淡い日のなかに置いてきた物がある ジョニィが彼女に再会したのは、レースが終わって2年後の1893年9月のことだった。1893年と聞いて思い浮かべる人も多いだろうが、その年はコロンブスのアメリカ大陸発見から400周年を記念してシカゴ万国博覧会が開かれた年である。シカゴ万博は、開催した5月1日から10月30日までの計183日間で来場者数は実にアメリカ国民の人口の約半数にまでのぼった。企画当初からパリ博を意識しており、特に区域内には世界初となる巨大観覧車も建造され、来場者は多くの展示物を楽しんだし、当時不況のさなかにあったものの経済的な成功をも修めた。 そんな万博もあと2週間で閉幕という9月の中旬、ジョニィは妻の理那と連れ立ってシカゴを訪れ万博に来場していた。「ホワイト・シティ」と呼ばれる化粧石膏を施された本部や主要館が並ぶ区域や、理那の故郷である日本から出展された「貴婦人の私室」、その他沢山の展示物を見てまわった。1日でまわりきるには些か無理がある会場内を、2人は足を叱咤しつつも楽しみ、最後に巨大観覧車に乗った。空にまで届くのではないかとも思えるほど大きな円形のそれは、いくつもの籠をぶら下げてゆっくりと回転していた。ジョニィは順番を待つ間それを見上げて、レースのあったあの時代はもう終わったのだと実感した。相棒と馬を並べて共に走ったあの道はもうないし、あの空はもうない。ジョニィの隣で理那が、観覧車とジョニィの横顔を見つめて目を細めた。 観覧車に乗って分かったことは、ジョニィは高い場所が駄目だということ。籠に乗って一周し、降りる頃にはジョニィはだいぶ気持ちが悪くなっていた。理那の手前そんな気配は微塵も感じさせないが、実は背中に冷や汗をかいていた。馬に乗って視線が高くなるのは心地よいのに、自分では操りようのない籠の中に閉じ込められ空の近くへのぼってゆくのはどこか心もとなく、胃が変に震える気がした。 地面にしっかりと、今では杖がなくとも歩けるようになった足をついてひとつ息をついた。隣で理那が楽しかったですねと笑った。つられてジョニィも微笑んで、ああ確かに楽しいというのはこういうことだと思った。理那の結った黒髪が風に揺られた。 ふと、視界の端に見知った何かが写った気がして振り向いた。桃色の、何か。それに焦点を合わせると、確かにそれは――その頭巾は見覚えがあるものだった。淡い桃色の頭巾と、その下に流れ出る真っ黒で艶やかな髪。ジョニィからは後ろ姿しか見えないが、片手に杖を持ち特徴的なソックスを履いた女性は見間違えようもなくレースで会った彼女だった。こんな人混みの中でよく見つけられたものだ。自分に感心しつつ、ジョニィは理那の手を引いて彼女の元へ向かった。 「ねえ、ちょっと、君」 くるりと振り返ったのはやっぱり、あのレースの途中の、ちょうどこのシカゴの辺りで出会った女の子だった。まあるい瞳はやはりあまり見えてはいないようで、暫くの間彼女はジョニィの顔をじっと見つめていた。 「ええと…シュガー・マウンテンって言ったっけ、君の名前。ぼく、君が番人をしていて最後に会った人だと思うんだけど」 そう言うと彼女は得心がいったと言うように、大きな瞳をもっと大きく開いて頷いた。 「ええ、ええ、あたし、シュガー・マウンテンよ。あなたは全てを使いきった人ね?お久しぶり!会えて嬉しいわ」 彼女は幼さを残した顔(1、2年でそこまで変わるとも思えないが、彼女は驚くほどにあの時のままの容姿だった)を、まるで純粋無垢な幼女がするようにほころばせた。彼女の名前の通りのこんもりと山のように盛られた甘ったるい砂糖が、ほろほろと崩れるようだった。 「あらでも、あなたの他に――」 彼女はジョニィを見、理那を見、もう一度ジョニィに視線を戻して言葉を止めた。その代わり、片手に持った杖をいじくりながら定型文をなぞるように言った。 「こんなところで会うなんて奇遇ね…お隣の方と一緒に来たの?」 「そう。理那って言って、ぼくのおよめさんさ」 およめさん、という言葉に理那はくすぐったそうに笑った。結婚して一年が経つというのに、まだ慣れないらしかった。そんな理那を、彼女は目を細めて見つめた。 「まあ!とってもカワイらしい方。ガールフレンドかと思ったのだけど、結婚してたの」 彼女のばさばさと長いまつげで縁取られた瞼が2度素早く上下した。大きな瞳を全部覆うのは大変そうで、きっと自分の瞬きの倍は時間がかかるんじゃないかとジョニィは思った。 「そう。去年に。君は誰と来たの?」 一瞬、彼女は戸惑ったように唇を閉じ、瞳をきょろきょろとさせた。 「あ…あたしはパパとママと来てるの。今は2人ともお手洗いに行っていていないけど」 「ふうん…」 彼女は左手を背に隠し、ジョニィの視線から逃れるように目を伏せた。髪と同じ、黒曜石のような瞳が瞼の下に隠れた。 「あたし、もう行かなくちゃ。パパとママがお手洗いに行ってる間だけ、観覧車を見ようと思ってここまで来たの。きっと2人とも今頃あたしの姿が見当たらなくて心配してるわ」 ジョニィと一度も視線を合わせないまま、彼女はそう言って逃げるように行ってしまった。長い黒髪を翻して、急いで歩いているために忙しなく地面を打つ杖の音を響かせて去っていった。また会えたらいいわね、と最後に付け加えて。 2人が思いがけずも再度会ったのは、万博で再会したわずか3日後のことだった。ジョニィと理那はシカゴに一週間宿をとっており、その日ジョニィは1人でシカゴの街をぶらぶらと歩いていた。 辺りは夕日に照らされて、建物も道も木も、全てオレンジ色に染まっていた。気の早いイチョウの木が黄色く色付いた葉を夕陽に差し出す様子が眩しく見えた。ジョニィが宿から出て15分もした頃、またも彼女の姿を発見した。向こうから歩いてくる彼女は視力のためかジョニィに気づいていないらしく、まっすぐジョニィの方へ近づいてきた。規則的に杖を地面に打ち、しっかりとした足どりで前を見据えて歩いていた。 ジョニィの手前2、3mでやっと彼の存在に気づいたのか、彼女は足を止めジョニィに笑いかけた。3日前に少し気まずい別れ方をしたというのに、全く気にもしていないようだった。 「また会ったわ」 彼女が弾むような声で言った。黒曜石はまぎれもなく、夜のシカゴの雑踏の中でジョニィだけを映していた。 「この間に比べたら、随分間隔が短いね…なんたってまだ3日しか経ってないんだぜ」 ジョニィの言葉に彼女はころころと玉を転がすように笑った。前回会った時よりも随分と楽しそうだった。 「ほんと、その通りね!今日お買い物に来なかったら会えてなかったかも。そういえば、あたしあなたの名前知らないわ。よかったら教えてくれないかしら?」 奇妙なことに、ジョニィは彼女の名前を知っているというのに彼女の方はジョニィの名前すら知らなかった。確かにレースで会ったが名乗り合う程の間柄でもなかったし、こうして喋るのもレースが終わってからまだ2度目だ。そもそも彼女とこうして再会するとも思ってもいなかったのだ。 「そっか、きみぼくの名前知らないのか。ぼくはジョナサン・ジョースター。でもジョニィでいい、みんなそうやって呼ぶ」 「ジョニィね。あたしはシュガー・マウンテン」 なんだかヘンテコリンな気分だった。もう知っている人物に自己紹介をして、されるというのはそうそうあることでもない(2年前のレースで起こったあまりにも奇妙なことはここでは差し抜いておく)。 シュガーはジョニィのアイスブルーの瞳を、顔を近づけてじっと見つめた。ジョニィは彼女の黒曜石に、全てを見透かされている気がした。シュガーは視力が殆どない代わりに、何か他のものを見れるのではないか…。 「あたしね、ジョニィ・ジョースター」 シュガーが囁くように言った。彼女の吐息がふわふわと唇に当たった。顔が近いせいでシュガーの真っ黒なまつげの一本一本がよく見えて、ひどくいけないことをしている気分に陥った。 ジョニィはシュガーが自分の名前を呼ぶのを聞いて、胃が変によじれて心臓の辺りまで来たのを感じた。 「あたしね、結婚するの」 胃が急激に萎んで心臓を縛り付けてから、鉛を入れたみたいに急に重くなって元の位置よりも下に収まった。ここに理那がいなくてよかった、とジョニィはぼんやり思った。シュガーの瞳にはジョニィしか映っていなかったから。 「とってもいいひとなの、目の悪いあたしを好きだって言ってくれて、なんだってしてくれるわ。パパとママとも仲がよくて毎週金曜日は夜ご飯を一緒に食べるの、みんな楽しそうにしてる。こないだもほんとはその人と一緒にいたのよ」 シュガーは早口で付け加えるように言った。ジョニィは何も言わなかった。ただ彼女の瞳を見つめていた。 「あたし、結婚するの…」 2人の顔の距離は離れていった。シュガーの唇は戦慄いていた。あのレースの日の、少しおかしな女の子はそこにはいなかった。泉の番人として大木の中に住んでおままごとをしていた女の子はもう、どこにもいなかった。 「だからジョニィ、もう会わないわ」 その言葉が全てを物語っていた。シュガーが結婚すること、ジョニィが結婚したこと、もう2人は会わないこと。 ジョニィはシュガーの頬をそっと撫ぜた。あの日一度だって彼女に触ることはしなかったジョニィの手は、初めてシュガーに触れた。彼女の頬は柔らかくてすべすべしていた。ふっくらとした、夕陽でオレンジに染まる唇を眺め、鼻筋のスッと通った小さな鼻を眺め、自分が今撫ぜている桃のような頬を眺めた。雑踏の中で2人だけが長い時間の中にいた。夕陽がベールのように2人を包んで、イチョウは静かに目を瞑った。 ぱちりと2人の視線が重なった瞬間、シュガーは弾かれたようにジョニィの手をはねのけた。彼女の瞳は真っ暗だった。夕陽はもう、あと数分も経てば完全に地平線の向こうへ沈んでしまいそうだった。冷たい夜風が2人の間を吹き抜けた。 シュガーは一歩後ろへ下がった。 「さようなら」 彼女の声は街の雑踏の中で消え入りそうだった。 「さようなら、シュガー・マウンテン」 シュガーの名前を呼ぶのはきっとこれが最後になるだろうとジョニィは思った。その予感が外れていないだろうことも。 「さようなら、ジョニィ・ジョースター」 シュガーが自分の名前を呼んだのを聞いて、ジョニィはやっぱりヘンな気持ちになった。 彼女は左手をあげて手を振った。ジョニィも手を振りかえした。彼女はそれを見て、くるりと黒髪を翻してジョニィとは反対方向へ歩いて行った。ジョニィも彼女に背を向けて歩き出す。彼女の杖の音は雑踏に飲み込まれて聞こえない。 手を振った2人の薬指には夕陽がくっきりと照らしだした指輪がはまっていた。 090714 こまち (あとがき) お題はへそ様より |