こっち来て、と強く引かれた手に体勢を崩しかける。たたらを踏んだ自分を咄嗟に支えてくれようとしたブレインストームを空いている方の手で制した。ありがとうまた明日、と口早に要件を述べる間も歩を進める相手と掴まれた片手はそのままで、結果的に呆れたように肩をすくめた相手が小さく振った手だけが視界を横切った。 「リワインド」 返事はない。クロームドームは一旦口を閉ざし、はて自分は何かしてしまっただろうかと思い起こしてみたが、テイルゲイトに渡すものがあるから先にバーに行っててと数メガサイクル前に通路で別れた時はまだリワインドの機嫌は良かったように思う。そこからの自分の行動と言えばバーを訪れ、そこで偶然遭遇したブレインストームと少しばかり立ち話をしていた、というだけだ。単なる嫉妬の可能性もあるが今までだってブレインストームと会話している横にリワインドがいたことなど何度もあるし、常ならぬ様子から彼が随分とピリピリしているのだということも分かる。いったい何が原因で彼の怒りを刺激してしまったのかまるで分からない。 こういった場合はあくまでも相手の好きにさせようと大人しく手を引かれるがまま足を踏みだしたクロームドームが前屈みになってしまうのは互いの体格差のせいであってどうしようもないことなのだが、今の小さな手の持ち主にはそれすらも不快さの要因となるようだった。ちゃんと歩いてくれよ、と苛立った声で一瞥される。 自分勝手で我が儘な言動に何も感じないわけではなかった。本当は問いたい言葉も喉元までせり上がってきた反抗の言葉もクロームドームは持ち合わせていたのだけど、それをあえて相手にぶつけようと思わなかっただけだ。ごめん、と咄嗟にマスクの奥から絞り出した謝罪は思ったよりも相手の機嫌をとるものだったらしい。ほんの少しだけ歩調を緩くしたリワインドの指がクロームドームの指をきゅっと握りしめてくる。こちらの機嫌を伺うかのような頼りない力加減。それだけで呆気なくすべてを許してしまう自分も大概だなとクロームドームは思った。 「ねぇリワインド」 ぴたり、少し前を歩んでいた機体が立ち止まったことで自然とこちらも足を止める。偶然にも自室のドアが視界に入るほど至近距離にあるのを見てこのまま彼に部屋へ行こうと提案すべきか、いやここは相手の目的地を把握するべきか、と僅かに思考を巡らせたクロームドームが選んだ選択肢は「リワインド」ともう一度名前を呼ぶことだった。繋いだ手はそのままに自分を振り返ることもなく俯いてしまった相手の後頭部を見下ろす。りわいんど。 「…なに、」 「どうかしたのかい」 握られている指を落ち着かなさそうに握り直す親友の小さな手の甲を宥めるように指で擦る。ずっと遠くで誰かの話し声がする。ふと、閑散とした通路にしゃがみこんで目の前の肩を叩いてみた。トントン、と呼びかける動きに観念したのか酷く緩慢にこちらを向いたバイザーに自分のバイザーとマスクが反射して不思議な色を映し出している。 ただ覗き込んだだけではその奥に潜んでいる感情の色までは分からないけれど。 「どうもしないよ」 「本当に?」 「本当に」 「じゃあ何で怒ってるのか教えてくれよ」 「…怒ってなんかないさ」 「怒ってるじゃないか」 「怒ってないったら」 ならばどうしてこの手を離さないのか。心中浮かんだ疑問に呼応するように掴まれている指で握り返すと、罰が悪そうに唸り声をあげたリワインドがゆっくりとクロームドームの指を解放した。そのまま前を進もうと踏み出された足に咄嗟に離された手を掴めば、前方につんのめった相手が驚いたようにこちらを振り返ってくる。ドーミィと呼ばれた愛称に応えるように引いた手は小柄な機体を随分とあっさり腕の中に引き寄せ、その勢いのままクロームドームはリワインドを抱き上げた。 え、と呆けた声をあげながらこちらを凝視してくる視線を感じながら辿ってきた道を引き返し始めたクロームドームに抗議の意思を示すように親友は腕の中で身を捩っていたけれど、自分の機体を包む両腕の力が緩む気配がないことを悟ると観念したように強張っていた機体を弛緩させた。こつりとクロームドームの肩にリワインドのバイザーが当てられる。親友に手を引かれ歩んできた距離はこうして自分だけで歩いている今、所要時間と比較してもずっと早く元いた通路へ戻ることができるだろう。その事実はまさしくクロームドームとリワインドの差を表しているようであり、同時にそれはクロームドームがリワインドへの愛情を再認識するための差でもあるのだと不器用な神経科医は思っていた。 「バーで一杯奢るよ」 「……」 「もし二人きりがいいのなら部屋に行こう」 「……」 「あぁ、星を見るのもいいね。きっと今夜はよく見えるよ」 「ドーミィ―…」 「…君が言いたくないことは、無理には聞かない」 リワインドが頑なに閉ざした扉をこじ開けてまで見たいものなんて俺にはないし、彼の意思を踏み躙ってまで得た彼の一部になんて欠片も興味はない。そんなものより仲間たちとくだらないことで笑い合う姿をただ眺めているだけの方がずっとずっとクロームドームにとっては幸福なのだ。 決して言葉にする日は来ないだろうが、本当は互いが互いに抱えている執着が異常ともいえる域に達していることなどとうに知っていた。知っていて、それでもなお手を伸ばせば届く距離にある小さな親友の温もりを手放したくないとすら感じ入るこの感情が独占欲と愛情以外の何物でもないのなら、どんなに汚い共依存であっても自分は幸福と呼ぶだろうこともクロームドームは理解していた。 リワインドの機体を抱き支える腕をそのままに、そっと抱き寄せ目の前の肩に額を押し当てる。ごめんねと心中こぼした謝罪は完全には彼の心の機微を汲み取ってあげられない自身へのものなのか、ここまで理解していながら情けなく縋りつくばかりしかできないことへの懺悔なのか、とうとうバーの入口まで舞い戻るまでクロームドームのスパークの中で曖昧なままだったけれど。 「…君が一杯奢ってくれるなら、僕からも一杯奢るよ」 だから飲み終わったら一緒に星を見に行こう、と小さな囁きと共に顔を上げたリワインドが心なしか柔らかな声音でドーミィと呼んでくれたから、マスクに伸ばされた小さな手が形を確かめるように触れてきたから、やはり彼から与えられる些細なものだけで自分はすべてを許せてしまうのだ。 I remember you saying so. (僕は君がそう言ったのを覚えているよ) ![]() |