苦痛に目を背けていて良いのだろうか?
お世話になっているのに、このまま安穏と暮らして――――。
「関羽様」
「!」
キツく呼ばれて、関羽は顔を上げた。
立ち止まって振り返り、眉間に皺を寄せ睨むように強く見据えてくる幽谷に、怯む。
「馬鹿なことは考えないで下さい。自ら乱世に戻るなど、私が許しません」
「でも幽谷!」
「劉備様を、悲しませたいのですか?」
言われ、関羽はうっと言葉を詰まらせる。
劉備は、猫族の皆が傷つくのを誰よりも悲しむ。関羽であれば、尚更だ。
そんな彼を悲しませてまで、苛烈になっていく乱世の中に飛び込もうなどと……幽谷の目は何時になく関羽を責め立て威圧した。切羽詰まったような色が窺えるが、彼女が何に焦っているのか分からない。
「幽谷……どうしたの?」
「あなたを、乱世に戻す訳にも、曹操に接触させる訳にもいきません。援軍ならば私一人で参ります」
「駄目よ! 危ないわ」
「危ないからこそ、情で乱世に戻るようなことはなさらないで下さい。あなたの感情一つで、猫族の方々をまた命の危険に晒すつもりですか? 私一人行けば、曹操軍を潰すのも容易いことです」
幽谷は関羽の手を離すと、関羽を冷たく一瞥して先に歩き出した。
城の廊下に残された関羽は、幽谷の苛立ちに困惑し、瞳を揺らす。
彼女はどうして、あんなに強く反対するのだろう。幽谷だって公孫賛に恩を感じている筈なのに、見ないフリをするなんて――――。
「――――どうしたの、幽谷」
彼女の心中が分からず、関羽は胸の前で手を握って眉尻を下げた。
‡‡‡
関羽が蒼野の村に戻ると、幽谷はまだ帰っていないようだった。
辺りを彷徨いているのかも知れないとして、まずは公孫越からの話を猫族の皆を集めて話した。
「徐州が幽州に援軍を求めてきたか。よほどの窮地に、立たされているんだろうなぁ」
「曹操軍も容赦ねぇ攻め方してんな」
関羽は目を伏せる。
本当に、董卓の所業に憤慨していた曹操のすることだとは思えない。彼の中で、一体どんな心境の変化が起こったというのか。そう考えると、胸に鉛が落ちたかのように重たく沈んだ。
「認めたくはないが公孫越の言っていることも間違っていない。後に曹操に攻められる可能性を考えれば、今ここで多くの兵を出すのは得策じゃねぇからな」
「だからってオレたちが行かされるのか!?」
関羽は開眼した。今度は真っ直ぐ関定を見据えて、違うとはっきりと告げる。
「行かされるんじゃないの。わたしたちは、わたしたちの意志で徐州に向かうのよ。わたしは、どうにかして公孫賛様の力になりたいと思う」
蒼野に至るまでに歩きながら、関羽はずっと考えていた。その結果が、この言葉なのだ。幽谷に怒られてしまいそうだが、それでも見過ごせないし、曹操が気になる。
しかし、猫族の皆は渋面を作る。
「お前の気持ちは分かる…分かるが……」
「せっかく、この地で平和な暮らしができるようになったって言うのに、それを手放すなんて……」
「でも、その平和な暮らしができるようになったのは公孫賛様のお陰よ。手放すんじゃないわ。少しだけ留守にするだけよ。もちろん、戦えないお年寄りや子供たち、女の人はここに残るんだから」
「甘いですね」
不意に、抑揚の無い声が入り込む。
ぎょっと入り口を見れば、幽谷が腕組みして立っていた。
「幽谷、帰ったのか」
「先程確認して参りました。やはり公孫越は、この機に乗じて猫族を幽州から追い出すつもりです。そのように自室で独白していたのを聞きました。私は、徐州に行くべきではないと、反対致します」
世平が目を瞠った。
「幽谷……」
「でなくば、私一人で向かいます」
「あ、幽谷のお姉さんが行くんなら僕も行くー。方術使えば簡単に人間って死ぬし」
部屋の隅で傍観を決め込んでいた泉沈と星河が幽谷の言葉に反応して手を挙げる。しかし、即座に駄目だと切り捨てられてしまった。
幽谷は断固と賛成しようとしない。頑なに、猫族が戦場に向かうのを拒む。
されど、
「オレは徐州行ってもいーぜ」
と。
……張飛だ。
「え!?」
「最近ヒマだったかんなー。曹操のヤローぶっとばしてーし、何より姉貴が行きたそーだし」
「……張飛様」
幽谷は、はあと深々と溜息をつく。
張飛は幽谷を見つめながら、言葉を続けた。
「結局オレらがここで平和に住めてんのって、姉貴や幽谷が曹操んとこ行ったりしてるお陰だろ? そりゃあ、確かに危険だからオレたちを行かせたくねーって幽谷の気持ちも分かるけどさ。オレらばっか楽してんのも、もうそろそろいい加減情けねーしな」
張飛の言葉に、感じ入ったように関羽が瞳を潤ませる。
そんな主とは違い、幽谷は歯噛みして俯いた。
それからややあって、
「確かに、俺らはいつもふたりにばかり苦労をかけているな」
「張飛にしては、まともなことを言った」
蘇双が小馬鹿にしたように言うと、張飛が噛みつく。
関羽は嬉しさ半分、罪悪感に眦を下げて皆を見渡した。
「でも、みんな折角また平和な暮らしに戻ったばかりなのに……」
「あれ、自分の感情で行こうって言ったくせに、ここで戸惑っちゃうの? 関羽のお姉さん、もう少し決意固めてから話してよ。迷惑だよ」
けらけらと笑う泉沈は蘇双に殴られた。
「何もわざわざ戦いに行かなくってもいいじゃねぇかよー」
泉沈を殴った蘇双は、情けない声を上げる関定を冷たく見やる。蔑視するように眉根を寄せた。
「うわ、この流れでそれ言うの? ここでボクたちが行かなかったら、下手したら幽谷が単身行こうとするの分かってて?」
「関定、ダッセェ!」
「え? え?」
蘇双だけでなく張飛にまで言われ、関定は眦を下げて二人を見比べた。
そこへ、世平が口角をつり上げて意地悪げに問いかけるのだ。
「女の子ふたりに苦労をかけて、俺らみんなが楽してるって話だぞ。お前はそれでいいってんだな?」
「私としては、皆さんがそれでいてくれれば満足なんですが」
「「「却下」」」
蘇双、張飛、世平が即座に言い放つ。
幽谷は不機嫌そうに、唇を引き結んだ。
関定は周囲をきょろきょろと見回し、やがて頭を抱えて声を張り上げた。
「…………ああ、もう分かったよ! 行くよ。行きゃーいいんだろ!!」
世平は小さく笑声を立てて泣きそうな関定の背中をばしんと叩いた。
するとその様に他の者達も笑って、
「みんなが行くなら、俺も行こう」
「いつかこんな時が来るような気もしていたしね。私たちも今度こそ、留守をちゃんと守ってみせるわ」
「曹操をぶっ倒し、徐州を助けたらせいぜい大きい顔をして戻ってこようじゃないか」
「みんな、ありがとう……」
関羽は微笑み、幽谷を振り返る。
彼女の姿はもう無かった。
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