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徐州は下邱、彭城大広間にて。
犀煉は一人、陰に潜んでいた。誰一人として、彼の存在には気付かない。
彼が無表情に見つめる先には、慌ただしく行き交う兵士達を不安そうに見つめる刺史と、その腹心。
今この国は、兌州の曹操に攻め入られ、困窮を極めている。戦況は芳しくなく、曹操軍が下邱に到達し落とされるのも、もはや時間の問題だろう。
徐州は、風前の灯火も同然だった。
「戦は? 戦の結果はどうなったのじゃ!?」
「お待ちください、陶謙様。もうまもなく知らせが届きましょう」
刺史は陶謙。
その腹心は糜竺。
糜竺の知謀は抜きん出ているが、曹操の前には徐州の兵力では敵わないだろう。
投降する可能性が高い、か。
声も無く呟いた。
「失礼いたします!」
「おお、待っていましたよ。それで、どうなりましたか?」
「敵は十万にも及ぶ精鋭集団。我が方の防衛陣はことごとく打ち破られてございます」
糜竺は青ざめ絶句した。
「まさかそんな……」
「相手はあの戦上手で知られる曹操。我らでは、とても歯が立ちません。どうか、どうか退却のご命令を」
「それはなりません。何としてでも奴らがここ下邱へ到達するのを防がなければ、徐州は終わりです。国中の兵をかき集め、再度曹操に戦いを挑むのです」
「ぎょ、御意」
……無駄だ。
曹操に負けるのがこの国の定めだ。
それが、陶謙も分かっているのだろう、大広間を去っていく兵士を、憔悴しきった顔で見送っている。
扉が閉まると、ほうと吐息を漏らした。
「さすがは曹操。徐州の兵では歯がたたぬようじゃの。ああ、天はこの徐州に何故このような大難を与えたもうのか?」
欄干に手を置いて天を見上げ、嘆くように漏らした。
「陶謙様、こうなったら徐州が生き延びる術はただの一つだけ。近隣の諸侯らに助けを求めるのです」
「確かに、援軍を送ってもらえるならば曹操とも戦えるかもしれんの」
「すぐに、各地に伝令を走らせます! それでは!」
言うが早いか、糜竺は陶謙に拱手して、小走りに大広間を出ていった。
しかし、陶謙の顔色は優れない。あの曹操の勢いでは、誰も徐州を助けようなどとは考えないだろう。それを彼は分かっているのだろう。それでも、糜竺を止めなかったのは彼自身少なからずの希望を抱いているのか。
幽州にも伝令は飛ばされるだろう。
公孫賛は義に篤い。この徐州に援軍を出そうとするだろう。
だが――――今、幽州には猫族がいる。
公孫賛の周囲が幽州の兵士の代わりに猫族を用いることを勧めれば、猫族は再び乱世に放り出されるのだ。幽谷も猫族を守ろうと先陣に立とうとしかねない。それでは、駄目なのだ。
徐州が落ちれば幽州に攻め込むことも考えられるが、その時は犀煉がそれとなく曹操を襲撃すれば良い。曹操を動けなくさせるくらいならば、さしたる小細工をせずとも容易い。
犀煉は嘆息し、その場を立ち去った。
やはり、陶謙も、兵士達も、彼の存在に気付かない――――……。
‡‡‡
幽州に戻ってきて数日。
関羽は公孫越から呼び出された。公孫賛でなく公孫越という点に不審を抱いた幽谷は関羽に同行して城へ赴く。
「失礼いたします。関羽にございます」
「来たか」
公孫越は冷たく関羽を見下ろすと鼻を鳴らした。
「はい。どういったご用件でしょうか?」
「単刀直入に言おう。我が国からの援軍として徐州に行ってもらいたい」
関羽は瞠目した。
「え! 援軍として徐州へ!?」
「そうだ、先程陶謙殿から援軍の要請がきたのだ。どうやら事態が深刻らしい」
「それで、幽州の兵は出したくない故厄介払いついでに猫族に行かせようと、公孫越殿が一人でご判断なされたということなのですね」
軽蔑したように言うと、関羽に咎められた。すぐに謝罪して一旦口を閉じた。
すると、公孫越は急に芝居がかったように声音を変えた。
「兄上も徐州のこの状況にとても心を痛めておられる……だが我が国は袁紹軍とのいざこざで兵に余裕はない。とても徐州へ援軍など送れる状況ではないのだ。猫族を送りたくはないが、かといって徐州を見捨てる訳にもいかぬ――――私とて兄上の心痛は察して余りあると思っている。独断であることは申し訳ないが、兄上の心痛を収めるには、私にはこうすることしか思いつかぬのだ。関羽よ、お前ならわかるであろう」
「公孫越様……」
「この国に住まわせてもらっているのを少しでも恩に感じているのであれば、兄上の気持ちを汲み取り、お前たち自ら、徐州へ行ってはもらえないか?」
城に訴えられれば関羽は弱い。
幽谷は関羽を押し退けて公孫越を睥睨した。
殺気を向けられた彼はうっとなって一歩退がったが、それでも関羽を強く見据える。
「関羽」
幽谷は関羽の手を掴んで身を翻した。
「待て!」
「そちらの勝手に猫族の方々を巻き込まないでいただきたい。公孫賛様も猫族の方々を戦に出したくないのであれば、私達があなたの言葉に従う理由などありませぬ。私達は公孫賛様にお世話になっているのであって、あなたには何の恩義も感じてはおりません。公孫賛様が同意をなさった上で、今一度お呼び出し下さいますよう。さらば、恩義の元犀家出身の私が単身徐州に向かいましょう」
「幽谷!」
関羽が呼ぶも、彼女の足は止まらなかった。
何としても、徐州に――――曹操軍と相対することは絶対に避けなければならない。それに、他国に頼る程苦戦を強いられている国の援軍として猫族が参加などすれば、猫族とて無事では済まないだろう。
絶対に、行かせはしない。
広間を出ようとする二人に怒声のような大音声が降りかかる。
「聞いた話では! 曹操軍の進撃は兵も民も女も子供も容赦なただ、目の前にいるものはすべて踏み潰し轢断(れきだん)し突き進む! 徐州の状況はまさに地獄絵図。そんなことになっているそうだ!」
関羽よ、徐州の民を救う為にもお前たちの力が必要なのだ!
そう、扉を閉める前に二人の鼓膜を震わせた。
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