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 目覚めた時、日は昇りきっていた。
 寝衣のまま外に出ると、部屋の前で泉沈が小鳥と戯れながら欄干に寄りかかっていた。
 彼は幽谷に気が付くと表情を晴れやかにして幽谷に抱きついてきた。


「泉沈」

「おそよう、幽谷のお姉さん。三日振りだねぇ」

「三日……そんなに?」


 泉沈の肩に手を置いて、記憶を手繰る。
 曖昧だったそれが鮮明になると右の上腕に手を置いて感触を確かめた。

――――広がっている。

 やはりこの鱗は、あの手の所為なのだ。
 幽谷は奥歯を噛みしめた。自分は、本当に化け物なのか、胸にどんよりしたモノが渦巻いた。一気に重たくなったような感覚に襲われる。

 関羽が自分の着替えを請け負ったのならと、更に重い。


「お姉さん?」

「……いえ、何でもないわ。それよりも関羽様は?」


 さっと話題を変えるが、泉沈はそこで口を閉ざしてしまう。幽谷から離れ、言いにくそうに視線を明後日の方にさまよわせる。
 幽谷は目を細めた。


「泉沈」

「あのね、僕口止めされてるんだー。幽谷のお姉さん絶対怒っちゃうから」

「そう。では本人に訊くことにするわね」


 また、何かやっているらしい。
 幽谷は溜息をついて、寝衣のまま歩き出した。


「あ、ちょっと、幽谷のお姉さん!! 着替えないと、怒られちゃうよー」


 それどころではない。



‡‡‡




「……関羽様」

「ごめんなさい」


 寝衣姿で腕組みした四凶が、回廊の隅で十三支の娘を土下座させている。しかもこの四凶、酷く怒っている。
 夏侯淵は彼女のただならぬ雰囲気に二の足が踏めないでいた。

 何で、四凶は寝衣なんだ!
 そう怒鳴りつけてやりたいが、話しかけられない。


「曹操殿の身の回りを世話をすると? 住まわせて貰うお礼に? あなたは馬鹿ですか?」

「ごめんなさい。本当にごめんなさい!」

「曹操殿がまだあなたを自軍に入れたがっているのですよ。どうしてそうも自分から彼に接触するようなことをするのです。そのうち絆されてしまいましょう。猫族のもとに帰れなくなった時、辛い思いするのはあなたなのですよ。その時あなたのもとに私がいるかも分からないのですから……」

「で、でもやっぱり応急処置をしたのはわたしだし……心配なのよ」


 四凶はそこで溜息をつく。いや、むしろ溜息をつきたいのは自分の方だ。彼女らの脇を通らなければならないのに、あの雰囲気では通れない。近付くことすら気が進まない。

 苛立ちを募らせながら、夏侯淵はその場に立ち尽くす。

 すると、そこに夏侯惇までがやってくるのだ。


「どうした、夏侯淵」

「あ、兄者……あれ」


 四凶と十三支を指差すと、夏侯惇の眉間にぐぐっと皺が寄る。


「……何だ、あれは」

「それはオレも訊きたい。だが……四凶の様子がいつもと違うから、近付きがたいんだ」

「……」


 夏侯惇は二人を見つめると、ふと吐息を漏らした。
 かと思えば、大股に二人に歩み寄るのだ。これには夏侯淵も驚いた。


「あ、兄者!」

「おい、四凶、女」


 夏侯淵は彼を慌てて追いかけた。
 だが、


「……何でしょうか」


 ぎろり。
 四凶に睨めつけられて二人共足を止めた。
 彼女はすこぶる機嫌が悪い。

 十三支が視線で何かを訴えているが、彼らには少しも伝わらなかった。


「用が無いならさっさと何処かに行って下さい。私はまだ関羽様に《お話》がありますので」

「……邪魔だ」

「ですから、こうして隅にいるではありませんか。そちらを通ればよろしいでしょう」

「その殺気を抑えろと言っているんだ。居候の身だからと、思い上がったことをするな。それに……お前はこの間死にかけた筈だ」


 四凶は僅かに目を瞠った。夏侯惇から目を逸らし、ふと右の上腕を掴む。それに、十三支がはっとしたように彼女を見上げた。


「……私は大丈夫です。ただ、溺れかけただけです。あれでは死にかけたとは言えません」

「か、夏侯惇、夏侯淵! 邪魔しちゃってごめんなさい!」


 不意に十三支が立ち上がると、四凶の手を掴んで走り出す。驚く彼女は抵抗すること無く、主人に従った。

 夏侯淵はそれを呼び止めようとするが、夏侯惇が手でそれを制する。


「放っておけ。それよりも、何か用事があったんじゃないのか?」

「え? ……あ! そうだった。すまない、兄者」

「ああ」


 軍のことで、曹操に話さなければならないことがあったのだった。
 夏侯淵はそのことを思い出し、頭の中から四凶達のことを追いやった。慌てて駆け出し曹操の私室へと急行する。



 その背中を苦笑して見送った夏侯惇はふと、己の手を見下ろした。



‡‡‡




 幽谷の部屋へと駆け込んだ関羽は、廊下に人気が無いことを確かめて扉を閉めた。何処かに行ってしまったのか、部屋の中にも外にも、泉沈の姿は無かった。
 幽谷を寝台に座らせて、真面目な顔で問いかけた。


「幽谷。夏侯惇に右腕のこと話したの?」

「……話してはいませんが、あの時、張飛様に見つかる前に握られました」


 それがどうかしたのかと訊ね返すと、関羽は暫し黙り込み、声を潜めた。


「あのね……幽谷が眠っている間、夏侯惇に訊かれたのよ。……右腕のこと」


 驚きはしなかった。
 「そうですか」と静かに返すと、関羽は目を丸くする。


「驚かないの?」

「彼の性格を思えば、曹操殿を守る為に怪しきを追求するでしょう。夏侯淵殿であれば、即座に斬りかかってきたかも知れません。それで、問われた時どのようにお答えに?」

「一応気の所為よって言っておいたけれど……信じてくれてはいないと思う」

「そうでしょうね。……彼は、私の右腕を見ましたか?」


 関羽はかぶりを振って否と答えた。泉沈を監視役にしたそうで、夏侯惇が幽谷の部屋に近付く時は必ず扉の前に立って牽制していたそうだ。幽谷を運ぶ時も、関羽が一緒にいた際には右腕を気にする素振りも無かったようだ。

 ならば、これから先探りを入れてくるかも知れない。


「警戒は、しておきましょう」

「そうね。わたしも、夏侯惇の動きには注意しておくから」

「ありがとうございます」


 礼を言うと、関羽は幽谷を寝かせようとする。
 幽谷はその手を止めた。


「しかし、関羽様」

「え?」

「私はまだあなたに話がございます」


 直後、関羽の顔が青ざめたのは言うまでもない。



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