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あれからと言うもの、また寝台から離れられなくなってしまったのを良いことに、劉備は毎日幽谷のもとへ遊びに来るようになってしまった。
関羽を伴っていたり、更に張飛もいたり、訪れては部屋で無駄に騒いで部屋を散らかしていく。関羽が片付けてくれるから良いものの、幽谷にとっては彼らが部屋に来ること自体迷惑だった
死のうとしたことがあったからか、足の痛みが無くなっても外出許可は出ない。完治してもこの家屋から出してもらえないんじゃないかと思えてくる。まあ、その時は抜け出すつもりでいるけれど。
「見てみて! お花いっぱい摘んできたの」
今日は、胸一杯に色とりどりの花を抱えて劉備は現れた。関羽と一緒だった。
「……綺麗な花ですね」
「うん! 関定が、女の子はお花が好きだって言ってたから。幽谷は、お花好き?」
「そうですね……好きな方だと思います」
手渡され、花の香りが鼻孔を擽(くすぐ)る。
嗅いだ記憶の少ない芳香に、知らず表情が弛んだ。
「……笑った」
ぽつり、関羽が漏らした。
はっとすぐに引き締めても遅く。
「笑ったお顔!」
劉備まで顔を輝かせた。
「ねっ、関羽! いま幽谷笑ったよ!」
「ええ」
二人は喜ぶが、幽谷にとっては思いがけないことだった。口を押さえて茫然とする。
笑う、なんて……。
まさか自分が笑えたなんて思わなかった。
あんな風に笑ったことなんて無かった。いつも無表情を心掛け、浮かべるにしても嘲笑や作り笑いなど、そんなものだった。
私……笑えたのか。
もう忘れていたとばかり思っていた。
人間らしい部分など、自分にはとうに存在していないのだとばかり思っていた。
これは喜ぶべきなのか、幽谷には分からなかった。
ただ、何故か懐かしいとは感じる。微かに、胸の片隅が温かい気がする。
――――いけない。
不意に、幽谷の中で誰かが囁いた。
いけない、死ぬ前に何を取り戻しているのかと幽谷を叱りつけた。
それに、はたと我に返る。
「……花は、大切に飾らせていただきます」
だからもう帰れと、暗に言った。
だが、関羽には分かっても劉備には通用しなかった。
「えへへ」
心から嬉しそうに笑いながら彼は寝台に腰掛ける。
関羽も微笑ましそうに笑いながら寝台へと近付いた。
「花はわたしが飾るわ」
「恐れ入ります」
関羽に花を手渡せば、途端に劉備が今日何があったのか話し出す。大体いつも似たような内容ばかりなのだが、ここは長閑(のどか)な村なのだから仕方がない。
時折適当な相槌を打ちつつ、幽谷は聞き手に徹した。以前興味が無いと断った際、涙ぐまれてこちらが悪いような状況になってしまったから、以来やむなしと付き合っているのだ。
たまに出てくる人名が分からないが、それはまあ流しても構わないだろう。
「幽谷は、何か好きな食べ物はある?」
「いえ、ございませぬ」
「じゃあ嫌いな物は?」
「ございませぬ」
関羽も、劉備の話が途切れた頃に他愛ない質問をしてきた。それにも、にべもなく答える。
「そっか……じゃあ明日おやつを作ってくるわね」
「おやつ!」
「……」
要らないと言いたいのだが、隣で喜ぶ少年に悪い気がしてなかなか言い出せない。自分はこんな優しい性格をしていなかった筈なのだが。
「劉備様、関羽。世平叔父が呼んでる」
毎日のことながらうんざりしていると、淡々とした声音と共に、一人の少年が部屋に入ってきた。一見、女子とも見えてしまうが、声の低さで男と分かる。
「あら、蘇双」
「彼女のことで、話があるんだって」
「……」
蘇双と言うらしい少年は、幽谷に冷めた一瞥をくれた。敵意に満ちた眼差しであった。
「分かったわ。じゃあ劉備、一旦世平おじさんのところに行きましょう」
しゅん、と劉備の耳が少しだけ倒れる。
「……また、幽谷のこと追い出そうとするの?」
「さあ、どうでしょうね。少なくとも、ほとんどは出て行って欲しいと思っているでしょうが」
半分は幽谷に向けられたものだ。
蘇双もまた、幽谷に出て行って欲しいのだ。
無意識のうち、口角が弛む。自嘲の笑みを浮かべた。
「じゃあ、ボクは先に行ってるから」
「ええ、ありがとう」
蘇双が出て行くと、不機嫌になった劉備を関羽が説得し、幽谷に「また戻るから」と言って部屋を出ていった。
もう来なくて良いのだけど……。
幽谷は、溜息をついた。
もう彼らと馴れ合いたくはない。
戻ってはならないものが戻ってくる気がするから。
私は死にたい。死ななければならない。そう思うだけで良い。
死ぬ時は、舌を噛むのと、首を切る……この二つの方法以外のやり方で。
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