ノックアウトは何も知らなかった。 自分がそれを知らない、という事実すら知らなかった。 「ノックアウト」 無骨な指がぼんやりとした自分の意識を呼び寄せて明確にしていくのを、たしかにノックアウトは感じた。わずかに身じろいだが頭部以外の動きが制限されているようなので早々に大人しくしていようと決めた。何故かオプティックの出力をオンにできない故に景色も何も把握できてはいなかったが、視覚情報など最初から欲してはいなかったのだからちょうどいい。する、と頬をなぞる懐かしい手つきに肩がびくつくのを必死に誤魔化す。 ノックアウトは知っていた。この声が指が気配が、自分のかつての助手のものだと知っていた。だからこそ頑なに抗った。どうせこんなものは質の悪い記憶回路のエラーだ。目が覚めてしまえば消えてしまう儚いものだ。そんなものに縋ってどうなるというのだろう私の助手が戻ってくるとでもいうのか彼は死んだのに死んだのに死んだのに私を残して死んでしまっ、た、のに。 「ノックアウト」 あぁやはりこれは夢だ、とノックアウトは無意識に上がっていく口角と共に自覚した。メモリーに記憶されている彼の声は戦闘での興奮と不器用な優しさしかまとっていなかった。それは相手が自分だったから、とも言えるけれどそれを認めてしまうのは何だか癪なので気づかないことにする(自分の知らない彼がいたのだとしても彼がいなくなってしまった今では確かめる術すらないのだからそんな思考を抱くことすら不毛だろう)。 ふわふわと温かいものが自分の周囲を取り囲んでいるのを感じる。白いもやのように曖昧で不確かなそれはしきりにノックアウトの名を呼び、ともすれば酷く優しい響きで意識を掠めとっていこうとするが、不思議なことに頬に触れ頭部側面のパーツの凹凸を辿っていく指の感覚だけが彼の理性を繋ぎ止めていた。 「ノックア「ねぇブレークダウン」 ぴたりと止んだ声に顔を伏せながらノックアウト自身も困惑していた。特に言葉を発するつもりなどなかったのに胸の内で呟いたはずのそれは呆気なく発声回路を伝い言葉として転がり出てしまったのだ。どうせならこっちもオフになっていれば良かったものを、とノックアウトは誰に対してでもなく心中で不満をこぼした。 「…ブレークダウン」 「……」 「私は、…」 ノックアウトは何も知らなかった。 自分がそれを知らない、という事実すら知らなかった。 いつだって自分には欺瞞と堕落が似合うだろうと思いながらここまで歩んできたし、実際にノックアウトの周囲を闊歩する者たちも同じような認識だったことだろう。ノックアウトはその派手な振る舞いも相まってか大概一人ではなかったが、その反面いつだって独りだった。気休めのように多少の馴れ合いに手を染めようとも結局は流れに身を任せるという自身の本質は何も変わらなかった。 だからノックアウトはいつしか、自身がそんな単純なことを忘却してしまっていたことにすら気付かなかったのである。気付きたくもなかった、と見えない目を伏せながら触れられたままの手の感触に酔う。わたしは、わたし、は、と続く言葉のない声が落とされる中、ノックアウトの顔を簡単に一掴みしてしまいそうな大きな手の持ち主は慰めるように触れてくるだけでまったく言葉を発しようとはしなかった。 「…私は、わたしには、だれも必要なかった」 「…」 「仮に求めたとしても、欲した瞬間からそれは弱みになる。そんなものは御免です。ただでさえ私が持つ利用価値にもかぎりがあるというのにこれ以上どうしろというんですか大事なものを抱えてそれに左右されてそんな曖昧なものを守るために必死になって生きろと…?」 「…」 「っ、…冗談じゃない! 私は私が一番大切なんですよ生きるためなら簡単に掌を返す、そういう奴なんです。今更そんな奴が無駄な荷物を抱えて生きていけるわけがない無理です、無理なんですよ、だから、私、は、」 私は、忘れていたかったのに。思い出したくなんかなかったのに。 ふと。それまでじっと頬を包んでいた暖かな指先がもぞもぞと動き、オプティックのふちを撫でてくる。ぽた、とノックアウトのフェイスパーツを伝い落ちたそれは小さな水音をたてながらどこかに落下し跳ねた。ぽたぽた。溢れ出した冷却水は止めどなく頬を無骨な手を濡らす。 ノックアウトは久しく冷却水をこぼすことも忘れていた。 そして何も知らなかった。自分がそれを知らない、という事実すら知らなかった。 しきりに冷却水を掬いとろうとする手を手探りで探し当て、触れる。そっと握る。こんな夢に縋るしかない自分が、馬鹿正直に自分が生みだしただけの相手に言葉を紡ぐ自分が、酷く滑稽だった。けれどノックアウトは良くも悪くも欲望に忠実であったから、せめて夢ならば、とその手を取り手の甲らしき部分に口づけた(たしかに温かさを宿しているはずのそれは妙に感触が曖昧で、愚かな赤い機体は改めて自身の視覚回路がオフになっていることに感謝した)。 「わたしはっ…、きみがいないと、泣くこともできなくなっていたんですね、」 ねぇブレーク。君がいなくて、とても寂しいよ。 けれどそれでもきっと私は相変わらず私のまま生きていくし君のことを四六時中思い出すことはないかもしれない。遠いあの日、医者とその助手として関係を結んだ日から、こんな私を「へぇ…いいんじゃねぇか? うまく言えねぇけどよ、なんか、あんたらしいし。俺は好きだぞ」と笑って受け入れてくれた君だから微塵も罪悪感を抱いたりはしないが。 「な、ノックアウト」 そろそろ起きようぜ、と呆れたようにこちらが握っていない方の手でノックアウトの頭を撫でてきた目の前の存在は、そうとだけ呟いてそっと距離をとった。それを感じた。離れていく手を慌てて追いかけようとしてそういえばここではまともに身動きすることもできなかったのだった、と思い返したノックアウトの指は自然と空を切りながら下げられていった。 先程まで自分を引きずり意識を掻き消そうとしていたような気配は今の彼にはない。カシャン、カシャン、と一歩ずつ遠のいていく足音に俯いたノックアウトの頬から、つぅ、と落ちた水滴を拭う指はもうどこにも存在しなかった。彼に触れられて形を成していた意識が再びゆっくりと霧散していくのを実感する。けれど妙に穏やかな気持ちのまま溶けていくようなそれにノックアウトは特に抗おうともせず大人しく身を任せた。 手が足が彼に触れられたというかんかくがしこうがいしきが、きえ、る 「You aren't alone, Knockout.…I'll be there for you.」 ****** [以下、担当ビーコンの経過報告書につき一部要約する] 経過観察○×日。機体稼働機能は正常値。 ノックアウト様は相変わらず目覚める気配なし。 経過観察○×日。機体稼働機能は正常値。 ノックアウト様は相変わらず目覚める気配なし。 経過観察○×日。機体稼働機能は正常値。 ノックアウト様は相変わらず目覚める気配なし。 経過観察○×日。機体稼働機能は正常値。 この報告書を読んだスタースクリーム様から一言添えろとの命令あり。 戦闘での負傷は完璧なリペアが施されたので何らかの心理的要因が関わっている可能性。 ノックアウト様はいまだ目覚めない。 経過観察○×日。機体稼働機能は正常値。 一瞬だけ何事かを呟いたようだが意識の浮上は確認できず。 ノックアウト様は相変わらず目覚める気配なし。 経過観察○×日。機体稼働機能の一部が急速ダウン。 現在は適切な処置により経過は良好。特に目立った外部負傷は見当たらない。 時たま苦しそうな様子でブレーク、と呟いている他は変わりなし。未だ意識不明。 経過観察○×日。機体稼働機能は正常値に復活。 スタースクリーム様曰くブレークというのはブレークダウン様のことらしい。 何かを探すように指が動くのを見かけるも相変わらず目覚める気配なし。 経過観察○×日。機体稼働機能は正常値。 ノックアウト様のスパークに不規則な脈動を感知。 数値は安定していたので問題はないと思われるが念のためスタースクリーム様に報告する。 ノックアウトという名のトランスフォーマーが無事目覚めたのはそれから数時間後のことであった、と、とある量産兵は語る。 ****** なぁ、とかけられた声に何ですかと問い返す。 ノックアウトは手元の作業に視線を落としたままであったが相手も同じようなものなので特に支障もなかった。スタースクリームは薬品類を片付けるこちらの隣で報告書をまとめている。本来ならこの片付けもスタースクリームの仕事なのだが、ノックアウトが目覚めなかった期間中にあれこれと仕事を担ってくれていたらしいのでこの場合はノックアウト自ら手伝いを申し出たのだ(そのおかげかメガトロンからも特にお咎めはなかったので今回ばかりは本当にスタースクリームに助けられたといってもいいだろう)。第一に、こんなことで無駄な借りを作りたくはない。 「ノックアウト」 「はい? だから何なんですか」 「…お前、さ。報告書とかもう読んだわけ?」 「報告書…あなたが今書いてるものも含めて候補が多すぎると思うんですけどねぇ、」 いったいどの報告書のことですか、と戸棚に戻した器具を横目に視線を向ければ相手はモニターの前で指の動きを止め何やら思案しているようだった。この口だけが取り柄な航空参謀にしては随分と珍しい光景である。ひとまず作業の手だけは休むことなくスタースクリームの返答を待っていたのだが、やがて一つ頷いた相手はそれきり口を開こうとはせず作業を再開したので、まぁいいか、とノックアウトも流すことにした。 (どうしようもない寂しさに蝕まれそうになった時は、起きろと背中を押してくれた彼のことを思い出すと不思議と満たされるようになった) (俺はあんたの傍にいる、とかけられた言葉の温度が幻であったかどうか、残念ながらそれを知る者はいない) |