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結局、兌州の町の中まで逃げたが、曹操が追いかけてくることは無かった。
それでも念の為と関羽が眠った後、幽谷は彼女の部屋の前に立って朝まで警戒を続けた。
その間、屋敷の中は慌ただしかった。大陸制覇に向けて何処かに攻め込む方針を決めたのだろうか。兌州を出る前に調べた方が良いかとも思ったが、昨夜のこともあって関羽を一人にしておける状況ではなく、早々に挨拶を済ませて兌州を出るべきと話を固めた。気まずいが、世話になった以上お礼だけは言わないととの関羽の意思は尊重した。
指示を飛ばす曹操を見つけ、三人は彼に近付く。星河は廊下に待たせた。
「曹操、少しいいかしら?」
彼は関羽を見、つかの間沈黙する。その眼差しに、違和感。
「あの、わたし今日幽州に戻るわ。公孫越様に言われた半年が過ぎたからお役目の方は無事に終了したの。それに董卓が討たれて世の中がどうなるかわからないし。幽州の様子が気になるわ」
「好きにしろ」
「え……?」
曹操の返答は至極素っ気ないものだった。
昨夜のことを引きずっている様子など微塵も見られない。
呆気に取られる関羽に、曹操は柳眉を顰め不機嫌そうな顔をした。本当に、昨夜見せた関羽への執着が嘘のようだ。
「好きにすればいい。お前がどこに行こうが私には関係のないことだ」
「……あ、うん。そうよね……」
「話はそれだけか?」
「え? あ……あの…この半年ここに置いてくれてどうもありがとう」
戸惑いながら、関羽は深々と頭を下げる。
すると、曹操は口角をつり上げるのだ。
……何かがおかしい。
幽谷は探るように曹操を見つめた。
「そうだったな。お前達はここに間者としてやってきたのだったな」
そこで、彼は三人に背中を向ける。
「幽州に帰るお前達に我が国の大きな機密情報をひとつくれてやろう」
「え……?」
「私はこれから本格的に大陸制覇に乗り出す。今後次々に近隣諸国にも攻め入るつもりだ」
そして、その手始めに標的となるのは――――徐州。
そのような重要機密を手向けとして関羽に教えるなどと、曹操の態度の変化と言い、本当に分からない。背中を向けられていては、その考えを探ることも難しい。
「さらばだ」
抑揚無く言って、曹操は身を翻した。大股に歩いて広間を出ていく。
関羽が呼び止めても、彼が応じることは無かった。
「曹操……どうしたのかしら」
「分かりません。ですが、戦の気運が高まっているのだとすれば、早く兌州を去った方が良い。私は曹操殿の与えた情報の裏付けを取って参ります。関羽様は泉沈達と共に先に兌州を出ていて下さいまし。もし夏侯惇殿達に私のことを訊かれましたら、忘れ物が無いか確認しているとお答え下さい。よろしいですね」
「わ、分かったわ……でも、すぐに戻ってきて」
「はい」
幽谷は関羽に拱手してみせると、札を口に銜えて屋敷内の偵察へ赴いた。
曹操の動向を窺っていこうかとも、一瞬だけ考えた。されど、今の彼には近付きたくない。関羽にも近付かせたくない。そんな雰囲気だった。
どうして、昨日の今日であんな風に変わってしまったのか。
曹嵩との間に、何かあったのだろうか?
思案しながら廊下を走り抜けていると、不意に微かに鉄のような臭いが鼻腔を突いた。足が止まる。
これは……幽谷も嗅ぎ慣れた血の臭いだ。
何故屋敷の中でこのような臭いが?
誰か怪我でもしたのだろうか。
周囲を見渡してみるが、怪我人らしき姿は見当たらない。武官や文官が忙(せわ)しなく行き交うだけだ。
ならば、この臭いは何処から――――。
一人、首を傾げた。
‡‡‡
曹操は私室にいた。
真ん中に立って、肩を震わせて笑っていた。
「ご安心下さい父上。貴方を殺した私だが、この大陸を制し、必ずや我が一族の名に恥じぬ覇者となってみせましょう」
誰に言うでもなく、空に向かって語りかける。黒の瞳は、虚ろだった。
また笑声を漏らしたところに、軽快な声が入り込んでくる。
「あー、いたいた。やっぱりここにいたんだ、捜しちゃったよー」
すっと物陰から現れたその子供を、曹操は笑声を止めて冷たく一瞥する。
「……お前か」
「そう、僕。ちゃんと僕の言ったこと理解してるかなって、確認しに来たの。頭に入ってる?」
「ああ。重要なことは意識せずとも覚える頭でな」
無表情に言えば、少年は花のように笑う。
「そっかー。じゃあ安心だね」
うんうんと何度も頷いたかと思えば、曹操にさっと背を向けて片手を振ってみせるのだ。
「んじゃあ、確認できたから僕は帰るよ。嘘ついてここに来てるから、早く戻んないと駄目なんだ」
そう言って、物陰にすっと身体を滑り込ませ――――消える。
最後の声は部屋に反響し、余韻を残した。
「忘れてなかったら、昨日のことは黙っておいてあげるよ」
曹操はふっと笑う。
別に昨夜のことを話されたとて何ら問題は無い。
自分の中の外れた螺子(ねじ)が、元に戻ったというだけなのだから。
……拒むなら、要らない。
関羽は自分を拒絶した。
拒絶したのだから――――彼女はもう不要だ。
三度、私室を笑声が満たした。
第五章・了
○●○
取り合えず、この章で伏線を幾つか入れました。まだ入れるつもりではあったんですが、消化出来るか分からなかったので省いていたりしています。
夏侯惇との絡みが少ないのは、趙雲のことを考慮してのことでもあります。
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