こんなに空虚な幸いがあるか 実は彼氏が出来てね、そう言ってはにかんだ名前に、五条はわけのわからない憤りを感じて心臓が重苦しく脈打った。五条は彼女のことが好きだが、彼女を自分の人生に巻き込んで良いと思えず気持ちを打ち明けることはない。 もしも名前が誰かと結ばれて、その誰かの子を孕んだとして、五条は「おめでとう」と言える自信があった。彼女が笑ってくれるなら、どんな関係だって、ただの後輩としてでも許容出来ると思っていた。 名前の、彼氏が出来た、という報告に、五条の腹の底をじりじりと焼くのがなんなのか。それは憤りなのか、はたまた嫉妬なのか。五条自身は彼女にアプローチするでもなく、何もすることはないのにそんな感情を抱くのはおかしなことだった。 良かったね、という曖昧な言葉しか五条は吐き出せなかった。おめでとう、なんて彼女に到底言ってはやれなかった。いつだって名前の笑った顔を五条は見たかったのに、五条が祝って笑う彼女を見たいと思わなかった。 五条は、名前の彼氏の報告を聞いてから、少しの間だけ彼女から惚気られていた。今日はデートだから早く帰らなきゃ、と言う名前が憎くて、わざと任務遂行を遅らせもした。目の前の呪霊が五条にとってどれ程弱いかなんて、名前にはわからない。だから彼女にそんな子ども染みた悪戯がバレることもなかった。 そんな悪戯を五条が何度か繰り返したのは二ヶ月程前で、だんだんと名前の表情が曇ってしまった。流石に名前を何度も遅く帰すのはやり過ぎたか、もしや彼氏と喧嘩したか、と彼女の表情から五条は察して悪戯をやめた。彼氏と上手くいってしまうことは憎々しいが、名前には笑っていて欲しい。 だから五条は見守るに徹していたのだが、どうも名前の様子がおかしい。だんだんと帰りたがらなくなり、着信音がなる度に肩を跳ねさせている。今日はどこも寄らないの?と名前から五条に尋ねてくるほどだった。 任務後の夕方、五条は帰りたくなさそうな名前とそれに付き合う形で、任務後に適当なファミレスに入った。いつもならお互いすぐに食べたいものを頼むのに、なかなか頼まない。五条は様子のおかしい名前を観察しているし、名前は頼む気があるのか忙しなくページをめくって何度もメニューを見ている。五条には、どう見ても名前が帰りたくないように見えた。 「ねえ、なんかあった?」 「え?」 五条は、自分が見ていたメニュー表を一旦閉じると、目の前の名前の見ていたメニュー表も強制的に閉じた。急に閉じられて驚いた表情をしている名前に構うことはなく、続けて五条は話していく。 「なんか帰りたくなさそうだし、携帯の着信気にしてるし、その割りに出ないし、何?どうかした?」 「べつになにも、」 「鳴ってんの仕事用のやつでしょ?今はよくてもそのうち仕事に支障でるよ」 五条は、もっともらしいことを言って名前の悩みを聞き出そうとする。単純に五条が名前を心配するだけだと、大丈夫なんでもないよ、とそうさせまいと彼女が強がると彼はわかっていた。だから仕事にかこつけて話をしたのだ。ほら言って、と五条が急かすともごもごと名前は話し始める。 「ちょっと前、帰るの遅い日が続いたら逐一連絡入れないと嫌み言うようになって、最初は心配してるんだと思ってたんだけど、だんだん連絡の間隔も短くなって、出なかったら緊急用で教えた仕事の番号にもずっと連絡くるようになって、」 「それがメニューずっと眺めてた理由?」 「うん・・・」 名前は、付き合った相手を信用して教えたのだが、それがあだとなってしまった。いや、教えなければ不機嫌になったのだ。まさかこんなに執着されるとは思わなかった。どう対処すればいいのかわからなくて困ってしまい、帰る時間を引き伸ばした。そうしたところで問題は解決しないというのに。 名前は、後輩の前では凛としていたかった。だらしのない、自分では何の解決もできない弱い人間だと思われたくはなかった。強い呪霊を払う力はなくとも、頼れる補助監督だと思われていたかった。それが私生活を仕事に持ち込む情けない人間だと認識されるだろうと思うと、名前は恥ずかしさと自分への腹立たしさで視界が歪んでいってしまう。泣きたくなんかないのに。 「あのさあ、名前さんの携帯なんだけど、すぐ解約して新しいのに変えられる?なんか馬鹿な勘違い一般人が鬼電してくんだってさ」 どうにも名前に話しかけている口調ではない。いつの間にか俯いていた名前は、驚いて顔を上げようとするが、後頭部に何かが当たってそれを遮られた。ぽんぽん、と向かいから優しく頭を撫でられている。その優しい掌に、じわりと湿っていた名前の瞳から雫が溢れていく。 五条は、一通り補助監督の上役と話すと携帯を切った。名前の頭を撫でてはいたが、通話が終わったと同時に彼女が頭を上げたから手を引っ込めた。このままなすがままになっていてくれればいいのに、と思いながら。 「ごめんなさい」 「何が」 「頼りない先輩で」 顔を上げた名前は、瞳が赤いものの涙を拭って凛と背筋を伸ばしていた。そんなの強がりだろう、と五条は思ったがそこまで彼女の懐へ入り込む立場にはないから言いはしなかった。 「仕方ないんじゃない?名前さん人生経験少なそうだし」 できるだけからかった口調で五条が言うと、名前の口元がへの字に歪む。それでいい。名前と五条の間に特別な何かはなくていいのだ。 「つーかさ、そこまでいくまでに誰かに頼れよ。僕じゃなくてもいい。友達とかさ」 五条が、やれやれ、と肩を竦めると、今度は名前の肩が申し訳なさそうに竦む。 五条は、できれば名前の憂いを全て取り払ってやりたい。ただ、その役目を担うのは彼ではないこともわかっている。そもそも土俵に立っていないのだ。 「名前さん、じゃあさ、こういう風に考えてよ」 申し訳なさそうに眉をハの字にしている名前と、五条はサングラス越しに目を合わせた。 「今目の前の僕が彼氏と入れ替わったらどういう気分?俺がいい?それとも彼氏?」 ここまできて彼氏をとるはずはないけれど、と五条は確信しながらも質問する。彼氏が大事なら五条が電話をしている時点で止めているはずだ。 「・・・五条君」 俯き気味に名前がポツリと答えた。五条は選ばれたわけではない。選択肢として五条の方がましだっただけだ。そうとわかっていても、五条は選ばれたことが嬉しかった。スキップでもしたい気分だった。口元がニヤリと歪むことを止められない。 「名前さん、一泊ぐらい着替え高専にある?」 「ね、念のため置いてある」 「じゃあ今日は高専に泊まって、あ、同棲してんだっけ?」 「や、そこまではまだ」 「じゃあ彼氏が仕事中見計らって必要なもの少しずつ持ち出して部屋解約しよ。私用の携帯も明日解約ね」 「え、でも、」 「俺の方がいいんでしょ?情けなんてかけんなよ」 五条がそう言って是非を言わせないようにすると、名前はまた俯いてしまった。ただ、彼女は身を竦ませるでもなく、その口元が緩んで安堵した表情を浮かべている。 あー腹減った早くなんか頼もう、と五条がメニュー表を開く。それに倣って名前も開くと、彼女は今度こそ真剣に選んでいた。 名前がどこぞの誰かと幸せになることを五条は結局許せないかもしれない。おめでとうと言いながらも腹の底をじりじりと焦がしてしまうかもしれない。それでも、五条以上に、今のように名前を安堵させられる人間が現れるのなら、彼女を任せてやらんこともないと思う。 絶対に僕の方が好きだけど、と思いながら。 (20230816) |