ゆめしょ | ナノ 影に入ろうとする女


影に入ろうとする女



は、と伏黒は素っ頓狂な声を小さく上げて、隣にいる彼女を訝しげに見つめる。伏黒の影に入りたい、と言う彼女の声に、彼は時間が止まったような感覚に陥った。ガコン、と体の正面にある自動販売機が音を立てて購入したコーヒー缶が受け取り口に落ちてくるから、ゆっくりとした動作でそれを取り出す。
「何飲む?」
「りんごジュース」
伏黒が彼女の主張に小銭をカシカシと自動販売機に投入すると、ペットボトルのジュースを購入して、またゆっくりとした動作でそれを受け取る。
こういった少ない金額のものならついでにといった形で伏黒は買ってくれる。どうも言われてするのは好きではないらしく、おい女子に奢れよ、と釘崎が言うと、俺が奢る理由がねえだろ、と言い合いになって駄目になるのだ。文句とか言わずに黙っていればさりげなく色々やってくれるんだよなあ、五条先生の教育がいいのかな、と彼女はぼんやりと思うが、五条の面倒事を避けるようになってついたスキルでもある。
「て、ちょっと!さりげなく会話そらすのやめてくれない?!」
彼女がしっかりペットボトルを受け取ってから食いつくと、伏黒は面倒そうに眉間に皺を寄せて唇をほんの少しひしゃげさせている。
「影!入れてよ!」
「断る」
「何で!!」
「何でもだ」
伏黒が頑なに拒否してくるから、彼女もムキになってしまう。半分は好奇心、半分は伏黒のことを何でも把握していたいという下心だった。それを把握しておけば戦闘において有利になるかもしれない。そう正論を思い浮かべるが、やはり彼女は伏黒のことを何でも知っておきたかった。じ、と彼女が真っ直ぐに伏黒を見つめれば、どうも彼女の視線を真剣なものと勘違いしてくれた彼は、険しい表情から困っているものに変えている。
「お前、その、前言っただろ、影に入れたらその重さを俺が引き継ぐから、」
嫌だろそういうの女は、と多少歯切れ悪く伏黒が言うと、彼女は彼のそれとは比べ物にならないくらいあっけらかんとしている。
「そんなこと言ったらさ、私が怪我したとき伏黒がおんぶしてくれたし、私が先輩とか五条先輩に吹っ飛ばされたら受け止めてくれるし」
重さとか今更?と小首を傾げて、一体伏黒は何をきにしているのか、と彼女は不思議そうにさえしている。気を遣ったつもりが、伏黒は自分がスベったような感覚に思わず奥歯を噛んだ。
「俺だって影は把握しきれてないんだぞ。何かあったらどうする」
「でもさ、なら尚更そういうの、実験?した方が良くない?」
もっともらしいことを言って、影すらも把握しておきたいという独占欲を伏せたまま、彼女は伏黒へ詰め寄る。
ここで詰め寄られたからと簡単に了承する伏黒ではないが、常日頃彼女が気になっている彼は、彼女の願いを聞き入れたくもなっている。五条のせいか、生来の性格なのか、多少押しに弱い彼は、懇願してくる彼女にどうにも気持ちが動かされてしまう。
「ちょっとだけだぞ」
「やった!」
彼女が嬉しそうに笑うのを見ると、伏黒は善行をしたような気分にもなる。これは実験、と伏黒は内心で言い聞かせながら彼女に手を差し出す。
「絶対離すなよ」
「うん!」
ただ影に入るだけかと思っていれば、伏黒が手を差し出してくるから彼女は嬉しそうに握る。触れ合った手に彼女は舞い上がってしまう。
手を取って、お互いその場にしゃがみ込んで影を見つめる。彼女が伏黒の手を握りながら片足を少し入れると、繋いでいない方の手で、OK、と問題ないことを伝える。
「反応なかったら暫くそのまま入れとくが、危険だと思ったらすぐ合図送れ。俺の手の甲を叩くとか」
「了解」
彼女がぐっと親指を伏黒に力強く向けるとトプンとまるで水に入るように彼女は黒い沼へ消えてしまった。
水の中の様な感覚に、彼女は身震いする。息はどうすればいいの、と酸素が感じられずにただ暗い、底の見えない闇に急に恐ろしくなる。伏黒は暫くしたら引き上げてくれるような言い方をしたが、一体どのぐらいで引き上げてくれるのかがわからない。手を叩く、と言ったが、自由な片手がしっかりと掴まれた伏黒の手に何故か届かない。このまま窒息してしまうのではと、ひ、と彼女の喉が引き攣ると急に体が引き上げられた。
「おい!大丈夫か?!」
真っ暗な空間から急に光のある世界に引き上げられて、彼女の視界が明度の差に眩む。焦った様な伏黒の視線でやっとここは影から元いた空間に戻ってきたのだとわかると、彼女はなにがなんだかわからないままにぼろぼろと涙を流している。伏黒は、彼女の手が震えている気がして引き上げたが正解だったようだ。泣いている、ということは怖かったに違いない。
泣くな入りたいって言ったのはお前だろ、そう言いたいのにあまりにも彼女が泣くものだから、伏黒は喉の奥が詰まる。ぼろぼろと流れる雫をどうするべきかわからず、持っていたハンカチを差し出すが、彼女は気付いていないのか受け取らない。伏黒が縁で軽く拭ってやると、されるがままになってくれてはいるが、彼女は泣き止まない。
ハンカチ持つのはエチケットだよ、というなんだかんだと育ちの良い五条の教えと、ハンカチ持った?と毎回確認する津美紀のおせっかいもあって常備していたものが役に立っている。役に立っているが彼女は泣き止まない。お互いに握っている右手がしっかりと握られたままで、伏黒はいやにそれを意識してしまう。
手が空いていれば、例えば髪を撫でるなり、頬を撫でるなり、背中を撫でるなりして落ち着かせることが出来るが、当たり前にそれが出来る距離感を持つ間柄ではない。それでも何か出来ないかと、伏黒が握っている手を少し強く握り返すと、すんすん、と段々彼女は泣き止んでくる。
「不純異性交遊〜青春だなぁ〜」
「おかかぁ・・・」
「そういうのは余所でやれー」
パンダは楽しそうにウキウキしながら、狗巻は少し恨めしそうに、真希はどうでも良さそうに自動販売機の前を通りすぎていく。そういうんじゃないです、と伏黒は反論しようと思ったが、出遅れてただ三人の先輩を見送って終わってしまう。パチン、と聞こえた音に伏黒が視線を戻すと、彼の手を離して彼女は自分の頬を叩いている。
「よし!ごめん!吃驚したけどもう大丈夫!」
もう一回!と彼女が意気込むが、もうやらない、と伏黒は思い切り顔を顰める。彼女の慰め方を真剣に考えたのに、本人は既にけろっとしているのを見ると、悩んで焦った自分に伏黒は何とも言えない気分になる。彼女に完全に振り回されている。
振り回されている、と自覚して、ぐっ、と伏黒は喉の奥が引き攣る。術師としてまだ半端なのにこんなことにかまけている暇はない。
「待って伏黒!今度はちゃんとするから!」
半端な気持ちで影に入りたいと言った、と伏黒から勘違いされたと思った彼女は、立ち上がった伏黒の手を掴んで引き留めてくる。その手がいやに熱く感じて伏黒が顔をそらすと、なおも彼女は追い縋ってくる。
勘弁してくれ、自分の中で育ちに育ってきた感情が、どうも上手く扱えない気がして、伏黒はこっそり溜め息を吐いた。

(20220205プラス掲載)



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