黄昏に待てど暮らせど ※あんまり甘くない 「今日キスの日なんだって」 そうぽつりと口にした五条は、助手席から外を見ている。普段正面から見ると五条のその美しい瞳は、真っ黒なサングラスで隠れている。しかし今、名前が運転席からちらりと彼を見遣ると斜めに向いている横顔に、その神秘的なキラキラとした美しい色が窺える。夕方の光に照らされて、いつもの水色が少しだけ違うように輝いている。 2か月前に卒業し、正式に補助監督となった名前は、一人で責任をもって呪術師を任務地へ送り届けることを許された。それは一人前と認められたことだから喜ぶべきだが、今は運転しているのが勿体無い。五条が外を向いているのなら、例えば対等な術師ならば、後部座席で二人並んで座り、じっくりと彼を眺めることも出来たかもしれない。まあ、五条程の術師をじっくり眺めたところでバレてしまうだろうが。 五条は、任務を終えて疲れているのか、窓から外を眺めているばかりで、それきり黙ってしまった。 いつも底抜けに明るい五条がこうも無口だとどうしても気になってしまう。高専の先輩後輩だった彼らは、まあまあの関係を築けているはずだから話題を広げても問題ないだろうと名前は考えた。この居心地の悪さに、名前は口を開く。 「5月23日って語呂的に全然キスに結び付かないけど、何か由来でもあるの?」 名前がそう問えば、五条はちらりとこちらに視線を移したようだった。運転中で前を向いている名前でも五条のちらりとした視線に気付くのだから、彼女が外へ視線を向ける彼をガン見などした日は、やはりそれがバレてしまうだろう。不用意に視線を送らないようにしなければいけない。そんな視線がバレでもしたら、見惚れちゃった?などと五条からからかわれかねない。 「映画で初めてキス公開した日?だったっけ?」 「へーそうなんだー。何てタイトル?」 「知らね。なんか凄ぇ昔の」 五条の言葉の区切りは、この話を終わらせたそうだった。全く会話が広がらなかった、どうして、と名前は居心地の悪さを払拭できずに内心脂汗をかいた。まあまあの関係を築けていたと思っていたのは名前の独り善がりだったのかもしれない。夏油君助けて、と内心叫んだが、大罪人となってしまった彼に助けを求めるわけにもいかない。 「365日、何かしら記念日あることは知ってたけど、よくそんなの知ってたね。記念日カレンダー的なのでもあるの?」 「それは、す、」 五条は何か言おうとして口を閉ざした。苦虫を噛み潰したように口元を歪めているのを、ちらりと彼を窺った名前は見過ごさなかった。す、に繋がるのは、明らかに夏油傑のことだ。夏油君モテるからそういうの知ってそう、と名前はいつもなら返せるのに、高専を去った彼の話題を出すことは憚れた。 夏油の話題など、親友の五条が一番胸がつかえるだろうに、どうして夏油に関連する話題を出してしまったのか、名前はそれ以上考えないことにした。夏油が去ってそう経っていない。五条もまだ心の整理がつかないはずだ。うっかりと夏油の名前を出しそうになっているところから見ても、夏油の存在は五条に強く根付いている。 ふと先程の、初めて、という言葉に名前は、自分のキスの記憶を遡る。初めてキスをしたときは、とても神聖なものに感じたが、歳を重ねるごとに単純に皮膚がくっついているだけなのだと思い知る。 初めての彼氏とキスをしたことは、特別な出来事として記憶されてはいるものの、顔も名前も曖昧だった。 名前がそんなことを思い出して、赤信号で停止した車のハンドルから手を離して膝の上に置く。ここ信号長いんだよなぁ、とぼんやり考えているときだった。 「・・・キスしてみる?」 ぽつり、五条の抑揚の無い声が聞こえて、名前は思わず五条に目を向ける。パチリ、と視線が合ったような気がした。助手席から入る橙が逆光になり、真っ黒なサングラスで五条の瞳も表情も名前からは全く見えやしない。五条の抑揚の無い声がほんの少し上擦っていたのは、きっと名前の勘違いだ。 「五条君、それセクハラ」 「あ?」 「パワハラも追加ね」 「は?」 「深刻そうに特級様にそんなこと言われたら、しなきゃクビになる!なんて思われかねないよ」 「何だよそれ」 名前が先輩としてそう忠告すると、五条は何故か脱力している。急にけたたましいクラクションを鳴らされて、名前も五条も肩を震わせ、慌てて車を走らせる。クラクションは苛々として押されたのだろうに、それを受けた名前は、居心地の悪さが払拭できていた。驚いた、一時的なものだろうが。 キスの日に気になる子に話題をふってみるのもいいよ、気があるか反応でわかるだろ、まあ下手を打てば最悪な展開になりそうだけど、と夏油が五条にそう告げたのは、何がきっかけだったのか五条は思い出せない。キスの日だなんて、今日の日付に、ふと思い出しただけだった。 それとは正反対に覚えていることがある。夏油に何でも話していた五条は、何となく名前に対しての不思議な高揚をずっと打ち明けられずにいた。それが何なのかもわかっていなかったし、どう打ち明ければいいかわからなかった。我慢出来ずにやっと夏油に打ち明ければ、彼は少しだけやるせなさそうに笑うだけだった。その表情の意味を五条はあまり深く考えなかった。 「名前さんを奈落に突き落とす気?」 夏油にそう問われたのは、五条が名前に告白する、と打ち明けたときだった。どういう意味かわからずに五条が不機嫌に詰め寄れば、夏油は静かに畳み掛けるように言うのだ。 「悟の家は異常だよ。悟はずっとそこで育っているから異常さに気付かない。頭ではわかっているだろうけど、感情は追いついていない。呪術師の家系じゃない一般出の人間は、五条家の感覚についていけない。ましてや名前さんは良くて補助監督だ。彼女は五条家に潰されて、きっと心が壊れるよ」 それでもいいから縛り付けたいというなら別だけど、夏油が静かに付け足したそれは、五条を窺うように言ってくる。つい言いすぎたと感じたのだろう。 夏油は正しい。 五条家の血を絶やさないようにするあの家が、他家と縁を結ぶことを歓迎するはずがない。五条悟の相手ともなれば、補助監督程度の術師など話にもならないだろう。五条が発言力を利用して、名前との関係をもぎ取ったとして、彼女の側に四六時中いられない五条は、五条家からの悪意を全て払うことなど出来ない。心が壊れた先など考えも及ばない。 五条は名前の事情など全く考えていなかった。ただ燻っている感情をどうにか処理したかった。その後のことは考えなかった。例えば名前とどうにかなったとして、その後のことはその後のことだ。夏油はそんな、どうにかなると考える無責任な五条の性格を見抜いていたのだろう。見抜いていたからこそ、親友が大事にしている焦がれている相手を守るよう戒めたのだ。 例えば名前の気が強ければ、例えば彼女が秀でた術師なら、例えば彼女が五条家の人間であれば、五条は足踏みしなかった。 名前は、少し呪霊が祓えるだけの、ごくありふれた普通の女性だ。 今、名前をどうにか自分のものにしようだなんて、五条は考えていない。ただ、少し思い出が出来ればいいと思った。キスの日だからと、あわよくばキスでも出来れば、と邪な思いがあった。それがなくとも、名前の表情が少しでも淡いものになってくれるのなら、それだけでも五条は嬉しく感じることが出来るような気がした。 しかし、五条の思う展開も反応も得られなかった。キス出来ればラッキー程度に思っていたが、それがなくとも多少の反応を見せてくれるかと思っていたのに、名前は一粒ほどの波紋も起こさないほど、何も見せはしなかった。脈がない。名前が完全に先輩後輩に徹していることは、五条とて何となくわかっていたが、わかっているのと、目の当たりにするのは全く違う。はあ、と五条は溜め息をついて、自分の気持ちを沈ませた張本人から顔を背け、窓の外を眺めることにした。 五条君今溜め息吐いたな、と名前はまた居心地が悪くなった。そんな雰囲気が微塵もない先輩に、キスについて絡んでくるぐらいだから、きっと何かしらストレスでも溜まっているのだろう。こんなとき夏油君ならどうするのだろうか、いない人間に想いを馳せてもどうにもならない。そう気が付いて、名前は急にハンドルを回してしまった。思わずの行動に自分でも吃驚してしまう。 「は?高専逆だし。方向音痴かよ」 「いやいやちょっと寄り道しようよ、時間まだあるし」 そう名前は何でもない顔をしながらそう言うが、勝手にそんなことしたら学長に怒られるかも、と内心冷や汗をかいた。何か、良いも悪いもなんでもいいから言ってくれ、と名前は愛想笑いの能面の紐をしっかりと引き結んだ。 「別に、いいけど」 五条の今までの少しツンケンした物言いよりも大分穏やかな話し方に、名前はやっと居心地の悪さが取り払われるような感覚がする。柔らかい雰囲気の五条に、彼はやはりストレスでも溜まっていて、高専に真っ直ぐ帰るのが嫌だったのかもしれない、と名前はハンドルを切った自分の咄嗟の判断に自信を持った。どうせなら気持ち良く任務をしてもらいたい。 補助監督の仕事は任務のサポートだろうが、心のケアだってやったっていいはずだ。そう、補助監督としてやっているのだ。後輩を気遣っているだけだ。五条に何かしてやりたい、と何故だか名前はそんなことをたまに思うことがあるが、そう思う気持ちは飲み込んだ。それがどんな感情なのか、名前には見当がつかない。ただ、五条の気を楽にしてやりたいと思う。出来れば五条には笑っていてもらいたいと思う。 「名前さんさ、たまにでいいから、こうやってドライブでもしてよ。気分転換に」 五条は窓の外に目を向けたまま、何を考えているのやらわからないが、名前はそれで彼の気が晴れるのならば、任務の度にそうしてやろうと思う。夏油のように五条の拠り所には決してなれはしないが、名前にも少しぐらいは何か出来るような気がする。 「いいよ!時間あるしなんならこのままご飯行っちゃう?奢るよ!」 名前が了承したことに、五条は少しだけ微笑んだ。ドライブをしてくれるという約束をとりつけたのだ。花が咲いたようににこにこと笑う名前が見られるならば、五条は別に彼女が手に入らなくても構わない。彼女の隣に自分ではない男がいたって、自分とは違う男の子どもを孕んだって、おめでとう、なんて軽く言ってやれる。 彼女が変わらずたまに身近にいてくれるのならば、それは恋だとか愛だとかいうものよりもずっと尊いもののように感じる。 「何食べる?」 「俺が奢ってもいいけど?」 「え?いいの?何かな、特級様!」 「マック」 「やっすい!」 あはは、と大口を開けて笑う名前が見られるのなら、彼女を不幸せにする道を選ぶ必要はない。振り向いてくれなくて構わない。たまに隣で笑ってくれるなら、既に奈落に立っている五条には、それだけでもこの上なく幸せなことだろう。 (20220525) title:エナメル |