08 老人の世話にはほとほと疲れた。 五条が颯爽と高専内を歩く姿からは、そんな彼の胸中を推し量れる者はいないだろう。 五条が歩いていると、目上の者だからと皆が頭を下げるのをそれなりの愛想を振り撒いて難なくいつもは返すのに、今日ばかりは億劫だった。 老人の相手もそうだが、出張や会食にと色んな所へ飛び回って、名前と完全に時間がすれ違っている。 家へ行っても名前は寝ていたり、任務へ行っていたりで声すらも聞いていない。 『美味しそうなのあったから買ってきたよ』と、五条が来るかもわからないのにメモ付きで日替わりで何かしら甘いものが冷蔵庫に用意されているのには、流石の五条もちょっときゅんとしてしまう。 ただ、一人で食べるのは寂しくて、何度寝てる名前を犯してやろうかと考えてはなんとか押し止まった。 1分でいい、寧ろ一目でいい、と動いている彼女を求めて残穢を辿れば、真新しいのが医務室に続いている。 休憩中、と扉にプレートがかかっているとき、名前は確実にそこにいる。 名前は休憩中のときは家入しかいないからと、よくそのときに入り浸っているのだ。 残穢を確認するとやはり名前はいる。 五条は、勢いよく医務室の扉を開けて目当てを見付ける。 勢い良く開いた扉に、中にいた全員の視線を浴びるが知ったことではない。 定位置に座っているだろう名前に目を向けると、彼女はアイマスク越しだが目が合った途端に顔を綻ばせている。 目が合った瞬間に笑いかけてくれるなんてどれだけ自分のことが好きなんだろうか、と五条は疲れた心にじわりと暖かみが広がっていく。 先日医務室で2人きりのときに鉢合わせたときは逃げたくせに、今は他にも人がいるから油断しきっているのだろう。 五条は、一足飛びで名前の前まで行くと、吃驚した顔の彼女と目が合う。 その頬を引っ掴んで上を向かせると、五条は屈んでその唇を押し付けた。 急なことにすぐに反応出来ない名前は、薄く開いていた唇に五条の舌がぬるりと入り込んでくることなど予想も出来ずに受け入れてしまう。 「ん゛ん゛ん゛ん゛ん゛ん゛!!」 名前が五条の頭の耳の辺りを両手で掴んでキスされながらも唸っている。 どう見ても離れたそうにしている名前の手は、思い切り力を入れているから指先は白くなり、手の甲は血管すら浮いて見えているように見える。 思い切り力を入れて五条を離そうとしているのに、無限のせいなのか名前の渾身の握力など五条はまるで無視を決め込んでいる。 たまたま治療で居合わせた七海は、目の前の光景にらしくもなく呆気にとられて口を薄くぽかんと開けている。 五条と名前の噂など、高専どころではなく呪術界隈で広まっているものの、それを目の当たりにしたことはなかった。 高専で距離の近い2人を七海は見かけたことがあったが、五条は元々人との距離感がおかしいこともあり、そう気にもとめていなかった。 噂は噂でしかない。 何より、何度か名前と任務を共にしたり、医務室に顔を出した際に話した彼女の印象からは全く五条とは結び付かなかった。 礼儀正しく、相手の距離感を計り、年下の七海にまで敬語を使う名前と、敬う気がないからと年上に敬語も所作も崩れに崩れている五条とでは共通点などまるでないように思う。 噂は噂でしかない。 噂が一人歩きしたのだと七海は解釈していた。 もしくは、名前に五条が面白半分にちょっかいをかけているのだと解釈していた。 しかし、どうだろうか、七海の治療をしている家入はいつもの光景のように干渉せずにそのままにしている。 名前と仲良さそうな家入ならば、五条から無理矢理キスをされて襲われているこのおかしな状況に助け船を出すのではないだろうか。 家入が我関せずと七海の治療を続けているから、七海もそれに倣って干渉はしない。 ちらりと七海が見た彼らの様子は、七海からは五条の後ろ姿しか見えないが、観念したのか名前の手は五条の頭にかかってはおらず、彼のされるがままになっている。 「付き合ってるんですか?」 「そうとは聞いていないよ。」 七海が家入に質問するとそう返されるだけだった。 どういう関係なのかと問い詰めるほど無粋な感情を持ち合わせておらず、七海もそのまま黙って治療を受けている。 きゃああ、と名前の悲鳴が聞こえたから何事かと七海がそちらへ目を向けると、五条が名前を雑に持ち上げて軽くふり回して、彼女が座っていたパイプ椅子に五条が座ると、太股の間に名前を座らせて後ろから彼女の首に顔を埋めてぎゅうと抱き締めている。 「あ゛あ゛あ゛あ゛、も゛う゛う゛・・・!!」 「何!怖い!!硝子ちゃん助けて!!」 「癒されて唸ってるだけだと思うから、世界平和の為に我慢して。」 「どういうこと?!世界とか知らない!!」 ひいい、と名前が戦慄いているのを家入はいなしている。 実際名前を抱き締めているうちに落ち着いてきていたらしい五条は大人しくしている。 ああ癒される柔らかいし良い匂いするし最高、とか五条が言っているのを、名前は壊れかけの何かみたいな彼が何かしてくるのではと思いながら恐々としながら聞いている。 「あれ、七海いたの。お疲れ。」 「お疲れ様です。知ってましたよね。白々しすぎて腹も立ちません。」 何が楽しくて先輩のイチャついている現場を見せられなければいけないのかわからない。 見せ付けたつもりは全くないのだろう、したいことをただしただけに過ぎない五条に七海は腹も立たない。 腹を立てたら負けなのだ。 突拍子もない五条に振り回されるのは気分が悪い。 「もう本当に疲れたよ。何でこんな予定詰められてんのかサッパリだよ。」 「お疲れ様。帰ってちょっとゆっくり寝たらどうなの。」 「帰って寝るより名前をこうしてる方が元気出る。」 そう言いながら五条が名前の首にちうと何度かキスしてくることに、彼女は暴れようとしているが全く歯が立っていない。 七海さんが見てる、いいんじゃない七海全然気にしてないし、私が気にしてるんだけど、と一気に騒がしくなった名前と五条のやり取りに、七海は顔には出さないが内心げんなりとしている。 早く治療を終えて出て行きたいが、家入の治療が中々進まない。 何となくわざと遅く治療をしている気がする。 きっと家入も面倒な彼らのやり取りを一人で聞いていたくはないのだろう。 「ねえねえ名前の可愛い話聞きたい?聞きたいよね?聞いて。」 「・・・何?」 「硝子ちゃん聞かなくていいから、また何話す気、っ、」 五条が話したくてうずうずしているから家入は面倒臭くなる前に聞いてやる。 先日家入に名前のあられもない話を聞かせた五条に警戒して、名前がやめさせようと大声を出すと、口元を覆われてしまって声が出せなくなる。 この人達何やってるんだろうか治療早く終わらないだろうか、と七海の胸中を推し測れてもそれをどうにかする人間はここには誰もいない。 「僕が名前の家行ったらね、僕が来るかどうかわかんないのに甘いもの冷蔵庫に用意してあんの。しかも超並ばないと買えないヤツ!愛を感じるね。僕の為に並んだと思うと可愛くて可愛くて。」 頬擦りしてくる五条に、名前は首まで真っ赤になっている。 五条が疲れているのは目に見えてわかっていた。 名前が起きるといつもは起きるのを邪魔するように体に巻き付いた五条の腕に力が入るのに、最近は全く入らないし、難なく彼の腕から抜け出せて隣で熟睡どころか爆睡している。 何かしたいと思っても、甘いものを用意するだとか、朝起きて五条が横で寝ていたら忙しい五条が摘まめるようにおにぎり作ったりサンドイッチ作ったりとそんなことしか出来ない。 会話もろくに出来なくて喜んでいるのかわからなかったが、喜んでいたようで嬉しいが、こっそりやっているものを人前でばらさないでもらいたい。 恥ずかしくて仕方ない。 名前だって朝早いのにわざわざ早起きして朝摘まめるようにおにぎりとか作ってあってね、と五条が続けているが、たいしたことしてないからやめてくれ、と名前は羞恥にどんどんいたたまれなくなってくる。 「名前は僕のこと大好きだもんねぇ?」 口を覆われて同意も拒否も出来ない名前のことは置き去りにして、名前は僕が好き、を五条はアピールしてくる。 名前が好きだと言わないせいか、五条は周りに、名前は僕が好き、をアピールしだしたのかもしれない。 外堀を埋める作戦だろうか。 抱き締めていると見せかけて拘束するようにガッチリと抱き締められて、口も塞がれているのだからこのアピールの信憑性は無いに等しい。 反論は許さない、と五条から押さえ付けられているような気さえ名前はしてしまう。 「名字さんを喋られないようにしているのに、その主張は些か信憑性に欠けますね。」 口を塞いだままなのは何か都合が悪いからじゃないだろうか、と七海が敢えてそう言葉にしてみれば、どうも図星らしくて五条は七海の言葉に、七海相変わらずノリ悪いね、とだけ返した。 名前は口を覆われたまま困った顔をしている。 その顔と七海は目があった。 いい加減五条から離れたいのだろうが、助けてやれるような何かを七海は持ち合わせてはいなかった。 早く治療が終わらないだろうか、と七海が家入の手元を見るが全く進んでいない。 このやり取りはまだ続くらしいと察して、七海は面倒臭さに目を細めた。 (20210722) ← : → |