がしゃがしゃと耳に障る音を立てて牌を弄るように混ぜる男を尻目に、谷村は座り心地の悪い椅子から立ち上がった。


「兄ちゃん、おしめぇかい?あともう一局やろうや」

「生憎と、もう手持ちがないんだ。」


そう言ってポケットに突っ込んだ手を出して肩をすくめると、男はより一層、下卑た笑いを浮かべた。


「ヒヒッ!そうかい?兄ちゃんの身体を賭けてくれたって俺ぁかまわねぇよ?なぁに、簡単さ。ちょっと舐ってくれりゃぁそれでいい。」


「…やめとくよ。そっちの方は初心者なもんで、間違って喰いちぎったりしたら、事だろ?」


おぞましい事を言う男を、あしらって雀荘を後にする。


バタン、と苛立ちを表すかのように、分厚い曇り硝子の扉を閉めたのに、直ぐにまた開けられた。

しつこい男が後を追ってきたのかと、
少し身構えるが振り返るより先に、申し訳なさそうな声で名前を呼ばれた。
その声色から、背後にいるのが雀荘の店長だと分かると、谷村は柄にもなく安堵を覚えて振り返った。


「谷村くーん、ごめんね。なんかあのお客さん、最近よく来る常連なんだけど妙な絡み方するようになっちゃってさ。」

「いや、いいよ。店長のせいじゃないし。ただ俺のツキがなかっただけだし。」


危うく唾でも吐いてやろうかとも思ったりもしたが、馴染みの店だし、やめておいて正解だった。

谷村の対応にホッとした様子の店長はもう一度、顔の前で両手を合わせて謝罪の言葉を述べてから店内に戻っていった。


何度目かわからない欠伸を噛み殺しながら、
雑居ビルの出入り口になっている細くて多少急な階段をいつもより慎重に降りる。

どういう訳かこういう時は誤って足を踏み外すことも珍しくない。


踊り場で岡持ちを持った女とすれ違う。
チャイナドレスの印象から察するに中華料理店だろうか。
年季の入った岡持ちに書かれた店名は谷村の知らないものだった。

踊り場といえど狭いそこでは体を斜めにしてお互いに道を譲ったつもりであったけれど、肩と肩がぶつかった。


「失礼。」


女の声は若々しく、軽快だ。


「あら、あなた、とてもラッキーだわ。」


寝不足と苛立ちで鈍くなった頭と耳に意味のわからないことを言われたが、いつもよりも反応が遅れたようで、
谷村が振り返った時には女は階段を駆け上がり、
先ほど谷村が出てきた雀荘の扉を開けているところだった。

少々気になるけれど、わざわざ追いかけて問い詰めるようなことでもない、と。

正常な谷村だったら、こんな早朝に出前をする中華料理店なんてこの街に存在しないと思いついただろうに、
まだ少なくとも、数秒のうちは、これから帰宅して熱いシャワーでも浴びて幸せな眠りにつく事を考えていられる猶予は確かにラッキーかもしれない。


階段を降りて路地に出ると同時に
谷村の鼓膜を襲ったのは、



悲鳴と、ガラスの割れる派手な破裂音だった。



一気に鈍った頭が覚醒し、降りてきた階段を駆けあがろうと踵を返すと、どすん、という重たい何かが落ちる音。

逡巡して、再び路地の方へ視線を移せば、そこに転がっていたのは先ほどまで同じ卓を囲んでいたあの男だった。


「おい、お前、どうした…」


駆け寄って、うずくまる男の肩に手をかけて言いながら、背中にぞくりとしたものを感じた。

男は粉々のガラスの上で体を丸めているあたり、自らか、誰かの手によってなのかは分からなかったが、路地裏に面する雀荘の窓から落ちてきたことは疑いようもない。
よく見ればすぐ近くに、先ほど見た雀荘内の窓に取り付けられていたブラインドもひしゃげた状態で落ちている。

たまに呻く男の顔や手のあちこちにある擦り傷は大したことはなさそうだが、中心から漏れる血は間違いなく
‘何か’の武器で攻撃されたことによる出血で、見る見るうちにその血はアスファルトへと広がってゆく。

続いて、雀荘の開け放たれた窓から、男たちのワンテンポ遅れた悲鳴が次々に上がり始めたのが耳に届いて、
谷村が顔を上げると、もう一度、ガシャンと大きな音がして、今度は窓枠と一緒に黒い影が谷村めがけて降ってきた。

正確には、谷村が駆け寄った男に向かって、なのだが。


本能的に、男をかばうようにして膝をついて覆いかぶさると、影は谷村から人間一人分あけた右側の位置に着地した。



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