16 名前は、任務地から高専へ戻り報告書の提出も終わって、さあ帰ろうかとその廊下を歩いていた。なんとなく窓の外を眺めながら歩く。窓から差し込む橙色の陽射しと、校内のチャイムの響きが相まって、ノスタルジックな気分になってしまう。学生時代、特に思い出に浸るほどの何かがあったわけでもないのに。 何か、と名前が思うのならば、五条のことだろうか。名前が初めて五条を見たとき、彼は高専の制服を着ていた。もしも名前が高専に通っていたら、五条や家入と任務と学業をこなしていたのかもしれない。そういう時間を持てていたら、ともう叶うこともない時間に想いを馳せてしまう。 そんな途方もないことを考えていると、スマホの着信音が響く。予想もしなかったそれに、名前は慌てて自分の鞄の中からスマホを取り出した。誰もいない、しんとした廊下に、甲高い音はあまりにも良く響いている。 「もしもし、」 『名字さん、お忙しいところ申し訳ありません。五条さん知りませんか?』 名前が電話に出ると、伊地知は挨拶もそこそこにすぐ用件を話し出した。憔悴しきった伊地知の声に、名前は、彼が肩を落として困った顔をしているところを自然と想像してしまう。それだけ普段から伊地知が五条に振り回されていることに、周囲は慣れてしまっている。 「さあ・・・、今日の予定は何も聞いてませんし」 『そうですか・・・』 「電話に出ないんですか?」 『そうなんです。そろそろ出ないと次の予定に間に合わなくて・・・家入さんのところにもいないし、何処にいるのか見当がつかなくて』 はあ、と伊地知は電話越しに溜め息をついている。その溜め息に、大変だなあ伊地知さん、と名前は思うが、それよりもどうして彼が電話してきたのかが気になってしまう。たまに名前と五条は医務室にいることがある。しかしそれは、名前が家入に会いに行くと五条も後から来ることがあるからだ。示し合わせて一緒にいるわけではないが、伊地知からはいつも一緒にいるように見えたのかもしれない、と名前は考えた。伊地知からすれば、五条の気持ちは何となく察しているし、名前のスケジュールを五条に渡しているから、彼女も五条の予定を知っている気がして聞いたのだった。 「この後予定ないから私も探してみますね」 『っ!!すみません、助かります!医務室に家入さんいなかったんですけど、メモは残したので連絡はあるかと・・・!』 「じゃあ医務室以外探してみますね」 名前は、伊地知の心底安堵した御礼を聴きながら、伊地知さん大変だなあ、と改めて不憫に思った。 伊地知との電話を切った後、名前は一度五条に電話をかけてみるが、出ない。もしかして伊地知だから五条が出ないのか、と名前は思ったが、そういうわけではないらしい。 名前は、今いる校内を見て回ることにした。最上階から1階へ降りて、それからグラウンドへ出る。くまなく見回ったが、今いる場所にはどうも五条はいなさそうだ、このまま闇雲に探しても、これでは時間だけが過ぎてしまう。 そういえば何時頃医務室まで探しに行ったのか聞かなかったな、と名前は伊地知に大事なことを聞くのを忘れていた。もしかしたら行き違いになっているかもしれない。そう考えて、名前は除外した医務室へ向かってみる。名前は、家入はいないと伊地知から聞いていたから、そのつもりで医務室の扉を開けるが、予想に反して家入がいるから驚いてしまう。 「硝子ちゃん?」 「何だその顔。ここに私が居ておかしい?」 「ごめん、変な顔して。伊地知さんがさっき悟探しに来たときに硝子ちゃんいなかったって言ってたから・・・」 「今さっき戻った。伊地知来てたのか?」 「うん。あれ?悟探してることメモ残したって言ってたけど」 「なかったけど」 はて、と名前と家入は顔を見合わせた。いくら伊地知が忙しいとはいえ、短時間で記憶違いが起こるとも考えにくい。はっきりとメモを残したことを話しているのだからないわけがない。 「五条の仕業だな」 家入は、そう言ってカーテンの閉まったベッドの方へ向かう。するとそのカーテンを勢い良く開ける。そこには、きっちり肩まで布団をかけて、横を向いて寝ている五条がいるから名前は驚いてしまう。 「私が戻ってきたときにはここで寝てた」 名前が家入に倣ってベッドに近付くと、心地好さそうに寝ている五条が目に入った。ふと名前がベッド脇にある殆ど空のゴミ箱に目を向けると、五条の残穢を纏った白い粒が転がっている。それを名前は拾い上げると、固く圧縮された紙らしかった。圧縮されているから開けはしないが、絶対これ伊地知さんのメモだろ、と名前は寝ている五条を白い目で見つめる。 「悟のこと起こして伊地知さんのとこ行かせなきゃ」 「無理だと思う」 「?何で?」 家入が当たり前に起こせないと言うのが何故だかわからなくて、名前は首をかしげる。揺すったりすれば起きるのではないだろうか、と普通は考えるはずだ。家入は、名前の不思議そうな顔を見て、カーテンから五条の枕元へ移動すると、彼の顔目掛けて右手を振りかぶった。その起こし方はちょっとどうかな!と名前が止める前に振り下ろされたそれは、彼女の予想に反して肌が打たれる音がしない。 「あれ?」 「無限で触れないから起こせない」 家入は、名前にわかるように五条の頬をまた数回軽く叩く動作をすると、透明な何かがあるかのようにあと少しで当たらない。 「そっか無限・・・これは起こせないね」 「耳元で騒がしくしてもいいけど、それして不機嫌になった五条の相手をするのは伊地知だからな」 「あ・・・それは可哀想・・・」 これでは起こせないではないか、と名前は折角探し出せた五条に何も出来ずに狼狽える。こんなの起こすの無理じゃん、と名前が肩を落としていると、家入のスマホがけたたましい音を立てた。家入への急な呼び出しの電話だ。家入は電話に出る前に、まあ頑張って優しく起こして、と他人事のように名前に告げて電話に出ながら医務室を出てしまった。 実際家入にとっては他人事で、名前にとっても他人事だった。そんな他人事に名前は少し責任を感じている。その責任が何かというと、五条が当たり前に名前のところへ来ては、セックスをして睡眠を削っていることだ。その時間を睡眠に変えれば、こうして変な時間に寝ることはないだろう。今度五条が忙しそうなときは、名前は心を鬼にして拒否しなければならない。ただ、名前が拒否しても他の女のところへ行くだけだろうと考えると結局何も変わらない。他にいい案が浮かばないことに、名前は溜め息をついた。 ごちゃごちゃと色々考えてしまうが、まず名前は伊地知に五条を見つけたことを伝えなければならない。伊地知に電話をかけるが、話し中だったためメッセージだけ入れておく。それからどう五条を起こすかを考えてみる。触れないのだから声をかけるしかない。 ところで無限に触るというのはどういう感触だろうか。名前は急な好奇心にわくわくと胸が踊る。五条を起こさないといけないのは重々承知だが、普段無限に触れる機会がない名前は、その触れない感覚に興味津々だ。どうも名前の家では五条は無下限を解いているようで、当たり前に触れていて、起こすのだって簡単だ。だから五条を起こせないことにピンとこなかった。 一体無限はどんな感触がするのか。名前はゆっくり人差し指を五条の頬に近付ける。初めての感覚にドキドキと胸が高鳴って、少しだけ指先が震える。もう少し、あとちょっと、と名前はゆっくりと指先を近付ける。ふにふに、と名前の人差し指の腹に柔らかい感覚を感じて、え、無限てスライムみたいなの?と驚いて瞬いた。だがしかしその感覚はどう考えても人肌だった。名前は恐る恐る五条の顔を覗き込む。その覗き込んで見えた彼の頬は、彼女の指の腹に合わせて凹んでいる。 名前は、つついていた指を一旦引っ込めて五条の頬に今度は掌を当ててみる。その頬から感じる暖かさは確かにいつも触れている五条のものだった。どうして触れてしまうのか、いや、害のない触り方だから弾かれないのかもしれない、と名前は先ほど家入がしていたように、数回軽く五条の頬を叩いてみる。パチパチパチ、とどう考えても人肌を叩いている音が響く。 「ッんー・・・」 嫌そうな五条の呻きに名前は、やはり自分は触れられている、と困惑する。家入と同じことをしているのに何故弾かれないのか。無下限は、害と無害を自動で振り分ける。それを名前は何かの拍子に五条から聞いたことはある。きっと近しい人間なら誰でも知っていることだろう。叩くという行為が害なら、家入と同等の力下限で叩いた名前だって弾かれるはずだ。名前が弾かれないのは、家入とは違う条件があるからだ。 ー自分に特別何か思ってくれてるとか思わないの?ー 名前は、急に家入から言われた言葉を思い出す。『五条悟』が名前を特別に想っている、ということが彼女の中で結び付かなくて困惑してしまう。いやまさかそんなことあるわけがない、と名前は否定する。あの『五条悟』が誰かを特別に想うところが名前は想像できない。 ー五条は無下限だとか六眼だとか持ってる、特別なヤツだけど、名前と同じ人間なんだよー 名前が頭の中で、五条が自分にそんな想いを向けているわけがない、と考えていると、また家入が前に言った言葉が名前の考えを否定する。しかし、例えば特別だとして、それが恋愛的なものとは限らない。 名前は、もしかして『五条悟』のただ一人の人間が自分かも、と考えて一瞬狼狽えたが、五条からそうと言われたわけでもないのだからと気持ちを落ち着ける。まさかそんな、と消えない可能性を胸に押し込めた。 「ねぇ、名前何してんの?」 名前は、眠たそうな声で名前を呼ばれ、びくりと体を震わす。よくよく彼女は自分の視線の先を見直すと、五条がうっすらと瞳を開いている。五条の頬を叩いてそのままそこに置いていた名前の手に、五条は自分の掌を優しく重ねてくる。それに名前は思わず心臓が跳ねた。この優しく感じる手も、五条が何かしら名前を特別に想っているからなのではないか。 そんなことに名前は気をとられていたからか、五条に手を引かれて気がつけばベッドの上へ仰向けに転がされていた。 「起きてたの!?」 「頬っぺた痛いと思って起きちゃった」 「今の今まで狸寝入りしてたってこと?」 「名前ったら、頬触ったまま動かないんだもん。僕いつ襲ってくれるのかなぁ、てわくわくしながら待ってたのに!」 五条は、拗ねたような口調なのに楽しそうにそう言って名前に馬乗りになっている。どうしてこうなった、と名前が慌てて起き上がろうとすると、五条はそれを阻止しようとのし掛かってくる。伊地知さんが探してて、と言おうとする名前の言葉を五条の唇が飲み込んでしまう。 名前は、抵抗しようと五条の胸を突っぱねる。しかし、五条はそれをものともせずに名前にキスをし続けている。名前の顔の横についていた五条の腕は、彼女の腰を撫でて太腿を這いだした。このままだと医務室で厭らしいことが行われてしまう。なんとか名前は顔を背けて口を開こうとするが、今度は首に吸い付かれてしまう。 「ちょっと!ここ医務室!非常識!!」 「知らなーい」 「あと伊地知さん探してた!!」 「知らなーい」 「知らないじゃないの!」 五条は、名前の首筋に吸い付きながらそう答えていく。あまりの無責任に、名前は自分の腰や太股を這っている五条の腕を掴んでやめさせようとする。 「ここで仮眠とるぐらい眠たいなら私とエッチするのやめて寝ればいいじゃない!」 「え、それはやだ」 五条は、名前の首から顔を上げると、真剣な表情でそう返す。あまりにはっきりと拒否をする五条に、そんなまさか、と先程否定したことがまた名前の頭によぎる。どうして嫌なの、と聞いた先の答えを聞くのが、名前は何となく怖かった。名前は五条に好きになってもらいたくて今まで一緒にいたわけではない。ただ五条に名字名前という存在を認めて頭の端にでも覚えていてもらいたかった。それ以上の気持ちを求めていたわけではない。 そのまま暫し名前と五条が見つめ合っていると、医務室の扉が何の前触れもなく開いた。カーテンが開けっぱなしのベッドはそこから丸見えで、慌てて名前は体を起こそうとするのに、五条はまだ動かない。 「ラブホ代わりにするな」 「いや〜ん硝子のエッチ!」 「うるさい仕事しろ。伊地知には連絡しておいた」 「え!酷い!」 「酷くないさっさと行け」 五条はおどけた調子で家入に絡むが、彼女は感情のこもらない声色と表情で彼に返している。つれない家入に、五条は観念して起き上がった。伊地知が五条の居場所を知ったのだから、居座る理由もない。伊地知が来たところで五条を動かせるわけではないが、なんとなくオロオロとした伊地知に説得されるのが面倒に感じた。 五条は一つ溜め息をつくと、ベッドから降りて出口へと向かう。やっと名前は体を起こせてほっとする。医務室という神聖な場所で如何わしいことを行うなんて、真面目な名前には考えられないことだ。 あそうだ、と出入り口に立っていたはずの五条は、急に方向転換をしてまた名前のところへやってくる。五条は今しがた医務室のベッドの上でセックスに持ち込もうとしたが、それを体だけの行為で、気持ちが伴っていないと名前に思われている可能性がある。最近セックスしているときに名前が甘えてくるのが可愛くて、五条はただただ没頭していた。それを体目的だと名前に勘違いされてはかなわない。大好きだから一緒にいたいのだ。とはいえ、名前は初めから五条が体目的だとだと思っているから、今更気遣ったとしても遅い話だった。 この五条の少し思い詰めた、忘れてはいけない何かを名前に伝えに来たような彼の様子に、彼女は思わず身構えてしまう。いつもは何をされても戸惑わないのに、名前は五条から指を絡められてそわそわとしてしまう。 「名前明日休みだよね。僕も時間作るから一緒にいようね」 「う、うん、わかった」 五条は甘ったるく名前に囁くと、彼女の唇に大事そうに自分の唇を落とした。大事そうに名前は感じてしまった。きっといつもと変わらないはずなのに、そう感じてしまう。 「そういうの私の前でやるのやめてくれない?」 家入から面倒臭そうに言葉をかけられて、名前は思わず、すみません、と上の空になりながら敬語で謝った。『五条悟』がそんなまさか、名前の頭の中はそれでいっぱいで、家入の言葉に上手く反応が出来なかった。 (20221219) ← : → |