ゆめしょ | ナノ 08


08



ふに、と名前は唇を触ってみる。
いやいやいや酔ってたし妄想かもしれない、と名前はどこかへ行ってしまいそうな思考をしっかりと掴んだ。
五条とキスをして数日、名前はふとしたときに思い出しては一人で身悶えている。
そうあれは子犬か何かにちゅうする感じのソレ!と自分を納得させて過ごすのだが、どうにも頭の端に残っていて完全に消えてくれない。
名前の意識は、驚いて飛んでしまっていたはずなのに、目の前の魅惑的な瞳だとか、触れた唇の柔らかさだとか、頬や耳の辺りを撫でる指先だとか、と鮮明に思い出しては恥ずかしさに両手で顔を覆う。
いやいやいや夢だよだって、とまた彼女は頭が煩悩に支配されそうでどうにか理性を引っ張り出す。
名前が部屋へ入って振り返って見た五条は、何もしていなさそうに立っていたのだ。
きっと本当に何もしていないんだ夢だった、と結論づけて、それでも思い出される蠱惑的な展開を頭の中で再生させてはまた見悶えている。
駄目だちょっと心が疲れてきた、と無意識に熱くなる頬を軽く叩きながら、名前は家入のところへ行くことにした。
こんなときは家入の辛辣な言葉を聞いて気持ちを落ち着けるのが一番だった。

「しょう」

休憩中とプレートのかかった扉を勢い良く開けて、名前は家入の名前を途中まで呼んで喉の奥を引き攣らせて止まる。
いる、いる、五条悟がいる、と想定外の遭遇に驚きすぎて血の気が引いて、体がぶわわと音が着きそうな程、緊張で汗ばんでしまう。

「どうした突っ立って。」
「あ、いや、ナンデモナイデス。」
「なんで片言?」

家入に訝しげにそう言われて名前は定位置につこうとする。
しかし、そのいつもの定位置である家入の向かいには、五条が座っている。
五条がいるときは五条の横に座るのが定位置だ。
う、と戸惑いながらぎこちなく名前が座ると、それを何とも思っていないらしい家入と五条は会話を続けている。
名前には何を話しているのかわからない。
頭に入ってこないのだ。
五条の音を紡いでいるそれは、先日名前に触れたものだ。
いやいやいや夢だから、と名前は心の中で頭を振るう。
夢だと思い込む側から、あれは現実だったのだ、と脳内の奥底からまたあの日のことが再生され正気を保っていられない。

「だからさぁ、」

そう口にした五条は、丁度良い話の区切りだったのか、組んでいた足を解いて座り直す。
解いた足を開いて、とん、と少し名前の膝に五条の太股の側面が当たっただけで、彼女は体がゾワゾワと熱くなって反射の様に勢い良く立ち上がった。
名前ののその様子の可笑しさに、五条と家入はお互いに不思議そうに見合ってから名前に目を向ける。

「あ、わ、私!夜蛾学長に呼ばれてるんだった!もう行かなきゃ!」

夜蛾との約束はまだまだ先だがそうやって理由をつけなければ不自然で、咄嗟に名前の口から出たのだった。
名前が勢い良く立ち上がったせいで、椅子がけたたましく音を立てて倒れたが、彼女は気が動転しているのか、それを直すことせず医務室から出て行った。
名前のその反応に、五条は喉の奥で笑いを堪えるようにして彼女の倒した椅子を直している。
名前が部屋に入って来たときから様子がおかしかったことに家入は気付いていた。
あまりの名前の挙動不審と、この五条の笑いを堪える反応に、コイツ何かしたな、と考えなくても家入は悟ることが出来る。

「五条、何かしたな。」
「したよ。」

あーおかしい、とケラケラと笑いながら五条がすんなり白状するから、家入は眉間に皺を寄せる。

「あれは真面目だから遊んでやるな、と前に言っただろう。」

まだ名前が東京にやっきた頃に、五条が名前を気に入っているのかと思い、家入は何かある前に釘を刺した。
家入は名前をその頃から気に入っていたからだ。
差し入れを持ってくるから、という理由がその頃は大きかったが。

「それってさ、裏を返せば、本気なら良いってことでしょ。」

瞳を隠したままの五条の表情を窺うことは出来ない。
目は口ほどにものを言う。
軽薄に緩く唇が弧を描いて笑う五条がどれ程本気でその言葉を言っているのか、家入は測りかねた。

「僕も学長に呼ばれてるんだよね。まあ、時間はまだ先だけど、冥さん正面まで迎えに行かなくちゃだからそろそろ行くよ。久々に積もる話もあるしさ。」

五条は、慌てて出て行った名前とは対称的に、座っていた椅子を綺麗に戻すと、ゆっくりとした足取りで医務室を出て行った。




どうしてまたいるの、と名前は咄嗟に出てきた医務室から、時間を潰してゆっくりと向かった学長室で再び五条と出くわした。
名前は慌てて出てきたくせに、ゆっくりとしていた五条と同じ時間、同じ場所にいる。
これでは夜蛾との約束を口実に退出したことがバレてしまっている、と名前は五条を避けていることが本人に伝わってしまってばつが悪くて俯いた。
そうやって名前は気にしているのに、五条は全く気にせずに名前の目の前に一緒にいた冥々を誘導する。

「名前は冥さん初めてだよね!こちら冥さん!フリーの一級呪術師で、守銭奴だからお金出せば何だってやってくれるよん!」

その紹介の仕方はどうなの、と名前は思うが、冥々が気にしていなさそうにしているから五条に名前から何か言うことはなかった。
というか私の紹介はしてくれないのか、と名前は冥々に手を差し出して自分から自己紹介をする。

「名字名前です。はじめまして。」
「はじめまして。冥々だ。」

握手を返してくれた冥々は、名前をじいと見つめると、楽しそうに微笑んでいる。
何故そんな顔をされるのか、名前には見当がつかなかった。

「ふふ、君は金になるな。」
「かね?」

かね、とは守銭奴らしく金だろうと名前は当たりをつけながら聞き返すと、冥さん、と五条が話を遮ってくるからそれ以上話が聞けなかった。

「それにしても君、少し迂闊すぎやしないかな。」
「はい?」
「私が握手をして力を発揮するタイプの術師だったらどうするんだろうか、とね。命を狙われているというのに。」
「は・・・!」
「あははは、冥さんからかうのは勘弁してやってよ。名前田舎育ちだからそういう警戒心ゼロなんだよ。」

多少小馬鹿にした言い方の五条に、名前はムッとしてしまうが、彼の言う通りだから何も言い返せない。
高専内だからということもあって、名前は全く警戒をしていなかった。
そもそも自分が本当に狙われているのか、というのも名前は実感がなかった。
襲われたのはあの一回だけだからだ。
冥々は、言い返せずにムムム、と口を閉じている名前を面白そうに笑って見ているだけで、五条の名前に対する嫌味ともとれる発言を咎めることはない。

「そろそろ話を始めていいか?」

名前は、夜蛾に呼ばれてきたのに、五条に気を取られて挨拶すらしていなかった。
今声をかけられるまで、寧ろ存在に気付いていなかった。
夜蛾はそんなことは気にしていないようで、話を続けている。

「名前が先日襲われた件について、冥々に調査してもらった。」

夜蛾は、重々しい口調の割に溜息混じりにそう告げて、どこか呆れているようにも感じて名前は首を傾げる。

「こういった写真が出回っていてね。」

冥々が自身のスマホを取り出すと、画面を操作して写真を名前と五条に見せてくる。
写っていたのは、丁度1年程前名前と五条が観光しつつ、カップルのふりをして特典をもらっていたときのものだった。
記念に、とサービスで店員にスマホで撮ってもらった写真は、名前と五条の距離が近く、カップルにしか見えない。
店員の前でよそよそしくしちゃバレるから、とノリノリだった五条に乗せられて、名前もそれに倣って恋人繋ぎや腕を組んだりしていたのだ。
スイスイと画面をスクロールさせて見せられた写真は、どれもそういった状況で撮ったものだった。

「懐かしいねぇ。」
「この限定アイスもう一回食べたいなぁ。」
「五条君はわざとだろうが、君の察しの悪さはとんでもないな。」

これがなにか、と名前が冥々を窺うと、冥々は呆れたように名前に言葉を返してくる。

「君、五条君の女だと思われているよ。」
「え?!」
「五条君の弱みになるとでも思って君にちょっかいをかけた、という話。」
「ちょっと待ってください!そんなの!五条さんなら色々写真ぐらい撮ったりするでしょ!!」
「えー僕面倒臭いの嫌だからそういう系の写真は撮らないよ。」

僕の事何だと思ってるの名前ってたまに失礼だよね、と五条が名前と冥々の話に割って入る。

「女の子と写真撮って今みたいに勘違いされても困るし。名前はこういうの撮っても見せびらかしたりしないだろうし。」
「いや出回ってるみたいなんだけど?!ていうかなんで?!私SNSに載せるとかそういうことしてないのに!!」
「ネット環境やスマホに干渉できるタイプの呪詛師がいるのかもしれない。今や呪術師の能力が電子機器を媒体とするのもそう珍しくはない。」

名前1人慌てていて、五条も冥々も淡々と事態を受け入れている。

「そんな勘違いで狙われるとか嫌なんですけど!違うってことをなんとか証明して・・・ていうか私が五条悟の相手って分不相応過ぎる!!」
「名前落ち着け、今はお前が狙われていることに対しての対策が必要だろう。当面高専に身を寄せろ。」

夜蛾の言葉に、名前は承諾せざるおえない。
今名前が五条の女であると認知されているのなら、名前が実家に帰れば家族に迷惑がかかる。
丁度今週名前の部屋の契約が切れるからと不必要なものは廃棄し、必要な荷物は段ボールに纏め終えているからスムーズに引っ越しは出来る。
なんと面倒なことになったことか。
勘違いで命を狙われるなんてそんな不幸なことがあるだろうか。
名前は実家に帰って暫くはのんびり過ごす予定だったのに、と。




翌日、高専内の少し外れにある小ぢんまりとした一軒家に名前は足を踏み入れていた。
びっしりと呪符が貼られた外観は、名前が見てもおどろおどろしい雰囲気で、思わず引いてしまった。
案内しますね、と言った伊地知は、五条さんから名字さん以外が入ると大変なことになると言われてますので、とそそくさと家から遠ざかっていった。
名前は、見捨てられたような気分になりながらも意を決して家に入ってみれば、中は思ったよりも小綺麗で、備え付けのソファやテレビ等、生活に必要な家具家電もあり、身一つでも良さそうなほど色々と揃っている。
高専の施設だからか誰も使っていなさそうだが誇りなどもなく清掃はされているようだ。
そうやって部屋を見回っていると、チャイムが鳴るから慌てて名前はドアを開けた。
勝手に入ると大変なことになるだなんて、そんなリスクを訪問者に負わせられない。

「どうも〜!引越し屋五条です〜!」

おどけた調子で玄関に立っていたのは五条だった。
引越し屋と名乗る五条は、名前が昨日高専の受付に届くよう手配した彼女の荷物である段ボール数箱を持っている。

「入るよ。」
「ああ、うん、ありがとう。」

名前が扉が閉まらないように押さえていると、五条は段ボールを軽々と持ちながら入り、リビングにそれを置いた。

「ま、大変なことになったけど、丁度実家に帰る引越しの準備してたんなら手間はそんなにかからなくて良かったね。」
「命狙われてるけどね・・・」
「だーいじょうぶ!命とっちゃったら僕のこと脅せなくなるんだよ?死にはしないって!」

ケラケラと緊張感なくそう言う五条に、名前は脱力する。
物の考えがどうしてこうも軽いのだろうか、と思うが、どんなことも難なくこなす五条のこと、きっとこういったことですら些末事なのだろうと名前は思った。
気にするだけ損であり、無駄なのだ。

「これは食器類?これは衣類?」
「あ、ちょ、下着とか入ってるから私開ける。」

名前がそう言うと、五条はガムテープに爪をかけていた指がピタリと止まって、名前に笑いかけると一斉にそれを剥がしてやった。
きゃああああ、と名前が叫ぶのをまたケタケタと笑いながら五条は眺めた。
こういう人なのだ、と名前は真っ赤になりながら段ボールを奪い返した。

(20220403)





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