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 泉沈が泉沈なら、星河も星河だ。
 揃って自分の調子で行動する。
 ふと、久し振りに関羽とお茶でも飲もうかと思い立って彼女を捜していると、通りかかった鍛錬場から鍛錬のものでない怒声が聞こえてきた。

 その端々に狼という単語が聞き取れて、幽谷は足を止めた。


「……まさか」


 星河が鍛錬場に?
 鍛錬場から聞こえる声に、四凶だの十三支だのとは認められない。だとすれば、鍛錬場に泉沈はいない可能性がある。
 星河は基本的に泉沈の側を離れないが、この屋敷に慣れてしまった今ではままにふらりと一人で何処かに行ってしまうことがあった。そういう時、決まって日向で昼寝をしていたりするのだが……。

 もしかして何処かで星河をけしかけて人間で遊んでるのでは――――。
 有り得そうだ。

 幽谷は嘆息すると、身体の向きを変えた。



‡‡‡




「星河、何をして――――」


 固まる。


「……何をしているんですか、狼相手に」


 幽谷は呆れた風情で、姿勢低くして唸る星河に剣を向けている夏侯惇やその部下の兵士達に声をかけた。

 幽谷に気が付いた星河は尻尾をぴんと立てて尾を振りながら彼女の足にすり寄ってくる。


「四凶……その犬を、」

「狼です。言っておきますが、私にはどうすることも出来ませんよ。彼は私に懐いてはいますが、泉沈の指示にしか従いませんから」


 屈んで頭を撫でると、お座りをして目を細めた。

 夏侯惇は舌打ちして剣を収める。


「それで、何があったんですか」

「……そいつが突然鍛錬場に現れたと思ったら、俺に襲いかかってきた」


 それで、この騒ぎ。
 泉沈に差別的な態度を取る為、星河は夏侯惇、夏侯淵には特に強い敵意を抱いているようだ。今も、幽谷に尾を振りながら、彼の動きを警戒している。妙な動きを見せれば、即座に咽元に噛みつこうとするだろう。

 忌々しそうに星河を見下ろす夏侯惇に、幽谷は寸陰思案し駄目で元々提案してみた。


「なら、少しは泉沈に対する態度を改めたらどうです? そうすれば多少は改善されるかと存じますが」

「ふざけるな。何故俺達人間が、卑しい奴らに気を遣わねばならん。貴様らなぞ、本来はこの屋敷にいることも許されぬのだぞ」


 命よりも矜持を取る……ということらしい。
 幽谷は嘆息し、星河の首を撫でた。


「星河。申し訳ないけれど、ここはあなたが折れてくれないかしら。このままあなたが泉沈の為にと人間を襲っても、むしろ私達の迷惑になるだけよ。泉沈のお願いしか聞かないのは分かっているけれど、お願い」


 優しく諭し、星河の鋭い双眸を見つめる。

 星河は、一瞬夏侯惇を睨み、ふとしなやかに身体を捩って幽谷から離れると、颯爽と鍛錬場を離れていった。
 それに、ほうと安堵を漏らす。

 だが、星河も星河でとみに問題行動が目立つ。抑止力になるどころか、泉沈の助長になりつつあるような気がしてならない。
 またすぐに騒動を起こしてしまうかもしれない。


「泉沈に言っておかなければ」


 やはり、許すべきではなかったか……。
 後悔しつつ、幽谷は壁の端で腕を押さえてうずくまる兵士に気が付いた。

 甲冑を脱いでいるようで、防護されていない腕からは手の隙間から血がこぼれている。もしや星河に噛まれでもしたのだろうか

 幽谷は身体を反転させてその兵士へと近付いた。

 介抱をしていた別の兵士が、幽谷に気が付いて剣を向けた。


「し、四凶が近付くな! 悪化したらどうするんだ!」


 足を止めると、負傷した兵士が彼を止めた。


「良いんだ! こいつが、洞窟であいつを看取ってくれた四凶なんだろ?」

「だがお前の怪我が悪化したら……!」


 渋る兵士を宥め、負傷した兵士は幽谷を見上げた。


「俺はあの時その場にはいなかったが、俺の代わりにあいつを看取ってくれてありがとう」

「……成り行きのことです」


 董卓討伐の際、逃げ込んだ洞窟で亡くなった兵士の友人か何かか。
 頭を下げる兵士に幽谷は無表情に返し、自身に向けられた剣を退かして彼の前に屈み込んだ。


「腕を見せて下さい」

「あ、ああ……」


 手が離れると、赤い中にくっきりと開いた穴がいくつも、弧を描くように並んでいる。やはり星河に噛まれたのだ。噛まれた時に引いてしまったのだろう、穴が少し縦長になっている。

 見るも痛々しいその様の腕に、幽谷は手を翳した。
 そして何事か呟けばその手から光が放たれ、傷を包み込むのだ。
 どうせ、シ水関で夏侯淵の怪我を治しているし、あの洞窟内でも使っている。今更曹操軍の人間に見られたって、自分は気にも留めない。

 負傷した兵士が驚くのに、幽谷は「動かないで下さい」と声をかけた。すると、彼は頷いて大人しくなる。

 塞がったのを見て手を離す。包み込んでいた光が失せた腕には、乾いて変色した血はあれど、痛々しい穴は一つも残っていなかった。


「……これは、」

「まだ痛みを感じるかもしれません。ですが、動かさないようにしていればすぐに収まります」

「あ、ありがとう。まさか、これがシ水関で夏侯淵様を救った力なのか?」


 幽谷はそれに答えずに、すっくと立ち上がってそのまま鍛錬場を出た。

 念の為星河と泉沈を捜そうと入り口の前で周囲を見渡す。……と、一角が水をかけられたように濡れていた。


「……縄張りにしても、すぐに去るのだけれど」


 これを見たら、夏侯惇達は本気で星河を殺そうとするだろう。勿論野生の狼に人間の礼儀が分かろう筈もないが、さすがに、これは失礼だ。

 されど、だからと言ってこの程度のことで方術を使うのも馬鹿馬鹿しい。
 鍛錬が終わる頃にはきっと乾いて分からなくなっているだろうと予想し、幽谷は星河達を探しに屋敷に戻った。



 この少し後に、激怒した夏侯惇が星河を追いかける光景を目にすることを、彼女はまだ知らない。



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 至極どうでも良いですがページ数が三桁突入です\(^o^)/



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