6
それから数日。
夜。望月(もちづき)に、無数の星に照らされた大地は淡く煌めき、生命に溢れた昼とは打って変わってさめざめとした神秘的な世界を作り上げる。
その身に馴染んだ世界を歩きながら、幽谷は後方を振り返った。
遥か遠く。
猫族の村が見える。
痛みの失せた足では、抜け出すのは簡単だった。身体は完治したから、何処にだって行ける。
誰にも見つかってはいない。よって追ってくる者などいない。
今度こそ、死に場所を探す。
そして―――死ぬ。
幽谷は拳を握ると、村に背を向けて駆け出した。
冷たい風は肌を刺す。何か羽織ってくれば良かったかと、今更ながら思った。
夜陰の中を駆け抜けて早く早くと村を離れる。
この世界に四凶はいてはならぬ。
恩人でもある穏和な猫族に迷惑をかけてはならぬ。
早く、死ななければ。
死ななければ。
どうせ《アレ》には勝てぬのだから。
それ以外に意味は無いのだから。
死んでしまった方が楽なのだ。
‡‡‡
どどど。
どどど。
どどど。
どどど。
起きて。
助けて。
彼女を助けて。
彼女が死ねば後は無い。
助けて。
水の癒しを与えて。
彼女は死んではならぬ。
もう《代わり》は作れない。
止められなくなってしまう。
お願い、彼女を助けて。
《アレ》を止められなくてはならぬのだ。
《アレ》はあまりにも、人の世に血を流しすぎた。
――――声がする。
それに意識を引き上げられたかのように、関羽は覚醒した。
まだ夜の帳は上がらず、外は暗い。
「夢……?」
関羽は上体を起こして、ぼんやりと記憶を手繰った。
滝壺だけがあって悲痛に満ちた声が響いていた、不思議な夢だった。
何だか嫌な予感がして、胸が騒ぐ。
急がなければ間に合わないような気がする。
何に?
関羽は身形(みなり)を整え偃月刀を片手に家を出た。
滝壺なら、村から離れた場所にある。人間に会う可能性があるから普段は立ち寄らない。
何となくだけれど夢の滝壺はそこに似ていた。
世平おじさんを起こした方が良いかしら?
考えて、否とする。
今はとにかく急がなければいけない気がするから、一人で行こう。
関羽は周囲に人がいないことを確かめて、村を飛び出した。
早足だった歩調はやがて速まり、疾駆(しっく)となる。
何故か気が急く。
何かに圧(お)されているかのようだ。
何かが無くなる。
とても大きな何かが――――……。
夢の声の主に同調しているのかもしれない。あんなにも、悲しげな声で訴えてきた人に。
滝壺に着いた時、関羽は息も絶え絶えだった。それでも不安定な岩場を歩き、轟音へと近付く。
夜の滝は、昼とはまるで違う姿だった。
滝壺に叩きつけられた水は飛沫となり、月光を反射して空気中にて煌めく。
荘厳な滝は、まるで龍のようだった。
しかしその側に、切りたった崖の岩肌に寄りかかって座る影が在(あ)った。ぴくりとも動かない。
「――――幽谷!!」
関羽は悲鳴じみた声を上げた。
駆け寄って傍らに座り、息を確認する。……弱い。
まだ生きてる!
だが折られた太い木の枝が幽谷の胸に刺さり、衣服の広範囲を真っ赤に染めている。大量の血が流れてしまっていた。
抜くことはできないし、移動するにも間に合わない。
「どうしよう……」
と、パシャリと轟音に混じって音がした。
滝壺で魚が跳ねたのだ。水の波紋はすぐにかき消された。
――――水?
「……そう言えば水の癒しって、」
夢の中で声が言っていた。
でもそれがどういうことなのか分からない。混乱してしまった頭では回転させることも難しい。
関羽はあまりに慌てていたからか、ろくに思考せず、水を手で掬(すく)い幽谷の傷にかけてしまった。それで治る筈が……。
――――しかし。
突き刺さった枝が微動した。
「え、今……」
まさか、と思い再び水を掬って傷にかける。何度も何度も繰り返した。その度に枝が震えるのを視認した。
「……何となくだけど、段々抜けてるような気がする」
もしかして、治ってきている?
そうであれば嬉しいことだ。よしや、奇異な現象であろうとも。
関羽はその作業を延々と繰り返した。
やがて、幽谷の息も整い、枝を抜いても問題は無いように思える程にまで押し出されてきた。
関羽は枝を抜き、鳩尾までを隠す外套(がいとう)を捲(めく)ってすぐに水をかけた。
すると、見る見るうちに傷が塞がっていく。
そこは瞬きを二度繰り返す間に肌理(きめ)細かい肌に乾いた血が付着しているだけとなった。
顔色も、大量の血を流したというのに何故か血色が良い。
関羽は長く溜息をつき、全身から力を抜いた。
「良かった……」
でも、どうして水をかけただけで治ったのかしら?
それにこれを教えてくれた夢の声は一体、誰なんだろうか。
劉備の頬を治した時と同じ、と考えて良いのか?
……考えても、分からない。
「……とにかく、幽谷を村に連れて行くのが先決ね。治ってから、直接訊いてみた方が良いかも」
肩に手を回して立たせようとした時だ。
「……何故助けたの」
「え?」
幽谷が口を開いたのだ。
気を失っているとばかり思っていた関羽は驚いた。
「幽谷、起きてたの?」
「何故あの方法を知っていたの」
殺気を孕(はら)んだ低い声は、地を這うが如く。
初めて訊いた恐ろしい声音にぞくりと背筋が震えた。
「あの方法って、水をかけること? それは夢で声が言っていたの。水の癒しを与えてって」
「……同じ声か」
呟くと同時に、関羽の肩から幽谷の腕が離れた。
かと思えば関羽の視界がぐるりと回った。望月が真正面にあった。望月の下に、冷たい幽谷のかんばせ。色違いの双眸は刃のように鋭利だった。
「幽谷……」
「……何故、死なせてくれないのよ」
苦しげに絞り出された声が、夜陰に溶けていく――――。
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