23
兌州に帰ってきた幽谷は、片目を隠して町に入った。勿論幽谷が四凶であることを知る人間はこの町には大勢いるが、それでも彼らの恐怖を煽らない為にも、片目を隠して目立たぬように行動した方が良い。
「変に騒ぎになると、夏侯惇殿達が黙っていないでしょうし……」
二人の激昂する様が、ありありと想像出来る。
深々と溜息をついた。
すると、不意に声をかけられた。
「失礼いたします。あなたは曹操様のもとにお仕えの方でしょうか?」
「……はい?」
足を止めて振り向けば、そこには旅装束の、初老の男が立っていた。面識は全く無い。
眉根を寄せて身構えると、男ははっとしたようになって幽谷に頭を下げた。
「ああ、突然話しかけてしまうとはとんだご無礼をいたしました。私は夏侯家より文を届けに来た者です」
「……その方が、何故私に?」
「大変申し訳ないのですが、この文を夏侯惇様にお渡し願えますでしょうか?」
差し出された文は、とても質の良い紙だ。
幽谷はそれを受け取ると、彼はまた深々と頭を下げた。
「返事を急ぐものではございませんが、どうか、よろしく頼みます」
「え? あの……」
返事を急ぐものではないと言ったが、赤の他人に文を渡させるなんて、彼に責任感というものは無いのだろうか。自分に与えられた役目くらい、満足に遂げられないのか。
幽谷は眉目を歪めつつ、しかし文を無理に返そうとはせずに吐息を漏らした。
この文……受け取ってもらえるかしら。
四凶の自分を毛嫌いする彼のことだ、嫌がることは十分予想される。部屋か、彼の側にこっそり置いてやった方がこちらとしても無難だろうか。
立ち止まって思案していると、また誰かに話しかけられた。
「おい、貴様。こんなところに突っ立って何をしている」
「……ああ、夏侯惇殿、夏侯淵殿」
丁度良い。そう思ったが、やはり手渡すのは躊躇われる。拒絶されて持て余す事態だけは、面倒だし傍迷惑なので避けておきたいのだ。
会釈すると、夏侯淵が幽谷の手に握られた文に気付いて目を細めた。
「何だ貴様、何を持っているんだ?」
どうするか逡巡した幽谷は、諦めたように文を夏侯惇へ差し出した。
「先程、夏侯家の方がいらして、この文を夏侯惇殿にお渡しするようにと頼まれました」
「俺宛に?」
「返事を急ぐものではないと仰せでした」
訝りながら文を受け取った彼は、それその場で開いた。
「兄者、遣いが持ってきた文ということは叔父上からの文か?」
「……ああ、俺たちの体調を気にしているようだ。董卓討伐の件では父上に心配をおかけしたからな。この返事は後で書くとしよう。夏侯淵、お前も一応父上に文を書いてやってはくれないか?」
夏侯淵は、即座に、大きく頷いた。
「当然だ。叔父上には世話になっているからな」
これが、《血縁》と言うものなのだろうか。
幽谷は二人の様子を眺め、ふと考えた。
もし、自分が四凶でなかったとしたら、二人――――いや、普通の人間として、家族、親戚と彼らのような関係を築けていたのだろうか。今のように、両親の顔を知らぬままではいなかったのだろうか……。
「おい、四凶。さっきから何だ、じろじろと」
「……いいえ。では、確かにお渡し致しましたので。私はこれにて失礼致します」
――――今更、何を考えているんだか。
幽谷は二人の脇を足早に通り過ぎ、曹操の屋敷の中へと入った。
気を取り直して関羽を探すと中庭を掃いている姿を見つけた。
彼女の側に池があることに一瞬足が止まったものの、大股に彼女に歩み寄る。
「関羽様」
「え? ――――あっ、幽谷! お帰りなさい!」
「早かったのね」嬉しさと安堵の滲む笑顔に、幽谷もつられて破顔した。こうべを垂れ、懐から劉備と、張飛からの手紙を取り出して彼女に差し出した。
「これは?」
「劉備様と張飛様からのお手紙です。蒼野に寄って参りました故。お預かり致しました」
「劉備と張飛が!」
顔を上げると、関羽の笑顔がより一層晴れやかになっている。
彼女はそれを受け取ると幽谷の手を引いて階段に座った。恐らくは池を警戒してのことだろう、近くの階段ではなく、池から離れた場所のそれまで歩いた。
張飛の手紙を始めに開いて、その文字の荒さに苦笑する。焦って書いたというのが丸分かりだった。
「皆、元気にやっていた? 泉沈のことで大騒ぎしていなかった?」
「ええ。泉沈はどうやら書き置きを残していたようで。心配はしておられましたが、混乱などは全く。皆様元気にしておられましたよ。村も、何軒か家が建てられておりましたし、すぐにでも村が完成しましょう」
関羽はほうと吐息を漏らした。
「良かった……ありがとう、幽谷」
まったき感謝を向けられ、一瞬だけ頬がひきつった。脳裏に公孫賛の顔が蘇る。
それを押し隠して、幽谷は関羽の頭を撫でた。
「半年もすれば、戻れますよ。……ところで、泉沈は今何処に?」
「ああ、泉沈なら最近お友達が出来て、そのこと一緒に遊んでいるわ」
「友達? 人間の、ですか?」
「いいえ」
「見たら驚くかしら」と関羽は笑い、二人の手紙を大事そうに持って立ち上がった。幽谷の手を引いて回廊を行き、泉沈の部屋に向かって歩く。
扉の前に至ると、そっと押し開けて覗き込むよう促した。
「あら……」
「ね?」
泉沈は寝台で熟睡していた。
その華奢な身体に寄り添うように、獣が一匹横たわっている。灰色の毛をした、普通よりも大きな狼だ。片目が潰れているように見受けられるが、よくは分からない。
「何処であのような狼を……」
「泉沈ったら、暇があると兌州から出て行っていたみたいなの。それで、近くの山で仲良くなって、ここにまで連れてきたみたい」
「夏侯惇殿達には噛みつかれなかったのですか」
「ええ。物凄い剣幕で怒られたわ。でも、本人は全く気にしてないの。それに、夏侯惇達が泉沈を怒ると狼が襲いかかるから強くは言えないようよ。私にはそんなことは無いんだけど、人間相手には相当警戒しているみたい。今のところ、屋敷の中を歩く時はずっと泉沈一緒にいるわ。星河(せいが)って名前ですって」
勝手なことを、と叱ってやりたいが、四凶が動物に懐かれることもある。泉沈の問題行動の懸念も失せるのであれば、そのままにしておいた方が良いかもしれない。
扉を静かに閉めて、幽谷は関羽に苦笑してせた。
「このままそっとしておきましょう」
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