小説 | ナノ

アイラブ、ユーの先は君しかいないのに


リモコンのボタンを押して、テレビの画面を真っ暗にした。五月蝿く喋っていたコメディ番組の司会者は画面から姿を消して、何も喋らなくなったスピーカーはただの無機物に戻る。一瞬、静寂が部屋の中を占めたかのように思えたけれど、それは気のせいで、このニューヨークに住んでいる限りは完全な静寂など訪れようもない。開け放した窓から、生温い夜風と一緒に街の音が入ってくる。白いカーテンが風との子を孕んで大きく膨れた。
アメリカ、ニューヨーク。全てを産んだ母なる宇宙から地球を見ると、針でつついたような光が密集してその位置がよくわかる。朝から晩まで眠ることのない街。ホット・パンツはそんな街のある、マンハッタン島の北に、アパートメントの一室を借りて住んでいた。
彼女の住むこの部屋、しかし彼女一人で住むにしては些か大きすぎる。深い緑のソファも、二つの椅子と仲良く並ぶ真っ白なテーブルも、二つ揃ったマグカップも、ふかふかの枕が二つ乗ったダブルサイズのベッドも、二人暮らしの部屋のように見える。それもそのはず、この部屋には今、居るべき筈の住人が一人足りない。
ホット・パンツはテレビのリモコンをローテーブルに置いて、大きなソファに身を沈めた。それは優しく、極めて優しく彼女の体を抱きとめる。しかし、彼女はもっと違う人に抱きとめてほしいのだ。ホット・パンツは思わず漏れそうになったため息を喉の奥に引っ込めた。ため息は幸せを奪って逃げて行くと言う。憂鬱なため息は喉から瞳へ移動して、涙腺を思いっきりつねった。ぽろん、と彼女の藍色から透明な涙が一粒だけ、頬を転がり落ちる。ホット・パンツは俯いて、小さな手でソファの布を握りしめた。赤毛がふわりと揺れて、顔が影になる。そのままぼすんと横に倒れて、彼女は頭をソファにこすりつけた。すん、と鼻を鳴らして手探りでクッションを探す。ソファと同じ深緑色の、柔いクッションはホット・パンツのお気に入りだった。柔いと言っても柔らかすぎず、頭の下に敷いて枕にしても抱きかかえて抱き枕のようにしても心地よい。そんなお気に入りのクッションはしかし、なかなかホット・パンツの手に触れなかった。その代わり、求めるものよりも硬いものが手に触れる。一体なんだ、と眉をひそめてそれを手に取り目の前に持ってくると、それはソファの色よりはいくらか明るい緑の恐竜のぬいぐるみだった。瞳だけが黄色いビーズのようなもので、部屋のライトが反射して光っている。ホット・パンツはその恐竜を抱きしめた。
その恐竜のぬいぐるみは、いつかホット・パンツが同居している(今はこの部屋にいない)彼に貰ったものだった。あなたって恐竜に似てるわ、と言った彼女に、彼は翌日にこのぬいぐるみを買って帰って来た。なかなか可愛い顔をしているだろう?とにやりと笑う彼を見て、彼女は彼がそのぬいぐるみを選んでいるところを想像して声をあげて笑ってしまったものだ。あなたの方が可愛げがある、なんて口が裂けても言えなかったけれど。
でも、今思えば、そう言えばよかった。ありがとう、ともっと心から、あいを込めて。いつだって彼女は、素直に感情を伝えるのが苦手だった。
「ディエゴ」
わたしの恐竜。
ぬいぐるみに顔をうずめて小さな声で彼の名前を呼ぶと、恐竜の尻尾がぺしりとホット・パンツの足を打った。

ディエゴ。ディエゴ・ブランドー、ホット・パンツのボーイフレンド。輝く金髪と、どこか冷たい、整った顔、そこいらのモデルに負けない程の美しい体型。服に隠れる白い肢体はほどよくしなやかな筋肉がつき、すらりと伸びた長い手足はどんな動きも見る者に華やかさを感じさせる。おまけに頭脳は明晰で、なんでもハーバード大学の法科を主席で卒業したのだとか。卒業後はニューヨーク屈指の法律事務所に務め、確実な実績を積んでいる…が、今はニューヨークにはいない。アメリカじゅう、どこを探してもいない。ニューヨークから七時間の時差のある場所で、埃にまみれ、人殺しの道具を身につけている。炎天下で、いつ自分の命が終わってもおかしくない状況で、それでも彼は生きている。生きている――ホット・パンツはそう信じている。
彼女は壁にかかったカレンダーを見て下唇を噛んだ。それには何の予定も書き込まれていない代わりに、真っ黒なマッキーで6月16日の火曜日、つまり今日の日付までバツ印で消してある。あと2ヶ月。あと2ヶ月すれば、カレンダーにバツ印をつける習慣は忘れることになる。たった2ヶ月、されど2ヶ月。
ホット・パンツはもう、シャワーを浴びる気力がなくなって、電気を消して寝ることにした。明日の朝、起きたらシャワーを浴びよう。そう決めて、まだ帰ってこない彼の代わりに恐竜のぬいぐるみを抱いて眠りにつく。
ニューヨークの街に朝日が昇るまで、あと5時間半。




おねえちゃんッ、おねえちゃぁんッ!
弟が叫んでいる。
いたいッおねえちゃぁああんッッ!!!いたい゛よおッ!!!!
グリズリーの爪が彼の足を引っ掻いているのだ。
私の足も引っ掻かれている。痛い。痛い、痛い、怖い。喰われる。
おねえちゃああんッ!!
私の弟、両親の大切な子。
ああでも、私は喰われたくない。痛いのはいや、いや…怖い、喰われる、怖い、怖い。
彼を、突き放すしか。私の手で…

ホット・パンツ。

私を呼ぶ声、この声を私は知っている。
突き放したのは、弟なんかじゃなかった。
私が、わたしの手でグリズリーに、あいつに差し出したのは、輝く金髪の、




「ッは!」
飛び起きて、辺りを見回す。いつもの部屋だ。窓から差し込む、射るような朝日が眩しい。
嫌な夢を見た。ホット・パンツは頭を振って、夢の残像を頭の中から追い出そうとする。彼をこの手でグリズリーに差し出してしまうなんて、縁起でもない。この手に、はっきりと感触が残っている。暖かい背中、足を裂く鋭い痛み、押した体の柔らかさ…。
彼女は床に落ちたぬいぐるみを拾い上げて、埃を払ってソファに戻した。
ぐっしょりと汗をかいているシャツを乱暴に脱いで洗濯カゴに突っ込む。昨日の夜シャワーを浴びていないせいで気持ち悪い。ホット・パンツは服を脱ぐと、シャワーの蛇口を思いっきり捻った。冷たい水が勢いよく彼女の頭上から降り注ぐ。ばしゃばしゃと音を立てて彼女の頭を打つそれは土砂降りの雨のように容赦なく彼女をびしょ濡れにした。そのまま暫く待つと、今度は段々熱くなって、変な体勢で寝たせいで凝ってしまった筋肉をほぐした。もうもうとバスルームに湯気がこもり、まるで雲の中でシャワーを浴びているような気さえした。雲のなり損ないはホット・パンツの体を伝って排水口へ流れてゆく。ホット・パンツは全身をシャワーに打たれたまま、暫く立ち尽くしていた。

さて、シャワーを浴びてスッキリしたホット・パンツは、適当な部屋着に着替えて朝ご飯を食べ終え、今は朝の親父よろしく新聞を広げながら片手でコーヒーの入ったマグカップを持っている。壁にかけられた時計は午前6時8分を指し、日の出から30分と少しが経ったことを示していた。ちなみにこの時間、いつものホット・パンツなら仕事に向かっている。平日の今日、何故彼女がこうもゆったりと朝の時間を楽しんでいられるのかと言うと、理由は簡単、仕事が夏休みに入ったからだ。
彼女は徒歩15分程で着くハイスクールで教師をしている。元来人前で話すことが好きでもないし、どちらかと言えば苦手な部類に入るのにどうしてこの仕事に就いたのかは、ホット・パンツ自身よくわからない。けれども生徒たちとの関係は素晴らしく良好とまでは言えないがそれなりの関係を築けている筈だし、教師仲間も恵まれ、ほぼ難なく毎日生活をしている。仕事をしている間は、少なくともディエゴのことをあまり考えなくてすんだし、彼の身を案じて鬱々とすることも殆どなかった。
しかし、夏休みなのである。つまり、ホット・パンツはこれから2ヶ月半の間一人で過ごさなくてはならない。一人になると、ディエゴのことばかり考えてしまう。致命傷になるような酷い怪我をしてしまったんじゃないかとか、健康状態は確実に悪いだろうとか、どんどん悪い方に考えて、終いには、次に会うときは彼がもう息をしていなかったらどうしようとまで考える。あのエメラルドグリーンの瞳に2度と自分の姿は映らず、厚い唇から発せられる嫌味も2度と聞くことができず、大理石の彫刻のような胸は2度と上下しない。ホット・パンツだけが知っているであろう表情だって2度としないし、熱い手で彼女に触れることも2度とない。そんなことになったら、自分はどうしたらいいのだろう。きっと、息をするだけの、魂の抜けた屍になってしまう。いつかその悲しみを乗り越えられるなんて思えない。

ホット・パンツはずっと同じ場所ばかり目で追っていた新聞を畳んで、すっかり覚めてしまったコーヒーに口をつけた。いつもは砂糖を入れるのに、今日に限って入れなかったそれはひどく苦い。

ずっと家にいても寂しさや辛さは紛れないと思い、ホット・パンツは着替えて外に出ることにした。幸い人の多さは折り紙付きの街に住んでいるので、少し足を伸ばせばすぐに雑踏に紛れることができる。
彼女は早速、洗い物を済ませると、ジーパンと半袖のTシャツというラフな格好に着替えた。鏡の前に立って、苦笑する。ディエゴが見たら、何と言うだろう?――ホット・パンツ、何故いつもそんなモサい格好なんだ、これを着て行け…全く、今度買い物に行くぞ。そう言って彼は、ホット・パンツのクローゼットの中を漁って奥に仕舞い込んであった服を救助して彼女に着せる。週末には二人で連れ立って五番街やマジソン街に行くだろう。そうして彼はああでもないこうでもないと言いながら勝手に選んで、最後にいいだろう?と付け加えておきながら半ば強引に買う。ホット・パンツは困ったような顔をしながらも、二人で買い物をするのが楽しい。帰りには―――
そこまで考えて、ホット・パンツは頭を振った。寂しさを助長するするだけだ。ベッドルームに放置されたままだった携帯と財布を引っ掴んで、彼女は玄関の扉を開けた。
彼が――ディエゴがこの玄関を開け、空港に向ったのは、一年と二週間程前だ。空港まで見送りたいと言うホット・パンツに、彼は家で待っていてくれと言った。そうして彼は、荷物を抱えてこの玄関から出て行った。
彼が空港に向ったのは、戦争に行くためだった。彼は大学に行く前に、5年間軍での訓練をしている。彼の実家はお世辞にも裕福とは言えず、大学に行く費用が捻出できそうになかった。そこで彼は軍に登録し、5年間の訓練を積み、それから大学に進学した。軍に登録すると、訓練期間の生活費は勿論、その後の大学の学費も国が払ってくれる。だがその反面、国が徴収をかけた際に必ず予備兵として戦場に赴かなければならない義務が生じる。今回、アメリカは戦争に身を投ずることになり、それはつまり沢山の武器、そして兵士が必要になるということだ。元々の空海陸軍兵士は勿論のこと、戦争の期間がずるずると延びるに従って、ディエゴのような予備兵も徴収され戦地に赴くことになった。
玄関の扉が閉まって彼の姿が見えなくなったとき、彼女は、ディエゴが必ず生きてここにまた帰ってくるならばそれだけでいいと思った。他の人なんて知らない、たった一人、ディエゴさえ生きて帰ってくるならば。褒められたことではないと知りながらも、ホット・パンツはそう祈らざるをえなかった。どうしたって、彼のことが愛おしくて、失いたくなくて仕方ないのだ。そしてそれは、今だって変わることはない。
ホット・パンツはこのことを教師仲間のルーシーに話した。ルーシーはホット・パンツの勤めるハイスクールの校長の歳の離れた妻で、また彼女の良き友でもある。ルーシーには不思議な魅力があり、ホット・パンツは彼女を前にすると何でも話してしまえる。ディエゴが国に徴収をかけられ、戦地に赴かなければならなかったこと、心配で仕方が無いこと、そして、彼一人だけでも生きて助かって欲しいと願ってしまうこと。それらを全てルーシーに打ち明け、胸につかえていることを吐露した。
「いつ死ぬか分からないんだ…そうだろう?もしかしたら今、この瞬間にも敵兵に撃たれて、死にかけているかもしれない。今も、今も、と考えると夢にまで出てくるんだ。彼が死んでしまって、無表情な手紙だけがそれを伝える…私にはもう、その手紙しかない。ディエゴ、と名前を呼んで目が覚めるんだけど。でも返事をするべき奴はやっぱりいないんだ。それでまた、不安になる。だから、彼さえ生きて帰ってくればいいなんて…不謹慎なことを」
ホット・パンツの話を、ルーシーは黙って聞いていた。
「待つしか、ないなんて…聞き飽きてるかもしれないけれど」
ルーシーは慎重に言葉を選びながら、ホット・パンツを見つめた。彼女は赤毛を耳にかけて、ルーシーの言葉を待っている。自分の言葉一つで彼女がこれから一年と三ヶ月を耐えられるかどうかがかかっている気がして、ルーシーは深呼吸をした。
「でも、彼、家で待っててって言ったんでしょう?それならきっと、帰って来るわ」
帰って来るわよ、待っている人がいるんだもの。帰る場所があるんだもの、そこに帰ろうとするわよ。
「そう、だろうか…」
珍しく気弱なホット・パンツに、ルーシーは語気を強めて言った。
「そうよ!貴方が彼を信じなくて誰が信じるっていうの!結婚はしていなくても、彼と一緒に生きているんでしょ?だったら彼を信じるのよ」
「…ジャイロ・ツェペリみたいなことを言う」
「ええ、だって彼の言葉を少し借りたもの。
それにね、ホット・パンツ、不謹慎なことを祈ってしまうって言ったけれど、考えてもみて。戦地にいる兵士の家族もきっと同じように思っているわよ――勿論、全ての兵士が無事生還しますようにって祈る方もいらっしゃるでしょうけど!でも私だったらきっと、彼だけでいいから生きて帰って来て欲しいって、思っちゃうわ」
ルーシーはホット・パンツの顔を覗き込んだ。彼女の目の下にはクマができて、心なしか肌も荒れているようだ。明らかに憔悴していた。
「ねえホット・パンツ、今度ちょっと出かけましょうよ。気分転換が必要よ…」


ホット・パンツはメトロカードを買って、朝の通勤ラッシュの流れに紛れてダウンタウンのホームに向かった。学校は夏休みに入っても、世のサラリーマンはそうではない。今日も今日とて、暑そうなスーツに身を包んだ彼らはまるでパックの中でお互いの身をくっつけ合うグミのように押し合いへし合いしながらホームで電車を待っている。マンハッタン島の北に位置するこの辺りでは、朝はダウンタウン方向のホームがこれでもかというくらいに混み合う。南の方に会社がある人が多く、また北側に会社がある人も、一度南の方向に何駅か乗ってから乗り換えるからだ。
真っ暗なトンネルの向こうから唸り声をあげてやってきた電車は、もう既にかなりの数の人を乗せていた。扉が開くと同時に流れる人の移動に合わせて、ホット・パンツも移動する。周りの人の速度に合わせないと後ろの人に轢かれかねない。
人の流れはホット・パンツを車両の真ん中まで押しやった。別に何処に行くという目的があるわけでもないので、ドアの側でなくても問題はない。
プシュゥ、と止めていた息を吐き出すかのような音をたててドアが閉まった。電車は段々とスピードをあげ、流れるプラットホームはやがて真っ黒なコンクリートに飲み込まれた。ホット・パンツは四方を人に支えられて、揺れる車内でつり革に掴まらなくてもバランスをとれていた。汗や香水、整髪料の匂いが彼女の鼻をつく。まるで四面楚歌だ。
車両の外は真っ暗で、窓には明るい車内が映っていた。仏頂面の自分が、自分を見つめている。目を逸らしても、じっと。
電車には次から次へと人が乗ってきて、車両はこれ以上乗れないという限界までパンパンに人を詰め込んだ。全身が圧迫されて、身動きがとれない。だがホット・パンツがこの電車に乗って10分ほどして着いた駅で、乗客は2/3に減った。彼らは乗り換えて北へ向かうのだ。
彼らは皆、目的地がある。くすんだ金髪の彼女や栗色の髪の彼も皆、目的地に向かっている。それが例えストレスの根源であろうと。ホット・パンツは窓の自分を見た。彼女の唇が動く。
どこへいくの。


電車に揺られること40分、多くの人がこの駅で降りるため、ホット・パンツもその流れに身を任せて電車から降りた。人々は一様に改札口を目指し、カードを通してゲートを回す。階段に向かって足を忙しなく動かして、太陽の光が差し込む階段を登りきると、そこからは自由だ。突き抜けるような青空の下で、空に手を伸ばすように高く聳えるビルに囲まれて自由になる。
階段を上がりきった途端に吹き付けるビル風にホット・パンツは顔をしかめた。肌を撫ぜる風は生暖かい。しかしそんな事を気にする暇もない人々は、立ち止まらずに急ぎ足でホット・パンツを追い抜いていく。ゆったりと歩く彼女はなるべく端を歩き、辺りを見回した。ここいらには何があったっけ…?
歩いているうちに段々と周りの景色が変化してくる。冷たい、背の高い四角いビルの列から、美しい女性モデルと共に飲料のコマーシャルを流す電光掲示板や極彩色の点滅する看板の掲げられた、観光客を多く呼び込む通りへ。まだ一日は始まって間もないというのに、歩道は人で溢れかえっている。車道ではタクシーがクラクションを鳴らし合いカーレースを繰り広げ、それに負けじと人は大声で喋っている。
「…あ」
ホット・パンツは小さく声をあげた。視線の先には映画館の看板がある。壁際に寄って誰かを待つ人達に紛れて、彼女は道路を挟んで向こうの映画を見上げた。電光掲示板には今日の上映予定が書かれている。朝から映画を見ようという人は少なく、出入りする人の姿はまばらだ。
去年の5月の終わり、ホット・パンツは翌々日に出発を控えたディエゴとデートをして、その時にこの映画館にも来ている。お互い特に何か見たいものがあった訳でもなく、たまたま通りかかって映画でも見ようかという話になったのだ。
何を見たかなんて覚えていない。アクション映画だったかもしれないし、コメディ映画だったかも。売店でチケットを購入して、隣同士の席に座り、二人はずっと手を重ねていた。彼女は指定のシートに座っている間、まるでティーンの女の子みたいに、心臓が五月蝿く暴れまわって、涙腺がぐちゃぐちゃに引っ掻き回されていた。泣くようなシーンでもないのに突如ぼろぼろ涙を零し始めたホット・パンツをディエゴは優しくあやして、上映されている映画の光に反射する涙を拭った。優しくされるとそれだけ、本当は彼の方が心配で不安で仕方ないだろうに、バカみたいだとまた涙が溢れてくる。でもディエゴは小さく笑って、お前もこうやって泣くことがあるんだなと囁いただけだった。

それから、それからどうしたんだっけ。
ホット・パンツは歩き出す。1ブロック、2ブロック歩いて3ブロックめを左に曲がる。人混みの間を縫うように歩いて歩いて、とあるコーヒーショップの前に辿り着いた。この辺りは今まで歩いてきた通りに比べれば幾らか静かで、人の流れも穏やかだ。彼女は僅かに軋むドアを開けて店内に入る。ドアを開けた途端に香る、コーヒー豆の煎った匂い。大きく一呼吸、香りを吸い込んで、店内を見回した。空調の効いた涼しい店内には2、3組のカップルと老夫婦が一組、それからホット・パンツのような休日の暇を持て余した人が何人か居る。新しく入ってきたホット・パンツのことを気に留める人は誰一人としていない。
ホット・パンツはエスプレッソを一つ注文し、カウンター席に座った。腕をつけたテーブルがクーラーで冷たくなっていて、歩いてきた彼女にはひどく心地よく感じられた。
なんの目的もなくふらふらと歩いていただけのはずなのに、またもディエゴのことを思い出すような店に行き着いてしまうとは、と彼女は一人苦笑する。この店はあの日のデートで立ち寄った店であり、 ホット・パンツがディエゴと出会った店でもある。
寒い寒い冬の日、店内は今よりももっとずっと多くの人で賑わっていた。話し声が絶えず、彼方此方から笑い声が上がっていた。そんな店内でホット・パンツはこの日、同僚であるジャイロ・ツェペリとジョニィ・ジョースターと待ち合わせており、少し早く着いてしまった彼女はカプチーノを片手にドアの方を気にしながら二人を待っていた。
ディエゴが店に入って来たのはホット・パンツが席に着いたすぐ後だった。彼はコーヒーを購入し混み合った店内をざっと見回すと、一つだけ空いた席――ホット・パンツの隣にまっすぐ歩いてきた。
「ここ、座っても?」
この時ディエゴは24歳の大学二回生、ホット・パンツはハイスクールでの勤務も5年目に突入した27歳の教師だった。
「ええ」
「どうも」
数分した後、やってきたジャイロとジョニィが実はディエゴの知り合いであり、ジョニィとディエゴは犬猿の仲ということが発覚、さらにその後ディエゴは二人を通じてホット・パンツと連絡をとり、紆余曲折を経て二人は恋人同士となる。このことになるとジャイロは、二人の関係を仲介したのは自分達だし、あの日にこのコーヒーショップを待ち合わせ場所に指定したのも自分だから、二人の恋のキューピッドは自分達だと主張する(逆にジョニィは嫌な顔をするけれど)。ホット・パンツからしてみれば確かにその通りだと思うのだが、ディエゴは二人に"借り"をつくったと感じているらしく、どうしてもキューピッドはこのコーヒーショップだと反論する…。
しかしどちらにせよ二人が初めて出会ったのはこの店である。5月の終わりにこの店に来た時にその話をしたら、彼は「あの時は俺が先にお前を見つけたんだぜ」と言った。

最後の一口を喉に流し込んだ。苦くて真っ黒な液体は食道を通って、胃に辿り着く前に心臓に寄り道をしてちょっかいを出した。下唇を噛む。
ディエゴ。私のたった一人の、愛しいひと。
思えば、彼に「愛してる」だなんて言ったことがあったろうか?一度だって、自分の彼に対する愛情を、ドロドロと渦巻く劣情を、素直に曝け出したことがあったろうか。
ホット・パンツは後悔している。人は失って初めて、そのひとの、ものの真価に気づかされると言うが、正にそうだった。まだこの手のひらから零れ落ちてはいない、けれどもいつ零れ落ちても仕方のない状況。祖母の家に遊びに行った時、山で偶然グリズリーに出会い弟を自分の手で 差し出してしまった時も、罪悪感と一緒になってその感情は襲ってきた。どれだけ彼を愛していたのか、はっきりと理解したのだ。幸いにも弟は一命を取り留め、またあの時姉が自分を押したことも覚えていなかったが、ホット・パンツの心にはくっきりと罪悪感が色濃く残った。彼女はこの罪悪感を一生忘れることはしないし、また、失ってから気付くよりも失う前にそのひとを大切だと気づくと、弟を助けてくれた神様に誓った。確かに誓ったはずなのに、またも自分は失いかけて初めて、自分の本当の気持ちに向き合っている。
彼が行ってしまう前にもっと素直になればよかった。彼に向ける感情を全てぶちまけてしまえばよかった。
彼はいつだってホット・パンツにあいを示してくれた。戦地に出発する前にデートに誘ったのも彼だ。
デートの日の帰り道、ディエゴはアパートメントの最寄り駅の、一駅手前で降りた。ホット・パンツの手を掴んで、二人で歩きたいから、なんて言って。
「恥ずかしい奴だな」
夕陽に照らされた道で二人、手を繋いで歩きながら彼女は言った。
「お前はほんとうに、バカだ」
繋いだ手に力を込めて、そう言った。きっと、ディエゴにはそれだけで伝わった。彼も耳を赤くしてそっぽを向きながら笑っていたから。でも、彼が本当に欲しかった言葉ではなかったかもしれない。もっと素直な、「私もよ」とか「嬉しいわ」とか、そういう言葉が欲しかったのかもしれない。


カウンター席からは窓の外がよく見える。行き交う人の数はまたも多くなってきていて、空高くにある太陽が彼らを照らしていた。
一日は長い。日が沈むまであと12時間近くある。
一週間はもっと長い。
一ヶ月はもっともっと長い。
二ヶ月なんて、気が遠くなる。
ホット・パンツは濡れたまつ毛を震わせて、息を詰めた。

憂鬱な夏休みが始まる。








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