10 名前は夜蛾のところへ任務の報告へ行く途中の高専の廊下で、魅惑の白いもふもふに遭遇する。 パンダ君、と名前が声をかけてふらふらとそちらへ行くと、パンダは無言で手を広げてくる。 その広げられた腕の中へと、名前は迷わず飛び込んだ。 「う〜・・・!このもふもふ癖になる〜!!癒されるー・・・」 「もう〜名前ったら好きだなぁ。悟の奴には内緒だよ〜。」 ぎゅう、とパンダが名前を抱き締めていると、横から真希が呪具の柄でパンダを突いている。 名前とパンダの遣り取りは一昼夜で出来るものではないから、中々の仲なのだろう。 不機嫌そうな真希の瞳に、パンダは不思議そうに返すことしか出来ない。 「お前、名前さんとバカの関係知ってただろ。」 「そりゃあ、俺は名前がこっちに来たときから知ってるし。」 「だったらこの間一年と騒いでたときに教えてくれてもいいだろ!!」 「おかか!!」 「いやあ、皆盛り上がってるのに水さしちゃ悪いじゃん。」 パンダの胸に顔を埋める名前は幸せそうにだらしない顔をしていて、パンダはその頭を撫でている。 真希は、パンダの横腹を柄で突付いて、狗巻も一緒に横腹を4本の指で突付いている。 ふにゃふにゃの顔でパンダに顔を埋めている名前に、もふもふを突付きながら真希は素朴な疑問をぶつけてみる。 「つーか、名前さんてさ、バカのどこが良いの?」 「えぇ?わかんない?真希ちゃんもまだまだ子どもだなぁ。」 名前もパンダも、バカ、が五条だとわかって話している。 名前は、ほんの少しだけ、困った子だなあ、という顔をするから、真希は苛っとしてしまう。 名前のことは真面目で五条との相性は差程良くないと思っていたのだが、もしかしたらお似合いなのかもしれない、と真希は考える。 「男はね、顔、財力、権力、に限る。」 「・・・俗物。」 「しゃけ・・・」 ふにゃふにゃの顔をしていた名前が、そこだけはキリリとした顔で真面目に答えてくれるが、まだ思春期の真希と狗巻にはどうにも大人の汚い部分を見ている気がして眉を潜めている。 「あ、あと包容力があったら最っ高・・・!この包容力には流石の悟も負けるなあ。」 「しようがない女だなあ、名前は。悟に飽きたらいつでも来ていいんだよ。」 「あら残念。顔は可愛いから、あと財力と権力お願いね。いつでも来る準備出来てるから。」 名前がパンダの頬をもふもふと撫でて、パンダも名前の頭を撫で返してイチャイチャしてる両脇で、真希と狗巻のパンダを突付く手が止まらない。 名前の返しはパンダを使って、ただおちゃらけているだけだなんて、真希にも狗巻にもわかっている。 名前がはぐらかしに来ているのは何となくわかるが、一年のような、基、虎杖のような天心爛漫さがあればもっとぐいぐいと切り込んでいけるのに、子どもと言えど大人社会に身を置いている彼女らは空気を読んで身を引いてしまう。 そろそろ夜蛾学長のとこ行かなきゃまだ任務あるはずなんだよね、と急に身を翻した名前によってこの話は終わりとなった。 名字さんなら他にいい人いるんじゃないですか、と七海に言われて名前は肩を竦める。 今日はこういった話題の日なのだろうか。 真希達にも、五条のどこがいいのか、と聞かれたすぐ後のことだった。 夜蛾に伝えられた任務に七海と行き、難なく祓って帰るところだった。 補助監督が迎えにくる合流地点への道すがら、まさか七海からそんな話題を振られるとは名前は思いもしなかった。 任務で一緒になった瞬間に、先日は失礼しました、いえあなたも大変ですね、と軽く挨拶をしてあの件は終わったはずだった。 七海が恋愛的な話を振ってくる程お喋りにも見えないが、先日五条が彼の目の前で名前にあれやこれやとしてきたことを思えば、寧ろその話題を振らないことの方が不自然かもしれない。 ギクシャクとしてしまうことを思えば、わだかまりをなくすためにもこの話題が妥当だ。 それなりの返しをすれば、七海も引いてくれるだろうと名前は口を開く。 「そう思うこともあるんですけど、悟よりも顔も体も財力も権力も上の人っています?」 いませんね、しかし性格が問題です、と返ってくるだろう七海の返事があれば、あとはどうにか名前が茶化してこの会話を終わらせることが出来る。 俗物的な女だ、とそう思われた方が楽でいい。 「あなたは、そういうものに重きを置く女性には見えません。」 予想しない七海の返しに、隣りを歩く彼を思わず名前は凝視してしまう。 何故流さない、と名前が疑問の瞳を向けると七海はその視線を感じているはずなのに、真っ直ぐ前を見ているだけだった。 「七海さんてもっと大人だと思ってました。」 「急に何ですか。」 「流してほしくて言ったのに、流さないから。」 「事勿れで流すことが大人だとは思いません。」 淡々とそう言う七海の口調は何処か厳しくて、一つ年下のはずの彼に名前は何故だか萎縮してしまう。 「これって何の時間ですか?尋問ですか?」 「いえ、忠告のつもりです。」 「忠告ですか?」 困ったように名前が眉を下げると、七海は少しだけ口調を和らげてくれる。 名前が五条に押さえ込まれている絵面は、見ていてあまり気持ちの良いものではなかったから、気遣いのつもりで言ったのだが、どうも上手くいかない。 「その気がなくて、五条さんに押しきられているだけならやめた方がいい。」 「その気がないこともないのが問題なんですよね。」 名前が他人事にそう言うのを、今度は七海が驚いた顔で隣りの名前を凝視する。 嫌がっているわけではないらしいことに驚いている七海のその表情に、名前は肩を竦めて見せる。 先程はぐらかそうとしていたのに、素直に答えてくる名前にも七海は驚いた。 「どうかしました?」 「はぐらかされると思っていたので。」 「事勿れで流すことが大人じゃないって言ったのは七海さんですよ。」 苦笑いしている名前に対して、急に彼女が本心を覗かせる意図がわからなくて七海が困惑している。 「たまにね、誰かに話したくなるんですよ。人間て面倒ですね。自分で決めたくせに、秘密を抱えて生きられない。」 「家入さんに話しているのでは?」 「硝子ちゃんにこそ言いません。別の理由は知ってますが。」 「何故?」 「硝子ちゃんは私より悟派なので。」 悟に話した方が良いことは話してしまうと思います、と名前は言う。 そういえば、名前が困った顔をしていたのに家入は助け船を出すどころか五条の好きなようにさせていたな、と七海は思い出す。 家入こそ事勿れ主義で、自分に火の粉が飛んできそうであればさっと逃げ出すだろう。 名前と五条を天秤にかければ、より面倒そうな五条に寄るだろうことは想像に容易い。 「最初、五条さんより良い人がいない、と言うように聞こえましたが、正気ですか?」 「正気ですよ?え?気が触れてるみたいな扱いになるんですか?」 「そうですね。確実に。」 「悟の扱い・・・」 知ってはいたけど、と名前が苦笑いをしている。 じゃあ相当私は頭がおかしいんですね、と笑っている名前は、どうにも俗物的な人間には七海には見えない。 「どこが好きかなんてないんです。ただ、愛しいと思ったら、そこからもうずっとそうなってしまったんです。悟ほど私を愛してくれる人もいません。だから、ずっと側にはいたいんです。」 そのうち悟が飽きてくれるかもとも思ったんですけどそうはなりませんでした、と続ける名前の言葉を、七海は余計に不思議に思う。 五条も名前も両想いならば、何故距離を置いた付き合い方をしているのだろうか。 周りの人間の平和を考えたらくっついてくれた方が環境改善になる。 「名字さんがそういう気持ちなら、五条さんを受け入れてはどうなんですか?」 「悟の隣りにいるには、いくら一級でも私は弱すぎます。せめて悟に良いようにされない程度に並びたいけど、中々特級の域にはいけません。」 「名字さんが良いようにされた方が幸せな人もいますよ。」 「え?私、生け贄?」 真面目な話をしてるつもりが、何故か七海が名前を弄ってくるのだが、五条のせいで扱いが変わったのかもしれない。 名前は、気を取り直して人差し指を口元に添えて見せる。 少し悪戯っ子のような表情を見せる名前は、今五条に対する愛を囁いた雰囲気とはそぐわない雰囲気を持っている。 「ここからが秘密の話です。悟も硝子ちゃんも学長も、私の一族も誰も知りません。」 「それを私に話して良いんですか?」 「七海さんは口が固そうなので。それに、悟も知らない秘密ってポイント高くないですか?」 「そう言われると、興味がわきますね。」 悪戯っ子な表情の名前に乗せられて、七海は秘密を聞こうとする。 人の秘密を知るだなんて、百害あって一利なしではあるが、五条の知らない名前の秘密、というワードはどうにも魅力的だった。 「私、相伝の術式を持ってるんです。私の一族では私だけです。」 内緒ですよ、と言う名前の言葉に、七海は驚いている。 名前が強いのは知っているが、相伝の術式に関しては初耳だった。 術式持ちというだけで界隈での地位や周りの見る目は大分変わる。 それが相伝ともなれば余計であるし、先程五条の隣りに立てるようにと言っていたことにも助けになるはずだ。 あえて秘密にしている理由が七海にはわからない。 「何故黙っているんですか?周りの見る目も変わるでしょうに。」 「相伝の術式は貴重です。私がそれを持ってると知れば、私の一族は私に子どもを産ませるために連れ戻すでしょう。」 「前時代的、と言いたいところですが、呪術師不足は深刻ですからね。」 「時の流れと共に血が薄まって相伝の術式は失われたと思ってるんですよ、うちの人達。だからバレたら貴重な遺伝子を手元に置くはずです。」 相伝の術式が引き継がれなくなった、という見方を名前の一族はしていたが、それが何をどう間違ったのか、突然変異なのか分家の末端である名前に現れてしまった。 強くなりたい名前には術式を持つことは好都合ではあったが、上京して好きに術師を続けたい彼女にとっては知られてはいけない秘密だった。 それはわかるが、そもそもそれを五条に黙っているのは何故だろうか、と七海が不思議に思っていると、名前の方から口を開いてくれる。 「御三家なんて余計に血を気にするでしょう?私の相伝の術式の遺伝子が、五条悟の遺伝子を喰うかもしれない。まあ、私の方が劣性だとは思いますが。聞いたことないですけど、悟にも然るべき人が決められてると思いますし。それを邪魔するつもりはないんです。」 今凄いことサラッと言ったな、と七海は内心でだけ吃驚している。 好いている男に別の女が宛がわれるということを当たり前に受け入れている名前に七海は驚いた。 普通そういった場合、嫉妬にでもかられるのではないだろうか。 何故こうも平然としていられるのか、七海は不思議でしようがなかった。 「五条さんなら、血や術式を気にせずあなたを選びそうですが。」 「まあ、悟ですからね、五条家に意見なんて求めなさそうです。」 くすくす、と五条のいつもの破天荒ぶりを思い出したのか笑っている名前は、この問題に心の中で折り合いをつけているのだろう。 そこには悲観的なものは感じない。 名前は、今までの悪戯っ子のような表情や困った表情の成りを潜めて、真面目な顔で七海を見ている。 「悟がただの男だったら、私はとっくに何も考えずに受け入れてます。でも、私が好きになったのは、五条家の六眼持ちの五条悟です。悟には、五条悟らしくいて欲しい。私と間違って子どもでも出来て、術式を持たなかったら、私のせいで悟の評価が下がってしまう。」 「五条さんが、あなたがそう色々と考えていることなんて、思いも寄らないでしょうね。いい加減にしかものを考えない人なので。」 「そうなんですよね。いい加減にしかものを考えない人にこの秘密を打ち明けても一緒に悩んでくれないし、私の気持ちを譲歩してくれるとも思わないんですよね。」 だから秘密です、と言う名前は、五条のいい加減なところを思い出しているのか、眉間に皺を寄せている。 「見たところ、清い仲でもないんでしょう?子どもが出来ないとは限らないでしょうし、出来たらどうするんですか?」 「産みませんよ。当たり前でしょう。」 事も無げにそう言う名前が七海の知る名前とは合わなくて、少し違和感を感じるが、今までの内容から思うと、確かに産まないだろう。 「でも、実際出来たら、産むんだろうなあ。」 ポツリ、とそう名前が呟いた言葉は、悪戯っ子のようなものでも、真剣なものでも、困ったものでもなく、穏やかに、愛しそうに紡がれたものだった。 ああこの人本当は本当に五条悟という男が好きなのだな、と七海が納得するような声色だった。 高専の入口辺りに着くと、名前と七海のあいだに固いものが嵌まって、彼らの肩にずっしりと重みがかかる。 「お疲れサマンサ〜!今日は超イイ日!やっと僕の繁忙期が終わるんだよ〜!もうちょっとかかるけど、名前はイイ子で家で待ってるんだよ?」 急に現れた五条は、名前と七海の間に割って入って、それぞれと肩を組んでいる。 テンションの高い五条にうんざりとした顔をさせて七海は名前を見つめてくる。 本当にこの男で良いのか、という眼差しに何という表情で返せばいいかわからなくて、名前は視線を泳がせて見せる。 「何々そのアイコンタクト!酷い!僕のこと無視して!浮気?!」 「そもそも名字さんと五条さん付き合ってないですよね。」 「付き合ってなくても名前が僕にメロメロなことは事実です〜!」 「ちょっと、恥ずかしいからやめて!」 「あれ?否定しないの?名前ったらそろそろ素直になる準備出来たのかな〜?」 五条が名前を覗き込むと、名前は口をムッと歪めているが、ほんのりと頬が赤くなっている。 人間とは面倒な生き物だな、と七海は思う。 五条のことは愛しいと言うが、五条を完全に受け入れないという名前は矛盾している。 愛しいと思うなら、相手から求められているなら、受け入れれば良い。 愛しくても、自分が受け入れないと決めたなら離れれば良い。 中途半端な名前の距離に、矛盾を感じるが愛しいから離れられないのだろう。 子どもを産むつもりはないのに、出来たら産むのだろう、と相反することを言うのも、五条が愛しくて仕方なくてどうにもならないのだろう。 白黒つけられない業が名前の中に詰まっている。 「僕、七海と話あるから、名前先に行っててよ。」 「いえ、話はないので私も失礼します。」 「七海がつれないよ!」 「うるさいです。」 五条が名前の肩を離して彼女に手を振ると、五条と七海が言い合いを始めている。 名前が心配そうに七海に視線を送ると、七海は心配要らないと言う変わりに首だけで会釈をして名前を見送った。 「さあて、七海、」 「浮気なら冤罪です。」 「それじゃねぇよ。」 僕その話題忘れてたよ、と先程話題を出した張本人の言葉とは思えないことを言ってのけて、七海は面倒臭くなる。 「今日名前、僕のこと何か話した?」 「どうして名字さんが五条さんのことを話すと思っているのか、自意識過剰にも程がありますね。明後日な惚気方するのはやめてもらっていいですか。」 「いやそうじゃなくてさ。」 五条は、真っ黒なアイマスクを軽く上げると、じいと七海の表情を宝石のような瞳が窺ってくる。 いくら綺麗な顔と瞳であっても、男から至近距離で見つめられるのは気分の良いものではない。 五条悟なら尚更だった。 「名前、僕に一線引いてる理由何か言わなかった?」 は?と七海は喉の奥の方から声が出た。 確かに言ったが、それを何故五条は、七海に名前が言うと思っているのだろうか。 「あれ?っかしいなあ!七海も名前も真面目だからそういう話すると思ったんだけど。」 いやだから真面目だからと何故そんな話題を、と七海は考えて、ふと先日の見せつけられた五条と名前の絡みを思い出す。 五条だから人目など気にしなかったのだろう、と思ったが、口を押さえられた名前を不憫に思って思わず七海からその話題を振ってしまった。 七海が名前を心配することを読んだのではないだろうか。 この考えなしの軽薄なろくでなしがそこまで考えるだろうか、とも七海は思うが、五条の視線は完全に七海の一挙手一投足を逃さないようにしている。 この人らしくもなく何か必死だな、と五条のこの必死そうな視線は珍しくて面白い、というより小気味良かった。 「何か聞いたとして、私が言うわけないでしょう。」 七海が少し上からの口調でそう言って歩き出すと、五条は七海が歩くのを数歩見送っている。 「何それ、え?絶対今の言い方何か聞いてない?七海お前マジでちょっと待てどこ行く気だ止まれマジで。」 スタスタ、と歩く七海に、五条も歩調を合わせて歩いてくる。 七海が足を早めると、五条は面倒臭い絡み方をしながら七海が高専を後にするまでついてくる。 やはり人の秘密を知ることなど、百害あっても一利もない。 (20210829) ← : → |