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 幽谷は、曹操の隣で言葉を失っていた。驚愕ではない。呆れ果ててだ。

 自分達がこの兌州に来て数日、そろそろ関羽もここの生活に慣れ始めていた。
 だが最近の関羽はどうも気が重い。
 どうせまだ報告の文を送ることに躊躇いを感じているのだろう。

 それを、曹操に見抜かれて、挙げ句報告書を見せた結果が、これである。


「怪我の具合からその日の機嫌まで……毎日私の様子を綴っているのか……? なんだ、この今日のひと言とは!?」

「……申し訳ありません。少々頭が、」

「だ、だって! わたしが一番よく調べられるのって、一番近くにいる曹操のことなんだもの!」

「……関羽のお姉さん、あの時の僕の話聞いてなかったんだね」


 さしもの泉沈も、これには呆れ返っている。「本当にここに馬鹿がいるよ」と、色違いの目が語っている。

 幽谷はこめかみを押さえて大仰に溜息をついた。先に報告の文を送っておいて、心から良かったと思う。


「……我が国の諜報報告が、私の怪我の経過報告とはな…。これを幽州の人間たちが見るのか……」

「申し訳ありません」

「うわ、幽谷のお姉さんが紫のお兄さんに謝っちゃった。相当だよ、これ」


 曹操は深々と溜息をついた。


「まぁいい、好きにしろと言ったのは私だからな。とっととその文を出して己の役目を果たすことだな」

「曹操……! あ、ありがとう」

「お礼まで言っちゃってるけど良いの? 幽谷のお姉さん」

「……私の報告書は先に送ってあります。それは、さすがに送らないで下さいませんか」

「え!? 駄目なの?」


――――無理矢理にでも幽州に返そうか。
 一瞬、そんな考えが浮かんだ。



‡‡‡




「関羽様の報告書は、私が直接公孫賛様にお届けします」


――――結局、こうなる。
 もしこれが公孫越の目に触れでもしたらと思うと、とても他人に任せられることではなかったのだ。
 幸い、幽谷一人なのだから走ればそれ程日が経ちはしないだろう。

 泉沈にしっかりと関羽の護衛と監視を言いつけ、本人にも何度も釘を刺して兌州を出た彼女は、城門を出た瞬間に地を強く蹴った。
 それから自然を駆け抜け真っ直ぐに、幽州を目指す。

 休むことも忘れていないが、それよりもすぐに用を終わらせて関羽のもとに戻りたいという気持ちが遙かに勝っていた。それに、泉沈がまた余計な敵を作っていないか心配でもあった。

 日数を無理矢理縮めて幽州に至る頃には、彼女も珍しく肩で荒い息をしていた。

 城門をくぐって彼女は迷わず公孫賛の居城に向かう。眼帯で片目を隠すことも忘れていない。
 兵士に謁見を求めるのも面倒なので、直接公孫賛の私室を探すことにした。札を口に銜えて城内に侵入した。

 途中趙雲を見かけたが、あちらには見えていないのだし、話したくもないので無視を決めた。


「……ここ、か」


 中から公孫賛の声がする部屋の前で立ち止まり、幽谷は扉横の壁に寄りかかった。先客が退出するのを待つ。声を聞くに、どうやら公孫越のようだ。


「では、失礼致します、兄上」


 扉が開いた瞬間、幽谷は動く。さっと身体を滑り込ませて公孫賛の私室へと侵入した。

 閉められた後、幽谷の侵入に気付かない公孫賛は、溜息をついて手にした書簡を机に置いた。
 彼が落ち着いたのを見計らい、幽谷は札を外して声を発した。


「公孫賛様」

「! 何者だ!」

「幽谷です」


 その場に座り込んでこうべを垂れれば、公孫賛も即座に警戒を解いた。


「幽谷。戻ってきたのか」

「関羽様からの報告書をお届けに」


 懐にしまってあった文を彼に差し出す。一瞬、本当に渡して良いものか躊躇した。だって、内容が……。

 公孫賛は苦い顔をしたものの、幽谷に労いの言葉をかけて文を受け取った。そして、開く。
 ……彼が噴き出すのに、時間はかからなかった。


「……後から、ちゃんとした報告書が届きます故」

「いや、関羽らしい。どうやら元気でやっているようだな。ただ、文の内容を見るに曹操の側にいるのか?」

「少々、込み入った事情ございます」


 理由は訊かないでくれと言外に伝え、幽谷は立ち上がった。こうしている間にもここを訪れる者もいるだろうし、何より関羽のもとに早急に戻らねばならない。幽州に長居するつもりはなかった。


「では、私はこれにて」


 一礼して部屋を辞そうときびすを返すと、


「……、いや、少し待ってくれぬか。お前に、折り入って頼みたいことがある」


 幽谷は足を止めた。公孫賛を振り返り、眉を顰める。


「何でしょうか」

「頼みごとの前に、話さねばならぬことがある。座ってくれ」


 悠長にしている暇は無いのだが。
 そう思いつつ、幽谷は彼の指示に従い端座する。

 公孫賛も、彼女と向かい合うように鎮座した。
 そして遠い目をするのだ。
 つかの間の沈黙の後、彼はゆっくりと語り出す。


「……若い頃の話だ。もう十五年以上前になるか。当時はこの辺りに流浪の民族が多くてな、彼らの襲撃が日常茶飯事であった。私も父に付き従って、各地で彼らとの戦いに明け暮れていたのだ」


 ……長くなりそうだ。
 面倒だと感じたが、それをおくびにも出さず幽谷は公孫賛の耳に傾ける。


「戦いは長年続いたが、ようやく彼らをこの力追い散らす機会ができ、私は部下達と追撃を行っていた。だが少々油断をしてしまってな、気付くと見知らぬ土地まで迷いこんでしまい、味方とも離れてしまっていた。罠だったのだ。追い詰めていたはずの彼らは一気に反転し、味方とはぐれてしまった私に向かってきた。私は太守の息子、捕らえれば良い人質になると思ったのであろう。私は包囲を抜けながら、森へ逃げ込んだ。だが追撃の手は緩まなかった。私はそこで死を覚悟した。敵の手に落ちるくらいならいっそ自決すべきだろう、とな」

「しかし、今あなたはご存命です」

「ああ。そこに現れたのだ、彼女は」

「彼女……?」


 公孫賛は目を伏せ、やおら頷いた。


「そうだ、私が生涯で唯一愛した女性だ」


『そこまで十三支に肩入れするとは、どうやら兄上はいまだにあの女のことを引きずっておられるようだ。兄上をたぶらかした、あの卑しい女を……』


 脳裏に公孫越の言葉が蘇った。
 まさか、その女性は――――。


「――――猫族の方、だったのですね」


 公孫賛は首肯する。


「間近で猫族を見たのは初めてであった。おそらく彼女も、人間を見るのは初めてであったはずだ。私は彼女に事情を話した。すると彼女は、この森は庭同然だから私をかくまってくれるという。そして彼女のおかげで追撃の手を振り切り、私は命拾いできたのだ。後で聞いた話だが、その森には猫族がいるということで、周辺では近寄らないように恐れられていたらしい」

「その女性を、私に捜せと」

「ああ。彼女と共に帰還して、暫くは幸せな日々が続いていた。彼女も皆と打ち解け、理解してくれた。……だが、私が彼女との結婚を決意し、父に報告した時だ。父の顔色が変わった」


 所詮、そんなもの。
 苦渋の滲む公孫賛はその時の口惜しさを思い出しているのだろう。されど、幽谷には彼の気持ちを察することは出来ない。そのような関係を持つ者はこれまでもこれからも無いのだから、人間と猫族、その愛を果たせない悔しさなど、想像してもとても薄っぺらいものだ。

 幽谷は何も言わず、彼がまた語り出すのを無表情に待った。


「結局は誰も、彼女を受け入れてはいなかったのだ。彼女は人に絶望することもなく、いつかわかってもらえる日がくると言ってくれた。私も時間をかけて父を説得しようと思った。いつか彼女が認められるだろう、と」


 だが……ある日、彼女の姿が消えていた。
 父が追放したのだ。
 それだけではないとは、話を聞く限り彼女の人柄を思えば予想出来る。

 公孫賛は、それ以後彼女に会うことは無かったという。


「やがて父はなくなり、私は太守となったが、彼女のことは忘れられなかったよ。この歳までな。私は人々に伝わっている猫族の悪しき印象を正すため、その本当の姿を人々に説いていった。それが私からの、彼女へのせめてもの償いになると思ってね」

「何故、それを私にお話になるのです。私は猫族ではありませんし、四凶です」


 話すのならば、せめて関羽なのではないだろうか。
 そう言うと公孫賛は口角を弛めた。


「彼女の話に、四凶が出たのを思い出したのだ。私の前に、あの森で四凶を助けたと。名前は聞いていないが、確か……赤と緑の瞳をしていた、と。とても哀れな男だったと話していたよ。お前ならば、その男のことを知っているかもしれぬと思ったのだが」


 幽谷は固まった。
 赤と、緑の目。
 ……まさか。


「……煉?」

「知っているのか?」

「……いえ、ですがどうして今になって?」


 かぶりを振って否とし、話を戻す。動揺は押し殺した。


「……関羽を見た時に、彼女のことを思い出したのだ。それから、再び会いたいという気持ちが日に日に強くなっていった。すまぬ。もう、私自身にもどうしようも無くてな。だが、猫族に頼むにも、彼らは今、蒼野に村を作ることで精一杯だろう。関羽のもとに早く戻りたい心中を察して、お前に頼みたい。私は彼女に会ってあの時のことを謝りたいのだ。勿論余裕のある時で良い、時間をかけても良い。どうか、彼女を捜してくれないだろうか?」


 幽谷は、押し黙った。
 赤と青の瞳が、困惑に揺れる。

 赤と緑の瞳を持った、男。
 それは、明らかに彼女の知る人物だ。
 だが、どうしてその女性が助けるような羽目に……?

 ああ、もう。
 混乱する。



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