06 名前が風呂から出て部屋へ入ると、ソファで居眠りをしている五条が目に入った。 五条が起きていたら勝手に入ることを嗜めることもあるが、寝ている人間を叩き起こしてまで言うほどの強い感情が名前にはなく、まあいつものことだからいいけどさ、と流しながらソファの近くに寄って、彼の目にかけたままになっているサングラスをとってローテーブルに置いてやる。 五条がソファに横たわって余すところなく使っているせいで、名前はその下に腰をおろした。 横になる五条を見ながら、長いな、と名前は思う。 デカイというか長い、と伸ばした五条の足がソファからはみ出しているのを眺めながら、ソファ大きいのに買い替えようかな、と何となくそんなどうでも良いことを考えた。 起きないように名前が白い髪を撫でてやると気持ちの良い撫で心地に何度も撫でたくなる。 ほわほわふわふわ、そうやって何度も優しく撫でていると、髪が五条の目にかかってしまうから、名前はそれを優しく払って髪を整えてやる。 そうやって払っているうちに指の腹で触れた五条の額にドキリとして、もっと触りたくなってしまう。 指先を額から蟀谷に流して頬を撫でる。 頬を掌で包むとその肌の感触に、何故だかあれやこれやと思い出してしまって変な気分になってきてしまった。 いやいや寝てる人間になんてことを、と名前が手を引こうとすると、ぱち、と青い瞳と目が合ったから、慌てて引っ込めた。 引っ込めたはずなのに、それを五条は強引に引き戻して名前の掌を自分の頬に押し付けてくる。 「続きはないの?」 綺麗に微笑みながら言う五条は、全く寝起きのようなぼんやりとした様子はなく、むしろはっきりとした口調と表情で名前を見据えている。 「た、狸寝入り?」 「狸寝入りじゃないよ?勝手に名前が寝てると思っただけじゃん。目閉じてただけ。」 勝手な勘違いを僕のせいにしたのはこの口かな、と言いながら五条は名前の頬を片手で掴んでムニムニとからかうように弄んでくる。 「寝てると思ったなら、ついでに好きって言ってキスの一つでもしてもらって良かったんだよ?」 ほら言ってみて、と名前の顎を掴み直して五条が名前の口元をぐにぐにと歪めてくる。 痛い痛い顎骨骨折する、と名前が眉間に皺を寄せても五条はやめる気配がない。 「名前、僕のこと好き?」 「悟痛いよ。」 「痛いの嫌ならさっさと言えよ。」 名前は、先程のからかうような表情から一変して顔を顰めた五条にそう促されて押し黙った。 五条の瞳が期待を帯びているような気がして、名前が困ったように笑うと、彼は舌打ちをして起き上がり、ソファに座り直して床に座っている彼女の顎を再度掴んで目を合わさせる。 「またそれか。何で言わねえかな。好きが嫌なら愛してるでもいいけど。」 「ハードル上がってる。」 「茶化すなよ。」 く、と上を向かせる角度が上がって気道が軽く塞がり息が苦しい。 それでも名前は苦しい素振りも見せずに、五条を何でもなさそうにじいと見つめている。 「あのさ、名前が好きでもねえヤツとセックスするような女じゃないのぐらいわかってんだよ。仕草も視線も俺のことスゲー好きじゃん。」 「そう?ならそれでお察しください。」 「お察しください、じゃなくて、す、き、だろ。ほら言ってみ?」 五条が名前の顎を掴んだ指をぐにぐにと動かしてそう促してくる。 「俺は名前のこと好きだよ。」 「ありがとう。」 名前が頑なに五条の欲しい言葉を言わないから、彼は苛立って顎にあった手を彼女の首に宛がうと軽く絞めてやる。 「ありがとうじゃねぇよ、優しくしてやってるからって調子乗んな、いい加減にしろ。」 絞められた首はさほど痛くはないが、五条の呪力が首元で跳ね上がっているから、名前はその圧に冷や汗をかいてしまう。 五条自身を怖いと思ったことはないが、彼の呪力を改めて当てられると、体は恐ろしいものに反応してしまう。 冷や汗をかいて名前の意思と関係なく震え出す体に五条はほくそ笑んでいる。 彼女の恐れが目に見えてわかるからだ。 「ほら。死にたくなかったらいい加減ちゃんと言えよ。」 死にたくなかったら自分の欲しい言葉を言うだろう、と五条は名前を無表情にじいと見つめてやる。 なるべく安心感を与えないように。 冷や汗を流しながら震える名前は、可哀想なぐらい血の気が引いているのに、五条からは視線を逸らさなかった。 「私を殺して、悟が幸せなら殺していいよ。泣かないなら、そうすればいい。」 名前がそう言うと、五条は何とも言えない顔で表情を歪めて、名前の首元から手の力を緩めている。 緩めた瞬間に慌てたような五条が何か言っているのを見ながら、今日は表情の変化が激しいなあ、と名前はそんなことを考えた。 名前は、突然目が開いて何度か瞬いた。 つい今まで五条が目の前にいて床に座っていたはずが、自分の部屋ではない天井しか見えない。 あ、起きた、と声がする方を見ると家入が感情の読めない顔で近くに座って事務処理をしている。 「硝子ちゃん何してるの?」 「何してんの、ってこっちが聞きたいんだけど。」 名前が起き上がりながらそう聞くと、家入は面倒臭そうに返してくる。 「急に五条が来て、僕の呪力に当てられたから見といて、って置いてったんだけど。」 「あはは、痴話喧嘩。ごめんね、硝子ちゃん。」 痴話喧嘩と言いながら先程の五条を思い出してしまって、名前は急に指先からガタガタと震え出す。 冷たい視線に、名前が1ミリでも逃げようものなら首が飛んでしまうような錯覚を覚えた。 五条が名前にそんなことをするはずもないのに、そう思ってしまう程の冷たい呪力を体は覚えていて、喉がまだ絞められている様に感じて喉を押さえる。 何もない、何もないのに、と何とか震えを止めようとするのに名前の震えが止まらないから家入が側まで寄って背中を撫でてやる。 「名前、五条はいない。落ち着け。」 止めようとするのに止められなくて、名前が目を閉じるとぼろぼろと瞳から雫が零れていく。 震えたくもなければ、泣きたくもないのに、勝手に反射でしているそれらが名前は疎ましくて仕方がない。 「私、悟が好きだよ。凄く凄く好きなの。でも、こんなんじゃ、隣にいられない。」 一級呪術師であっても名前は五条からすればあまりにも弱い。 五条からの圧にも耐えられないし、除霊の際に怪我をすれば命を落とすことだってある。 そのとき彼はどんな顔をするのだろうか。 そうなって多少取り乱すことは想像できるから、特別な関係になって深く関わるべきではない。 あやふやな今の関係を維持するまでで留めるべきだ。 ただの言葉で救われる者もいれば、死に至らしめる場合もある。 言霊とはよく言ったものだ。 名前が一言五条に言えば、彼はどれ程気持ちが変わるのだろうか。 五条悟は最強でなければいけないのに、たかが女のことで表情を曇らせるなんてあって良いわけがない。 「あんたが五条のこと考えて言わないのなんて、あいつは察するほど大人じゃないよ。」 「そういうところ嫌いじゃない、って結構私もヤバイ奴かも。」 あはは、と流れた涙を拭う名前は、やっと落ち着いたのか家入に笑って見せたが、まだ少し震えていて、無表情だった家入はその痛々しい姿にやっと顔を顰めた。 名前なら帰らせたよ、と言えば、ふうん、と五条は気のない返事をした。 名前は痴話喧嘩だと言ったが、女一人、最強が聞いてあきれる程に本気の脅しをかけたのだろう五条に家入は溜息をついた。 「全てを持って生まれた人間が、何も持たない女一人手に入れられない気分はどうだ?」 家入が皮肉のつもりで言えば、ちゃんと伝わったらしく、アイマスク越しでも五条が顔を顰めていることがわかる。 「名前が何か言った?」 「お前と違ってべらべら余計なことを言う人間じゃない。何があったか察しただけだよ。」 「じゃあ察しの良い硝子に聞くけど、名前何で言わないんだと思う?」 「五条に言っても理解できないと思う。」 中々好きって言わないんだよね、とたまに五条から愚痴の様に聞かされることはあった。 自分の弱さに名前が五条に遠慮していることなど五条には考えが及ばないらしい。 きっと名前が五条にそんな悩みを打ち明けたところで、彼にとっては些末事だととりあって貰うことも出来ないだろう。 最強を冠する今だからではなく、昔から当たり前に強かった彼に、自分の天井が見えてそれ以上が見えない名前の気持ちなどわかるはずもない。 家入が名前を素直にさせるヒントをくれないとわかると、もういいや、と五条は医務室を出ようとする。 「ちゃんと名前に謝れよ。」 「何を?」 「名前のこと失神させるぐらいの圧かけておいてそれはないだろ。」 きょとんとした五条に、家入は明らかに嫌な顔をするのに、五条はさっぱりわからないという顔を返すだけだった。 「それが嫌なら僕の言うこと聞いとけばいいんだよ。失神する方選んだのは名前なんだし。」 僕何か悪いことしたっけ、と本気で悪気のなさそうな五条に、家入は呆れるどころか、そうだなお前はそういう奴だな、と変に納得してしまい、吐きそうになった溜め息を飲み込んだ。 「やっぱクズだな。」 五条の出ていった扉を見ながら家入は小さく呟いた。 好きなら労れよ、と当たり前のことを言ったところで倫理の欠けた五条に果たして響くのだろうか。 家入は、そんなことを考えながら、名前を運んできた五条を思い出した。 アイマスクやサングラスをするのも忘れて慌てて名前を運んできた姿はそれはそれは見物だった。 きっと名前は、五条のそんな姿を誰かに見られるのが嫌なのだ。 五条悟は最強でなければいけない、と名前は考えている。 自分が五条の足元を掬うような、弱点にはなりたくないのだ。 恋人と勘違いされている可哀想な女、そんな風に周りに思われていたいのだろう。 五条にそれを言ったところで、名前ぐらい守れるよ、とか、名前が弱点になると思ってるのか、なんて調子の良いことを言うのだろう。 名前の精神的安定など、五条には考えも及びはしない。 五条が人の気持ちを慮うことが出来るのだろうか、と考えて、唯我独尊、ということが頭に浮かび、家入は小さく首を振った。 (20210702) ← : → |