ゆめしょ | ナノ 07


07



きっとこんな機会はもうないだろうから見ておきなさい、そう父親に言われて、名前は高校生の頃に一度だけ、地方へ来ていた五条を見たことがある。
見たとして何がどう変わるわけもない。
自分はこの世界でただ生きているだけであり、特別な何かなど持ち得ない。
名前は、産まれ育ったこの地で呪術師として生き、結婚して、術師の子どもを産む。
呪術師の女の役割など力を持った子どもを産むことだけだ。
少し強ければ優遇もされる。
それなりの力を持ち、それなりの人間と結婚して、それなりの子どもを産む。
ただ、名前の家系はそう煩いものでもない。
ましてや名前はその末端だ。
親も術師ではあるが、術師として生計が立てられないことを考えて勉学を優先させるのだから、家を継げともそう煩くは言わない。
『五条悟』を見たからと何が変わるわけでもない。
ただ、有名人が凱旋したのを観覧スペースで眺めるだけのようなものだった。

実際に見るまで名前はそう思っていた。

見物人の向こうに見えた五条の、サングラスから覗く眩むほどの瞳が、名前はただ美しいと思えなかった。
どうしてこの人の瞳に自分は映っていないのだろうか。
どうしてこの人に自分は認知されていないのだろうか。
その瞳に映っていない自分はなんて意味のない存在なのだろうか。
まるで世界から拒絶されている気分だった。
どうやったら彼の瞳に映るだろうか。
どうやったら彼の記憶に残るだろうか。
例えば、術師として力があれば、自分が死んで惜しいと思ってもらえれば、少しでも悲しんでもらえる存在になれば、やっとこの意味などなかった世界に認知してもらえる。
死んで、ほんの少しでも悲しんでもらえるなら。




「帰る?」
「実家に?」

名前の言った言葉を五条と家入がそれぞれオウム返しにする。
驚いている彼らに、そんなに驚いてもらえるの、と名前は吃驚し返している。

「親に一人暮らし心配されてるし。元々都会にそう長くいるつもりなかったし。まあ、予定よりはだいぶ早く帰るけど。」
「なんでそういうの勝手に決めちゃうの。」
「えー、悩んでたら相談するけど、悩んでないし。」

ぶす、と五条が面白くなさそうにしているのは、怒っているのだろうか、と名前が少し心配していると、彼は横から彼女の頬を摘まんでくる。
頬を摘まんでくるというアクションを起こすのだから、怒っているというよりは不貞腐れているのだろう。

「それでいつ?」
「1ヶ月後。」
「はぁ?!」
「いひゃいっ!」

家入の問いに名前が答えると、五条が面白くなさそうな声を上げて、頬を摘まむ指に力を入れる。
本当は痛くないが反射的に名前は痛がっていた。
痛がっておどけた方が構ってもらえるからだ。

「1ヶ月でどこ遊びに行くの?」
「私と呑みに行かないつもりか?」
「へへ。」

2人に詰め寄られているのに名前は何だか嬉しい。
騒いでくれるのは、別れが惜しいからだ。
惜しんでくれるぐらいには五条にも家入にも名前は友人として認められている。

「1ヶ月でいっぱい遊ぶし呑みにもいこうよ。勿論、高専からお仕事もらったら受けるし。それ以外でも遊びにくるし。」

何笑ってんのこっちは納得できてないんだよ、と五条が頬を摘まんでいるのを、家入も真似して摘まんでくる。
ぐにぐにと2人から摘ままれているのに、嬉しそうな名前の表情は変わらないから、飽きてきた彼らは彼女の頬を離した。

「自分の目標にしていることに手が届いたから。」
「何、何?気になる、教えてよ。」
「教えません!」

前にも言ったじゃない、と名前が言うと、五条は、ケチ、と拗ねている。
高校生の頃、五条と一方的に出会った名前は、死に物狂いでそれまでの鍛練の遅れを取り戻した。
それも五条に認知されたいが為だった。
五条の記憶に残るほどの強さを見せ付ければ、彼は名前の死を惜しんでくれるだろう。
彼が惜しみ、その記憶に残るのなら、これほど幸せなことはない。
五条の記憶に残らなくても、死を認識して一瞬でも思い出してくれるのなら、足元に纏わりつく枯れ葉程度に少しでも不快だと思ってくれるのなら、この世界に産まれ出でた意味がある。
五条に認識してもらうまで数年はかかると思っていた。
それが1年程で済んだのは、運良く距離を詰められたからだ。
ここを離れるの急ってわけじゃないんだよ、ちゃんと夜蛾学長とも前から話はしてたし、と名前が言うと、ふーん僕は今聞いたんだけど、とまた面白くなさそうに五条が今度は名前の頬をつついてくる。
ふーん1ヶ月か、と五条が呟いているのを、寂しがってくれているのかな、と名前はまた頬を緩ませた。




やれ遊べだの、やれ呑みに付き合え、と目まぐるしくそれからの半月を過ごしながら、名前は何とか荷物整理を終わらせる。
今日は夜悟とご飯食べて、仕事終わった硝子ちゃんが合流して居酒屋行って、と予定を確認する。
名前が実家へ帰るまでにこなすべき任務を夜蛾によって詰められているから、下手を打つと予定が全て狂ってしまう。
高専行く前にここ行って、それからここと、と街を歩きながら五条と待ち合わせしている高専と、次の任務の位置関係などを確認していると、不意に声をかけられた。
相手は名前の名を知っているのに、彼女は相手のことを全く知らなかった。




名前が待ち合わせに遅れると、五条が唇を尖らせて居酒屋で待っていた。
遅れる、と名前から連絡を入れていたはずなのに五条が御機嫌斜めなのは、彼女が実家へ帰る前に連れて行こうと思っていた店の予約に間に合わなかったからだ。
急遽待ち合わせを高専から居酒屋にして名前が慌てて店に入れば、五条は唐揚げを摘まみ、家入は既に日本酒を呑んでいる。

「襲われた?」
「そうなんだよねぇ、相手は私のこと知ってるんだけど、私は相手のこと知らなくて。覚えてないだけかな?」

もう身柄は高専に預けたんだけど、呪詛師だと思うんだよねえ、と何とも緊張感なく名前が言うのを、五条も家入も緊張感なく聞いている。
目の前で明らかに無事な名前が、のんきに運ばれてきた日本酒をちびちびと呑んでいるからだ。

「で?何が目的だったの?」
「さあ?弱くて一発KOかましちゃったから聞けなくて。」

あはは、と笑う当の本人である名前のあまりの緊張感の無さに、家入は溜め息をついている。

「弱くて良かったけど、また襲われることもあるかもしれないんだから、暫く高専に泊ったら?」
「私の部屋結界張ってあるし大丈夫だと思うけどなあ。」
「部屋帰るまでに、今度はもうちょっと格上に襲われるかもしれないよ。」

ねえ五条、と家入が五条に話を振ると、彼はフライドポテトを口に数本入れているところだった。
五条がもごもごと咀嚼して、メロンソーダで流し込んでいるのを、時間が止まっているかのように名前と家入は見つめて待っている。

「大丈夫じゃない?名前強いし。」
「そうそう。」
「いくらそうでも、相手が何人かで襲ってきたらどうなるかわからない。」

名前が怪我をして医務室に来たことはない。
怪我など全くしないのだから、強い、というのは驕り高ぶった自己評価ではない。
とはいえ、名前を襲った人間の目的も今のところわからないのだから、再び襲われることもあるだろう。
酔っているところなど、格好の狙い目だ。

「五条、帰り送ってやれ。」
「うん、いいよ。」
「え?そんないいよ大丈夫だって。」
「あ、伊地知?ちょっと今から言うとこ迎えに来てよ。ついでに何か食べていいよ。」

え゛伊地知さんに迷惑じゃ、と名前がスマホで呼び出しをかける五条を止めようとすると、家入が名前を止めてくる。
この2人たまに連携いいな、と名前は止められるがままに口を噤んだ。




伊地知さんありがとうございました、いえこちらこそごちそうさまでした、と名前のマンションの前で伊地知と彼女が挨拶を交わしていると、いや奢ったの僕だからね、と五条が割って入ってくる。
部屋まで送るよ、と歩き出す五条に、名前はついていきながら、伊地知さんに御礼しなきゃ、と言うと五条は、別にいいんじゃない仕事の内だよ、と男を労わない五条らしく冷たく言う。
伊地知さん大変だなあ、実家帰る前に何か体に良いもの差し入れようかな、と名前は素っ気ない五条には口に出さず、エレベーターの中でこっそりと計画を立てる。

「悟も送ってくれてありがとう。」
「御礼にお茶でもどうぞはないの?」

名前はの自室の扉を背にして五条を振り返ると、ああそんな会話こっちに来たときにしたなあ、とほんの1年ぐらい前のことなのに、昨日のことのように感じて少し笑ってしまう。

「ほら、男を上げるなって父親に言われてるから。」
「二十代も半ばなのに親の言うこと聞く必要ないでしょ。」
「へ?」

名前の予想と違う言葉を五条が返すから、彼女は思わず変な声が出てしまう。
正しい返しは、父親出されたら男は何も言えない、ではなかっただろうか。

「あ、伊地知さん待ってるし。」
「別にいいよ、伊地知は待たせとけば。」

いやよくないよ、と名前は心の中だけで反論した。
確か前はタクシーのことを引き合いに出せば、そう言えばそうだ、と五条は返したのだ。
何か違う、と名前は内心ダラダラと変な汗をかいていた。
五条の声がいつものような、楽しそうなからかうようなものではない。
果たして笑っているのだろうか。
目が合えば呑まれてしまうような気がして、名前は五条の顔から視線を外して胸の辺りを見ている。
距離も何だか近いような気がするのだ。
痛くない程度に頬や鼻を軽く摘ままれることが増えたが、そんな軽いものとは何だか距離感が違う。
思わず一歩名前が下がると、扉がガタンと硬い音を立てる。
逃げ場はないよ、とその音に告げられているようだった。

「ねぇ、入れてくれないの?」

五条から顔を近付けて囁かれ、名前はその顔が見られなくて俯く。
どうして顔が見られないのだろうか。
案外五条は何でもない顔をしているのかもしれない。
からかおうと、もしかしたらニヤニヤとしているかもしれない。
きっとそうだ、と名前が思っていると、急に五条が顔を覗き込んでくる。
近い、と名前が顔を引くと、コツ、と頭が扉に当たる。
唇にふにゃりと人肌が当たったのはそのすぐあとだった。
パチ、パチ、と名前が突然のことに瞬きをしていると、五条と目があった。
キラキラした宝石の様な瞳がこちらを見つめている。
それに名前はぐるぐると目が回る。
頭が何も処理できていない。
ゆっくりと離された唇に、名前が瞬きをするばかりで何も言えずにいると、ふに、とまた唇に柔らかいものが当たった。
名前の頬を五条の指先が撫でて、掌で頬を包まれると上を向かされる。
唇を食まれて、ちろりとぬるりとしたものが名前の唇を舐めたような気がして、ぐるぐるとした思考は限界を越えてしまった。
どん、と腕をどう動かしたのか、名前は五条を押し退けていた。
五条を見ると、キスなんてしてません、押し退けられてません、立ってただけです、という何でもないような顔で五条はそこにいる。

「お、おやすみなさい。」
「おやすみ。」

名前がぎこちなく鍵を開けて扉を開閉し、慌てて部屋へ入ると五条の姿が見えた。
もしや無理矢理入ってくるなんてことがあるのでは、と思ったが彼がそうする様子は微塵もなかった。
どて、と名前は尻餅をついて玄関に倒れ込んだ。
何だコレ、あっそうか酔っ払って見た夢か何かか、と名前は処理しきれない頭でオチをつけようと思うのに、自分を納得させることが出来ない。
ふにゃりとした唇の感覚と、ちろりと唇を舐められた感触は、どうしたって夢で片付けられるものではない。
五条悟とキスするとかどんな御褒美なの前世でどんな徳を積んだの、と名前は腰が抜けて暫くそこから動けなかった。

(20220213)





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