21
幽谷は、日が暮れる前には猫族の村を出た。
勿論劉備と張飛からの手紙はちゃんと懐にしまってある。
趙雲がまた要らぬお節介で国境まで送ろうと言ってきたが、その前に公孫賛に報告する必要があった。よもや、こんなに簡単に件の女性について分かるなんて、思いも寄らぬ事態であった。
幽谷は趙雲には依頼のことは話さず、公孫賛へ挨拶がしたいからと言う理由で右北平に立ち寄った。ここでも半ば強引に趙雲の馬に乗せられた。
「俺も行かなくて良いのか」
「結構です。また侵入いたしますので」
「そうか。では、厩にいるから幽州を出る時には声をかけてくれ。国境まで送ろう」
「遠慮します」
にべもなく言うと、趙雲は苦笑を浮かべる。だが、それでも「待っているからな」と肩を叩いて歩き去ってしまった。
幽谷は眉根を寄せ、しかしすぐに札を銜えて身を翻した。
二度目の城に迷うことは無く、幽谷に気付かぬまま回廊を歩いていく人を避けて公孫賛の私室へと侵入した。といっても、扉を数度叩き扉を開いて入った。
札を取り去ると、書簡を読んでいたらしい公孫賛は少しだけ驚いていたが、すぐに笑みを浮かべた。
「何かあったか? 幽谷」
「ご依頼の件、雪蘭殿のことが分かりましたのでご報告に」
途端、公孫賛の手から書簡が落ちた。
「それは、本当かっ?」
「はい」
彼も、まさか依頼したその日に分かるとは予想だにしていなかっただろう。書簡を拾うこともせずに、信じられないとでも言いたげに幽谷を凝視した。
「私も時間がございませぬ故、簡単に結果だけ申し上げます」
公孫賛が頷くのを確認し、言葉を続けた。
「雪蘭様は、猫族の隠れ里を去っておりました。そして、すでにお亡くなりになっています。彼女の知り合いが極秘に探していたようで、間違いは無いかと」
取り乱すかと思われた公孫賛の反応は、意外に落ち着いたものだった。
「……そう、か。すでに亡くなっていたか」
「……想像は、なさっていたようですね」
彼は、首を左右に振った。
「いや、想像ではない。己の中で、別の誰かがその可能性を囁きかけていたのだ。それを何度も何度も否定し続けていたが、本当に亡くなっているとはな……正直、すぐには信じられそうにもない」
「……今まで連絡などは一切無かったのですから、そのような考えになっても、無理も無いことなのかもしれません」
やっとのことそう言って、幽谷は一礼した。
関羽のことは言わない。このまま話さずに、関羽も知らずに終わらせるつもりだった。
「では、私はこれにて失礼致します」
「ああ、すまぬ。忙しい中彼女のことを調べてくれて、ありがとう」
「いえ……」
これで関羽のことを彼が知れば。
雪蘭の忘れ形見として、父親として出来ることをしようとするだろう。幽州太守の座を与えようともするかもしれない。それだけは絶対に許してはならない。
関羽は、そのような座についてはならないのだ。
幽谷は落胆した風情の公孫賛をそのままに新たに札を銜え、公孫賛の私室より退出した。
それから暫く、回廊を歩いていた幽谷はふと足を止める。
『では、厩にいるから幽州を出る時には声をかけてくれ。国境まで送ろう』
趙雲からそんなことを言われていた、ような覚えがある。
……彼のことは放っておけば良いかと思って歩き出すが、また止まってしまう。つかの間思案し、忌々しげに舌打ちすると、足先の向きを変えて大股に歩き出した。
‡‡‡
厩の前に、彼は立っていた。幽谷が来ることに気を遣ってか、厩番は何処にもいなかった。ただ、幽谷に気付いた馬達が少しばかり騒々しい。懐いてくれるのはとても嬉しいのだが、今は彼らに構っている暇が無かった。
幽谷が札を外して彼に近付けば、気付いて嬉しそうに笑った。何がそんなに嬉しいのか、この男は本当に分からない。
無表情な幽谷はけんもほろろに、
「挨拶をしにきただけです。ずっとここで待たれていても迷惑ですので」
しかし、趙雲は笑顔を崩さない。
身体の向きを変えて愛馬の方へと歩いて行こうとする。
「そうか。だがそろそろ日が暮れる。一人で行かせるには危険だ。送っていこう」
幽谷は首を左右に振って拒んだ。
「不要です。お構い無く。では、私はこれで」
言うや否や、彼女は厩の屋根に飛び乗ってそこから駆け出す。
趙雲が「気を付けて帰れよ!」と大音声をかけるのに、知らず知らずのうちに舌打ちが漏れてしまった。
彼は、幽谷が四凶であることを忘れているのではないだろうか。
……有り得そうで、怖い。
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