降谷暁


 雪だと思ったそれは、桜の花びらだった。淡くてふうわりとした様は驚くほど僕に優しく振り落ちてくる。ゆるやかに落ちてくる花びらに、そのまま意識をゆっくりともっていかれてしまう。

 眠い。

 このまま心地よい暖かさに身を任せてしまいたい。ゆるゆると意識が落ちていく。もう、いい。このまま身を任せてしまおう。

 そう思った時、パンっと背中をはたかれて、我にかえった。僕が振り向くよりも早く、僕の背中をはたいたその人は目の前に躍るように出てきた。その動きに桜の花びらが寄り添うように舞う。

 女の子…。

 目の前には青道の制服を着た女の子が立っている。

 花びら一枚一枚がまるで意思をもっているかのように、彼女の周りを彩っている。桜の妖精みたいだ、なんて思う。

 そんな彼女は愛嬌のある目で僕を見た。

「何してるの? 新入生だよね、迷子?」

 淀みのない口調と、しっかりした物腰。意思がはっきりと出たまなざしは妖精という空想とは程遠いほど現実感があった。つられるように僕の意識も現実に戻される。

「迷子じゃ…ないです。体育館に行く途中で…」

 そう、入学式が行われる体育館へ行く途中だった。辺りを見渡せばひと気はなく、並んでいる桜の木から花びらが舞っているだけだった。体育館らしき建物は見当たらない。

「…ここどこですか」
「それを迷子っていうの」

 彼女は笑う。その笑顔はずっと見ていたい暖かさに満ちている。

「私も体育館に行く途中なんだけど、迷っちゃったんだよね〜、困っちゃった」

 一緒だねと朗らかに、とても困っているようには見えない笑顔を僕に向ける。

 迷子の彼女と迷子の僕が、迷うことなく出会えた春の日。入学式が始まるほんの少し前のこと。



*****



 気づけば苗字さんはクラスの委員長になりそうだった。入学式の日に迷っていた僕をちゃんと連れてきたっていうことが、大きな理由らしい。どうやらしっかり者のイメージを先生にもクラスのみんなにも植えつけたみたいだ。

 でも、苗字さんも迷ってたけど。

 あの日、迷子の苗字さんは迷子の僕をみつけてくれた。二人になってすぐに先生をみつけることができた。先生に体育館の場所を教えてもらって、遅刻は免れたのだった。

 苗字さんは困ったように僕を見た。たぶん、僕と一緒に迷っていたと言って欲しそうだった。確かに一緒に迷子だったけれど、僕一人では体育館の場所を聞いただけではたどり着けなかった気もする。

 言おうかな。言わないと苗字さんは困るんだよね。

 言おうかどうしようか逡巡していると、どこからか降谷くんの面倒は苗字さんが見ればいいと思いまーすなんて軽口があがった。その軽口は、まだ打ち解けきっていない教室の空気を瞬く間に柔らかくした。教室中の意識が一つになって僕に注がれる。

 苗字さんが僕の面倒を見てくれる。それはすごくいいことのように思えて、僕も頷いた。

「降谷くんひどい」

 僕が頷いて、満場一致で苗字さんが委員に決まった後、苗字さんは僕の席までやってきて、恨めしそうに唇を尖らせた。ひどい、と言われたことよりも、初めて見るそんな表情が訳もなく嬉しくて、心の中にあたたかなものが灯る。

 ほら、間違ってない。彼女といれば僕はきっと、いつだってやわらかな世界にいれる。

 そうして、僕は新しく始まった生活にマウンド以外にも自分の居場所をみつけることができた。そしてそれは当たり前のようにいつもやわらかであたたかくて居心地の良いい僕の場所になるんだろうと信じて疑わなかった。



*****



 体育でグラウンドへと向かう。更衣室からグラウンドまで中庭を通っていく。まだクラスの中でグループは固まりきれてなくて、なんとなくクラス全員が、ひとかたまりのような、それでいて、ばらばらのような微妙な感じで進んでいく。誰もが校内にあまり慣れていないから、みんなと一緒じゃないと不安っていうのもあるのかもしれない。

 そんな中、私はハラハラとしながら、すぐ前を行く降谷くんの背中を見ていた。いくら委員長だからといって、降谷くんの面倒を見ればいいと言われたとはいえ、グラウンドまで並んで一緒に行く事は、やはり少し憚られた。けれど放っておくには降谷くんはやっぱり少し頼りなくて、その背中が違うところへと向かわないように注意を払っていたのだ。

 降谷くんの隣には同じ野球部だという小湊くんが一緒にいる。彼が一緒なら大丈夫かなと思うけれど、それでもつい目が降谷くんを追ってしまう。

「気になる?」

 小湊くんは振り返ると首をかしげた。

「え、あ、うん。迷子にならないかな〜なんて。でもこれだけ皆でいたら大丈夫だよね」
「僕も見てるから、安心していいよ」
「うん、ありがとう」

 私と小湊くんのやりとりを降谷くんは口をはさむこともなく眺めている。視線を降谷くんに向けると、自分を心配してくれているという事実に少し嬉しそうにしている降谷くんに私も笑顔になる。

 その時。強い風が吹いた。学校の中庭は建物との構造上に理由があるのか、巻き上がるように風が吹く。その風が思いのほか強くて、砂埃が舞う。

 目を開けていられないほどの砂埃に思わず顔を下に伏せる。

 大丈夫?

 風が吹き上げる砂埃と周囲の悲鳴の中、微かに降谷くんの声が聞こえた。私の方に一歩足を出した降谷くんの肩が私の顔をかばってくれた。砂埃が顔に当たらなくなったのに気付いて顔をあげると、降谷くんは自分の手で顔をかばうようにしている。

 降谷くんの表情は見えない。でも降谷くんの体操服からわずかに洗剤の匂いと今まで知らなかった匂いが混じって、私の鼻孔をくすぐった。急に息の仕方がわからなくなった。息をすれば、今まで知らなかった降谷くんの匂いを感じてしまって、心の中にまで降谷くんが入り込んできてしまう。

 鼓動が早くなったのがわかった。それを降谷くんに気づかれるのが怖くて、早く風がやめばいいのにと思った。

 今、なのか。それとも目が離せなかった時点でそうだったのか。それはもうどちらかなんてわからない。けれど好きだということを、今、降谷くんのやさしさの中で自覚した。



*****



 かっこいい。

 その横顔を見て、そう思う。けれど降谷くんはクラスでは残念なイケメンに部類されてしまった。口数が少なくて、とにかくぼんやりとしていることが多いからだ。そのおかげで私が降谷くんの側にいることに対して嫉妬の目は向けられない。元々私を委員長にする理由に降谷くんの面倒を見るというクラスの総意があったのだから、当然といえば当然だけど。

 降谷くんはあまり周囲に注意を向けないのか、自分のことにも頓着しない性質なのか、少し反応がずれているところが多くて、目が離せない。私は少し頼りなげにも見える穏やかでマイペースなところはかわいいと思うし、意外にもわかりやすく感情を出すのでとっつきにくいとは思わない。

 今日だって、まだ5月だっていうのに日差しが強くて教室の中は暑くてしかたないのに、ブレザーを着たまま暑さにまいっているように見えた。

 わかりやすく本当に暑くて仕方ないって全身で物語っている。それなのにブレザーを脱ぐということは頭にないみたいで、そんなところがかわいいと思う。

「降谷くん、ブレザー脱いだら?」

 見かねて声をかける。すると降谷くんは、初めて気づいたような顔をして、ブレザーを脱ぐ。でもその動きはとても気怠く見えて、大丈夫なのかと心配になる。

 ちょうど小湊くんも見かねたのかやってきて、降谷くんに声をかけた。

「降谷くん、大丈夫?」

 降谷くんはとろんとした目を小湊くんにむける。椅子にかけていたブレザーがおざなりな降谷くんの動きで下に半分落ちてしまった。

「汚れちゃうよー」

 私と一緒にいた友達が朗らかに笑いながら、それを拾うと自分の腕の中でパンパンと汚れをはらって、かけ直した。それだけのことなのに、ちくりと胸が痛む。友達が好きなのは小湊くんのくせに。

 やだ。何考えてんだろ、私。

 友達に嫉妬するなんて。

 ふと視線を感じて顔を向けると降谷くんと目があった。さっきまでのとろんとした生気のない目ではなくて、しっかりと私を取らえている。その目に私の嫌な気持ちを見透かされそうで、苦しくなる。それを隠すように無理に笑ってみせた。そんな私の様子に降谷くんは不思議そうに少しだけ首をかしげた。

 そして夏の大会が始まって、降谷くんが活躍するほど、人気が出るほど、私は降谷くんに向けられる羨望や好意の視線に胸が痛くなって、嫉妬を隠した無理な笑顔しか向けられなくなっていく。

 ねぇ、見た?
 降谷くんすごかったね。
 かっこよかったね!

 試合の翌日はそんな女の子たちの話があちこちで聞こえてくる。その度にきゅっと胸が痛くなる。誰が見たって降谷くんはかっこいい。試合で活躍すればするほどに、当然ながら女子の間で人気が出てきた。今まで人気がなかったのがおかしいくらいだったのだ。

「昨日、来てくれた?」

 周囲から聞こえてくる降谷くんの話題に気を取られていて、急に後ろからその本人に話しかけられて驚いた。

「…」

 一瞬驚いた私に降谷くんは少し眉をひそめた。そんな顔をされたことにまた胸が痛む。その痛みを隠すために私は笑顔を作る。

「あ、うん。クラスのみんなで行ったよ」
「そう」
「うん、すごかったね。降谷くんかっこよかったって、みんな言ってるよ〜」
「…うん」
「あ、小湊くんもすごいよね! あと、御幸先輩ってかっこいいよね」
「…」

 周囲の目が降谷くんに注がれている。いたたまれなくて当たり障りのないことしか言えない。そんな私の様子に降谷くんも気まずそうにする。

 大会が始まってからあまり降谷くんの側には行かないようにしていた。降谷くんは日に日に人気も出てきていつまでも私が側で世話を焼くことを良く思わない子も増えてきていたからだった。

 それなのに。

 私が側に行かなくなった分、降谷くんがたまにこうして私のところへやってくることが増えた。いつも自分の席でぼんやりしているか寝ているかくらいの降谷くんが、わざわざ私のところにくることは、意外に目立つから困る。

 どうしてくるんだろう。

 降谷くんがわざわざ私に話しかけてくる理由もわからないし、会話も続かなくなって、早くチャイムが鳴ればいいのにと思いながらただ下を向いていた。

「苗字さん、最近笑わないね」

 ぽつりと呟いた。降谷くんのその言葉は私の胸にはっととするほど強く刺さった。



*****



 夏が終わった。ふと空を見上げれば、くっきりと濃かった青空もうっすらと秋の空に変わりだしている。すでに夏の終わりから始まっている秋大も本戦に入る。夏よりももっと試合に出たい、活躍したい、エースでいたい。野球に対する欲が湧いてくる。その欲に隠れそうで隠れない、ささやかなもう1つ欲が顔を出す。

 足りないな。

 夏の予選の間も、敗退後も余裕がなくて何が足りないのか気づかなかったけれど、学校が始まってわかった。苗字さんが足りない。あのやわらかな心地の良い空気が足りない。

 教室にいればいつだってあったはずの、居場所がない。

 夏休み明けてすぐの時は夏の予選を見たクラスメイトたちがたくさんよってきてたから、苗字さんはあまりよって来なかった。それが落ち着いた今も苗字さんは僕の側にあまり来ない。

 どうしたんだろう。

「降谷くん、数学の夏休みの宿題出さないと」

 はるっちが自分のノートを掲げながら声をかけてくれた。鞄の中からノートを取り出して、はたと気づく。

 こういうの今までなら苗字さんがしてくれていたのに。

「どうかした?」

 僕の動きが止まったのを見て、はるっちが首をかしげる。それに、ううんと首をふってノートを取り出すと、はるっちは僕の手からノートを受け取ると苗字さんに渡しに行った。

 それを見て目が覚めるように気が付いた。自分で持っていけば良かったことに。

 そう、苗字さんが来ないなら、自分から動けばいいんだ。

 気づいてしまえば簡単なことだった。どうして今までしなかったのか。今まで当たり前のように苗字さんが来てくれていたからだ。苗字さんが来なくなるなら僕が行けばいい。だって、僕には苗字さんが必要だから。

 それから、僕は苗字さんの側に行きたいと思った時はまっすぐ苗字さんを目指した。気づけば寄って行ってたこともある。あの苗字さんがまとう、やわらかであたたかい居場所にただ惹かれていたから。

 それなのに、僕がそばに行くと苗字さんは困ったような顔をすることが増えた。どうしてなのか理由はわからない。ただはるっちが一度だけこう言った。

 −周りの目が気になるんじゃないかな−

 周りがとんな目をしているのか僕にはわからなかった。ただ夏大以降少し騒がしくなったとは思っていたけれど。じゃあ、周りに人がいなければいいのんじゃないかなと思いついた。

「苗字さん」

 苗字さんが一人でいる時を狙って声をかける。苗字さんは、なぁにと首をかしげて僕を見た。その様子にふわっと心が浮き立つのがわかった。

「ちょっと、きて」

 手招きして先を歩く。確かめてはいないけれど、後ろからついてきてくれているのがわかった。ベランダに出て、隣の教室との境目の柱の間で止まった。はるっちに人目のないところを聞いたら教えてくれたところだ。確かに柱の間は死角になっている。

 よくこんなところ知ってるなぁ。ちょっと感心してしまう。

「降谷くん?」

 はるっちのことに感心してた僕を苗字さんは不思議そうに見た。

「どうしたの」

 と、笑う顔は僕が欲しかった笑顔だった。久しぶりに面と向かって見れた笑顔が嬉しくて、無意識に指先が苗字さんの頬に触れた。いつも握っているボールとは全然違う。やわらかいなと思うと同時にその頬は赤く染まっていて、それに気づいて初めて触れていることに自分で気づいた。

 苗字さんは目をまんまるにして僕を見ている。顔は赤くなっていて、その表情は僕を足元から浮き立たせた。もう秋なのに桜が、あの日初めて苗字さんを見たときのように僕に降り注いでやわらかく僕たちを包み込んでくれているように感じた。

「好きだから」

 そう言ってしまうことが一番早いのだと気がついて、言おうと思った時にはもう口にしていた。

 苗字さんは顔を赤くしたまま僕を見ている。それから笑ってくれると思っていたのに。実際はすぐに目を伏せてしまった。どうして。苗字さんは何かを閉ざしたように僕を拒絶してしまった。

「ご、ごめんなさい」

 震える声は理解できなかった。



****



 降谷くんの突然の告白は私の思考回路を完全に止めた。

 どうして。という言葉以外何も浮かばない。

 ただ出てくるのは「ごめんなさい」という言葉だけで、何も思いつかないことに対してなのか降谷くんの告白に対してなのかも自分ですらわからない。

「どうして?」

 私ではなく降谷くんが、どうして、と口にした。どうしてと言いたいのは私の方なのに。必死に答えを探す。自分の顔に手をあてると、さっきの降谷くんの指を思い出してしまう。長くて細いきれいな指はとてもあの剛速球を投げている手には思えなかった。思い出すとまた顔が赤くなって鼓動が早くなる。

 私が答えるよりも先に降谷くんが口を開いた。

「根拠はないけど」

 降谷くんはいつものように無表情なのに、わかりやすく感情を出して言った。私の態度に対して少し苛立ちを感じているのがわかった。

「苗字さんが入学式の時に僕をみつけたから」

 さも当然と、妙に誇らしげなのはなぜなのか。

「みつけたわけじゃなくて、私も迷子だったからで」
「でも、連れて行ってくれた」
「先生がみつけてくれたからじゃない!」
「でも、苗字さんがいてくれた」

 降谷くんはガンとして譲らない。降谷くんにとってはもう揺るがない事実になっているのだ。

「だから、おかしいってば!」
「何が」
「何がって、降谷くんが私をっていうところから!」
「それは苗字さんが決めることじゃない」

 私の反論を珍しく言葉で封じた。確かにそうだ。降谷くんの気持ちは降谷くんが決めることだけど。

 でも。降谷くんは野球部のエースだ。クラスでいくらぼんやりしていようと、一年で夏の予選から怪物と言われるほどのすごい選手だ。多少勉強ができなくても、エースだ。鼻提灯で居眠りしてても、春休みには甲子園に出るほどの選手だ。

 そんな子に私が釣り合うわけがない。だから、どうして。

「降谷くんにはもっと、似合う子がいるよ」

 そう、結局はそこに行きつく。そしてそれは私の胸をただ痛めつけるだけの事実だ。

「それも、僕が決める」

 普段ぼんやりしているくせに、こんなところで強い意志をみせつける。まるでマウンドにいる時みたいな強い眼差しで私の心を射抜く。

「苗字さんは、僕のこと好きだよ」
「そんなこと…! 言われなくてもわかってる!」

 そうだよ、私は降谷くんが好きだ。そんなこと誰より私がわかってる。でもだから。私なんかが降谷くんの隣にいちゃいけないことを誰よりもわかっている。

 わかっているのに…。好きだという気持ちを素直に出せたらこんなに苦しい思いをしなくてもすむのに。

「苗字さんの気持ちも苗字さんのものだよ」

 私の背に降谷くんの腕が回される。視界が暗くなって、目の前にはシャツだ。温かく包み込むように優しく抱きしめられた。

 降谷くんの体温を直に感じて、その優しさに泣きそうになる。

「泣いてるの?」

 不思議そうな降谷くんの声音に首を振る。まだ泣いていない。でもいつか泣く日がきっとくる。いつかきっと、降谷くんから離れなくてはいけない日がくる。この温かさはそんな悲しい予感を私に与えた。

 それでも今、好きだという気持ちに素直になる勇気も同時に私に与えてくれた。
 


*****




 苗字さんを抱きしめて、腕の中の温もりに愛おしさを感じた。苗字さんが何に不安を覚えて、僕を拒絶していたのかわからないまま。けれどその不安は僕が、僕だけが与えて消せるのだと、それが僕の特権なんだということだけはわかったから。それでいい。

 あの日、迷子の僕たちはちゃんと出会えたから。きっと大丈夫。これから先、何度心が迷子になっても僕たちはきっと出会える。毎年咲く桜と同じように。そう伝えるように苗字さんの背中に回した腕に少しだけ力をこめた。



*****




はらっぱ



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