地下は冷たく冷えきっていた。
ヨーコ達以外に息をしている者は居ない。
歩く度に、靴音が静まりかえった空間に響いていく。
西側通路には、何も………ゾンビすらいない。
先程ここを訪れた時には煩いと感じる程聴こえていた、犬達の吠え声はもう聴こえない。
不気味な程の、静寂だけがそこにあった。
犬舎に入ると、噎せ返る様な血の臭いがヨーコの鼻を襲う。
犬舎の奥に、誰かが…倒れていた。
「トニーっ!!」
ケビンは、その倒れている男性の名を叫びながら駆け寄る。
「よ……ぉ…………ケビ……ン」
ケビンが彼の肩を軽く揺すると、彼は薄く目を開けてケビンを見上げた。
まだ、生きている。
だが、酷い傷だ。
喉元を何かに深く噛み裂かれている。
血が首から溢れだして床に血溜まりを作っていた。
彼の傍には、頭を破壊された犬が転がっている。
この犬にやられたのに違いない。
「トニー……!必ず助けてやるからな………!」
ケビンはそう言って、肩を貸して立ち上がろうとした。
だが、もうトニーは手助けがあっても立ち上がる事さえ出来ない。
「ケビ………もう………い………おれ……は……むり……だ……。
おいて………いけ……。」
「バカ野郎!!置いていける筈なんてないだろっ!?
諦めんなっ!」
トニーは、目を閉じて浅く息を吐いた。
「すま……ん……。」
そして、その胸は二度と動かなくなった。
「トニー……?トニーっ!!」
どれ程ケビンが名前を呼んでも、肩を揺すっても、トニーが再び目を開ける事は無い。
犬舎に重苦しい沈黙が降りた。
トニーは死んだ。
それはヨーコの目にも明らかだった。
死んだ者は生き返らない。
それは、絶対に変わらない残酷な真実だ。
もし、彼が再び動いたとしても……それは既に彼では無い。
「畜生!何でだ!!どうして……!!」
仲間の命が消え去った瞬間を目の当たりにしてしまったケビンは、握り締めた拳を壁に叩き付けた。
ケビンの手についていたトニーの血が、壁にまるでペンキの様に跡を残す。
「ケビ……、……?」
悔恨の言葉を漏らしながら、自身を傷付けるかの様に壁に拳を叩き付け続けるケビンを止めようと、ヨーコが名前を呼ぼうとした時だった。
血溜まりに落ちたトニーの指先が微かに動いた。
ヨーコが見間違えたのでは無い。
まさかそんな、とヨーコは自分の予感を否定するが、現実は何処までも残酷だった。
ヨーコが見ている前で、トニーはユラリと立ち上がる。
「………トニー………?」
彼の名を呟くケビンの声は、震えていた。
無理も無い。
彼の………いや、ソレの見開かれた目は白く濁り、口の端からは唾液が流れ落ちていく。
そこにあったのはまさしく、………今まで散々戦ってきたゾンビであった。。
トニーのゾンビは、ユラユラとケビンに近寄る。
「止めろっ!……止まってくれ、トニー!」
ケビンはそう叫びながら、後退る。
右手は腰に吊るした45オートに伸びているが、その手は動揺に震えていた。
何とか45オートを抜いて構えようとするが、照準をトニーに合わせられない。
そうこうする内に、ケビンは壁際に追い込まれた。
「ケビン…!ソレはもう…トニーさんじゃ無いわっ!」
ケビンが撃てない理由は分かる。
だが、撃たなくては、ケビンが殺されてしまう。
だが、ケビンは絞り出す様に「駄目だ……。……俺には出来ねぇ……!」と悲痛な声で言った。
ケビンが撃てないならば、どうすれば……!
この時漸くヨーコは、自分がバーストハンドガンを所持している事に思い至った。
(ケビンが撃てないなら、私が撃つしか無い……!)
ヨーコはバーストハンドガンを引き抜いて、トニーに照準を合わせた。
だが。
(駄目だわ……、撃てないっ!)
この位置では、この距離では、……ヨーコの腕ではトニーだけで無くケビンにもあたってしまうかもしれない。
万が一ケビンも撃ち抜いてしまったら、と思うと、引き金を引くことが出来ない。
(どうしよう、どうすれば、………。)
思考がグルグルと同じ所を廻り、ヨーコの呼吸が自然と速くなる。
引き金にかけた指が、バーストハンドガンを持つ手が、カタカタと震えて照準がズレてしまう。
どうすれば良いのか分からなくなって、ヨーコは動けなくなった。
トニーの腕がケビンに伸ばされ、その指先がケビンに触れる。
ヨーコも、ケビンも、動く事も目を逸らす事さえ出来ずにその瞬間が訪れるのを待つしか無かった。
動く事が出来たのは、この場にいたもう一人だけだった。
「ケビンっ!」
マークがその逞しい体格で繰り出した全力のタックルが、トニーの身体を吹き飛ばす。
トニーは壁に叩き付けられ、床に跳ね、骨が折れたりや関節が壊れる様な、耳を塞ぎたくなる音が響いた。
しかし痛みを感じないトニーは、滅茶苦茶な方向に曲がった手足で再び立ち上がる。
トニーの狙いは、ケビンからマークへと移った。
ユラリユラリと、トニーはマークに近寄る。
ヨーコはマークを守ろうと、トニーに向けて発砲するが、弾は四肢と胴体を撃ち抜いただけだった。
その程度では、ゾンビと化したトニーは止められ無い。
トニーは背後にいるヨーコには目もくれず、マークに近寄っていく。
止めないといけない!
その一心で、ヨーコは引き金を引き続けるが。
カチンッ。
バーストハンドガンが、全弾撃ち尽くされて弾切れになった。
「そんなっ!!」
こんな状況では、悠長にリロードする余裕もナップザックに入れた他の武器に持ち換える時間も無い。
ヨーコが見ている目の前でマークはトニーに組み付かれ、負傷していた右肩に噛み付かれた。
マークが痛みに絶叫し、飛び散った鮮血が壁や床を汚す。
(このままじゃマークが……!私が、何とかしないと…っ!!)
「マークっ!早く、逃げてっ!!」
武器を手にしていないヨーコに出来たのは、トニーを突き飛ばして僅かな時間を稼ぐ事だけだった。
身体が軽く力も弱いヨーコでは、トニーをよろめかせるので精一杯だ。
それでも、十分な時間を稼げた筈だった。
マークが走る事が出来るのならば。
だが噛み付かれた右肩の傷は元から負傷していた事も相まって、酷く深いモノになっていた。
右肩に巻かれていた包帯は血で真っ赤に染まり、そこから血が滴っている。傷口を噛み付かれた激痛に歯を食いしばって耐えているマークの額から汗が滝の様に流れ落ちていた。
マークの傷では走る事など、不可能だ。
(どうしよう、どうすれば…!マークが、このままじゃマークが……!!)
「ヨーコ……!」
不意にマークに名を呼ばれた。
「早くっ……、ケビンを連れてっ、ここから、逃げろっ!!」
「マー…」
「いいからっ、早くするんだっ!!」
マークの目に浮かんでいた強い意志に背を押された様に、ヨーコは壁際で茫然としていたケビンの腕を掴んで犬舎の出口へと走った。
「待ってくれ、ヨーコっ!まだマークが……!!」
廊下に飛び出した瞬間、ケビンはやっと茫然自失の状態から回復して、ヨーコの手を振り払って再び犬舎に戻ろうとする。
だがそんなケビンの目の前で、扉は閉ざされ、カギを内側から掛ける音が響いた。
「マークっ!?何をしてるっ!
バカな事をするんじゃねぇっ!!早くここを開けろっ!!」
ガンガンとケビンは扉を叩くが、扉が開く気配は無い。
「マークっ!!!っ待ってろ、今助けに行ってやるっ!」
ケビンは扉ごとカギを壊そうと、扉に体当たりを始めた。
「ケビン……。もう、いい。……もう、俺には構うな。」
扉越しに、マークは苦し気に答えた。
「何をバカな事を言ってやがるっ!!
生きてんのに、勝手に諦めんなっ!!」
「ケビン……、すまないな……。
だが、……俺はもう助からん。
かなり傷が深くてな………血が止まらんのだ。
ここを出れたとしても、俺は手遅れだ。」
「本当にそうかなんて、分かんねぇだろっ!!
諦めたら終わりじゃねぇかっ!!」
ふと、ヨーコにはマークが扉の向こうで微笑んでいる気がした。
「…………最初は、チャラチャラして不真面目なお前の事が気に食わなかった。
だが、……共に行動している内に……俺のお前に対する考えは、変わった。」
扉の向こうで何かが何かに噛み付いた音がし、扉越しにマークが苦痛に耐える音が聞こえた。
「止めろっ、マークっ!あんたの遺言染みた言葉なんて、聴きたくも無いっ!!」
「………すまんな、ケビン。
俺は、ゾンビになってお前達を襲うのだけは、嫌なんだ。
赦せとは、言わない。」
カチッ、とハンドガンを手にした音がした。
「………ヨーコ……、君には……必ず出来る事がある。
それを、忘れないでくれ。」
マークの優しい言葉に涙が溢れて、視界が滲む。
それでも嗚咽は漏らすまいと、口を引き結んでヨーコは頷く。
マークには見えていない筈だし、ヨーコからも見えないが、マークが微笑んで頷いてくれた気がした。
「止めろっ!止めてくれっ!!
マーク……っ!あんたには、大事な家族が居るんだろっ!?
こんな所でくたばっちゃ駄目なんだろっ!?
だから…………っ!!」
「………アイツらには……、俺の家族には、………『すまない』と伝えておいてくれ。」
「マークっ!!!止めろっ!!!」
ケビンが叫び、扉を叩く。
だが、その行動を嘲笑うかの様に、くぐもった発砲音と何か重たい物が倒れた音がした。
「……マーク………?」
後に残されたのは、この世の全てが終わってしまったかの様に脱け殻と化したケビンと、ヨーコだけだった。