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「……もうすぐ、半年になるわね」


 廊下を歩きながら、関羽は感慨深げに呟いた。

 後ろには泉沈と狼の星河、そして珍しく幽谷が従っていた。
 呟いた後、思案して黙り込む彼女に幽谷は溜息を漏らす。


「関羽様」


 咎めるように呼ぶと、上の空で「うん……」と返事をする。

 最近、彼女は曹操のことを考えていることが多くなった。曹操に何らかの情を持ち始めていることは、漠然と察している。関羽の自覚は無いようだが、それも時間の問題かもしれない。その感情がもしも恋慕の類であれば――――想像するも恐ろしい。

 だが、人の感情に疎い幽谷に歯止めを利かせることなど出来る筈もなく。
 幽谷はまた嘆息した。

 すると、不意に。


「曹操様! 一大事でございます!」


 慌てた風情の足音と共に、一人の兵士が謁見の間に駆け込んでいくのが見えた。

 それに、関羽も我に返ったようだ。


「何かあったのかしら……」


 首を傾げて、幽谷を振り返る。

 幽谷も首を傾げてみせると、彼女はそろそろと足音を押さえて壁伝いに謁見の間に近付いた。
 二人と一匹もそれに従った。


「曹操様! ただ今、長安の間者より知らせが入って参りました!」


 直後、泉沈がふふっと笑った。

 長安は、董卓が遷都した場所だ。


『董卓の命運はね、もうすぐ終わるんだよ。じんわりじんわり、確実に燃え尽きていくんだ』



 以前泉沈が漏らした言葉を思い出した。

 泉沈を見下ろせば、彼は満足そうに笑っていて。
 まさか――――董卓が死んだという知らせ……なのか?


「董卓が討たれたとのことです……!」


 どくり。
 泉沈の占いが、当たった。


「ほーら。僕の占いに間違いは無いんだよ」

「え……? どういうこと?」


 関羽が幽谷を振り返る。

 幽谷は泉沈を一瞥し、彼が董卓が近々死ぬと予期していたことを短く教えた。

 すると、関羽は驚いて泉沈に真偽を確かめる。

 泉沈はにこやかに首肯した。


「一体誰に討たれたというのだ?」

「呂布です……」


 呂布。
 兵士の震えた声に、関羽と幽谷は顔を見合わせる。


「呂布だと!? では呂布が董卓を裏切ったのか……!」

「腹心の部下に裏切られるとは……!」

「主君を殺すとは……やっぱりあの鬼女、とんだ狂人だな!」


 武官や夏侯惇達も、更に騒ぎ出す。

 幽谷には彼ら程の動揺は無かった。確かに驚きはしたけれども、彼女の歪んだ性格を考えれば有り得そうな話だった。

 曹操が長安の様子を訊ねると、そのまま部下を連れて長安を出たと言う。
 犀煉も彼女に付き従った筈だ。


「董卓が討たれ、それを討った呂布が大陸に躍り出たか……。乱世がさらに混迷するな」


 呂布は戦を、殺戮(さつりく)を求める。必然的に戦乱が激しくなるだろう。
 幽州にもその余波が行かなければ良いのだが……。

 公孫賛の人柄では、何処かから救援を求められれば答えようとするに違いない。それに、戦闘能力の高い猫族が巻き込まれる可能性も、なきにしもあらずだ。
 この乱世、収まるところを知らない。


「皆の者。董卓が倒れた今、これから諸国の雄たちが覇を争うことになる。董卓追撃の失敗から我が軍はここまで回復した。寧ろ、より強大になったと言っていい」


 曹操は、高らかに言い放った。


「私はこの手にした力を以って諸国の雄たちを制し、この大陸の覇者となって見せる!」


 そこで、先程までの空気は一転する。

 緊迫したものから、一斉に意気揚々としたものへ。中の様子を見ずとも、彼らの力強い応えを聞くだけで察せられた。

 ふと、関羽は幽谷の袖を掴んだ。
 不安げに彼女を見上げてくるのに、幽谷は大きく頷いてその小さな手を握り締めた。



‡‡‡




 それからの関羽は、何をするにも上の空だった。
 もうすぐ任務を終え、幽州に帰る。早く帰りたいのだろう。そわそわと落ち着かなかった。


「幽谷。曹操にお礼を言って、明日幽州に発とうと思うの」


 夜、冷たい静寂の横たわる中庭を歩きながら、関羽は幽谷に告げた。
 池の側には寄らない。幽谷を襲った腕を懸念してのことだ。

 幽谷は水面に浮かび揺らめく月を遠目に眺めながら、関羽に同意した。


「曹操に礼を言う必要性を全く感じないけれど、私も幽州のことが気にかかるわ。呂布の影響がどう広がっているか、すぐに戻って確認した方が良いでしょう。そのことは、泉沈には明日私から伝えるから」


 泉沈はもう星河と共に寝てしまっている。明日の朝に言っても、恐らくは大丈夫だろう。
 関羽が謝辞を言うのに頭を下げると、気配を感じて幽谷は足を止めた。


「ここにいたか」


 闇から現れた曹操は、真っ直ぐに関羽を見つめ、階段を下りてきた。
 関羽を背に庇おうとするが、それよりも早く関羽が幽谷の前に立って曹操に問いかけた。


「曹操、どうしたの?」

「お前達も聞いていたであろう。董卓が討たれたという話は」


 ぎくりと、関羽の身体が強ばる。されど、すぐに頷いた。


「ええ、知ってるわ」

「ならば話は早い。私は再び大陸制覇に乗り出す。お前に今一度言う。我が曹操軍の武将として共に来い!」


 拒絶を断固と許さない強い口調であった。

 関羽がまた身体を震わせ一歩だけ退がる。幽谷にぶつかった。


「関羽様」

「……いいえ、わたしはあなたとは行かないわ」


 曹操は目を細めた。


「何故だ。これだけ言っても何故わからない? 私はこれほどお前のことを欲しているのに」


 お前という将がいれば私の本懐も遂げられるというもの。
 曹操の声には、苛立ちが滲んでいた。関羽が自分の思い通りにならぬ故、焦りを感じているのかもしれない。それ程に、関羽を欲している。幽谷という《殺戮者》などのことはもう見向きもせず、ただ関羽だけを将として求めている。
 そこに、関羽を求めるのはそんな理由だけではないと――――言いしれぬ危うさを感じた。


「お前が必要なのだ。関羽よ、私を拒絶するな」

「……わたしは行かないわ」

「なぜだ!」


 恫喝(どうかつ)にも似た鋭い声を発して彼は関羽へ手を伸ばす。すかさず幽谷が払い落とした。
 動揺する関羽を今度こそ背後に隠した、その時だ。

 武官が狼狽した風情で中庭に駆け込んできた。


「曹操様、大変でございます。曹嵩様が急にお見えになりました!」


 さっと曹操の顔色が変わる。


「何だと? こんな夜分に父上が来ただと」

「はい、今しがた到着されました。随分急がれているようでしたが……」


 月明かりの所為か青ざめたようにも見える彼の白い顔に、一筋の汗が伝い落ちる。
 しかし、彼は瞑目すると奥の間に通すようにと指示を出した。

 頷いて走り去る武官を見送る曹操の顔は、……やはり、蒼白だ。これは月光の所為ではない。

 父親のことに気を取られている今なら逃げ出せる。
 幽谷はそう踏んで咄嗟に関羽の手を掴み駆け出した。武官が走り去った方向とは逆に向かう。

 それに気が付いた曹操が、関羽を呼んだ。

 だが、幽谷は立ち止まらない。



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