小湊春市


 入学して2週間。五月晴れの今日、私は明日の日直でついてない。

 明日の体育は体力測定で、そのための準備を今日の放課後しますって、体育委員がまだ決まってないので明日の日直よろしくって、先生は軽く言い切った。今日準備するなら今日の日直がすればいいのにー。運悪く、明日の私。おまけに男子の日直は放課後になった途端に教室からいなくなってしまって、私は一人で埃っぽい中、必要な備品を探していた。

 体育の備品倉庫は狭くて暗くて埃っぽくて、石灰の粉っぽさが、まだ新しい制服が無駄に汚れるてしまうことに少しばかり気が滅入る。

 だいたいなんだ、あの男子!えーと、こみなみだったかこみなとだったか!サボるなんて絶対許さないんだから。まるで女の子みたいな風貌で、かわいいっなんて最初は思っていたけれど、なかなかいい根性してるじゃない。

「もう!」

 苛立ちが押えられなくて、つい近くの棚に勢いよくもたれかかった。するとその衝撃で上の物がぐらりと傾く。あわてて棚から背中を離したけれど、時すでに遅し。

「わっ、わわっ」

 こんなところで一人で下敷きになるなんて冗談じゃない。

 反射的にくるりと体をひねって、何とか上から落ちてきそうな箱をギリギリのところで下から支えたけれど、これがどうして、やたらと重い。支えたものの、上に上げるに上げられず、下に降ろすこともできない。身動きできない状態におちいってしまった。

 最悪。

 何度か上げてみようと背伸びして力を上に入れたけれど、びくともしない。そうこうしているうちに腕はしびれて、上げた肩は限界にきている。こうなったら、わざと落とすしかないかと覚悟を決めた。箱の中は何かわからないけれど、重たいものであることは間違いなくて、落とすときに下手に避け損なったら怪我もしかねない。もちろん、中の物が壊してしまう可能性もある。とはいえ、他に方法はない。一か八かの覚悟を決めた―、その時、空気が後ろでやわらかに動いた。

「大丈夫?!」

 後ろからの声と共に、腕にかかっていた重みがなくなった。私の支えていたところよりも少し上に持ち上げている片手が見えた。恐る恐る手を下ろして振り返ると、サボった日直の男子がいた。

「ゴメンね、着替えるの遅くなっちゃって…」

 その言葉通り、彼は制服ではなくて、野球のユニフォームを着ていた。教室では女の子かと何度も間違われるほどの彼も野球のユニフォームを着ていると、しっかり男の子で―。少しとまどう。

「苗字さん?」

 支えている片手をそのままに私を覗き込む。とはいえ、前髪が長い彼の表情は鼻から下しかわからないんだけど。顔があまり見えないから最初は気にしなかったけど、けっこうな至近距離だと気づいて心もち焦る。

「あー、あ、うん」

 何をどう返事していいのやら、私は適当に頷いた。そんな私の様子に彼の空気が少し緩んだように感じた。

「これって、下すの?」
「あ、ううん、落ちてきちゃって…」
「そうなんだ」

 納得すると彼はそのまま、少しだけ背伸びをして、ぐいっと片手で箱を押す。箱はいとも簡単に元の場所へと戻った。その様子があまりにも軽々としているから、あの箱の中身は本当は軽かったんじゃないかと思ってしまう。

「すごいね。ありがとう」
「えっ!」
「えっ?」

 思わず拍手までしながらお礼を言うと、彼は顔を真っ赤にさせて、私から飛び退くように離れてしまうほど驚いた。その様子に私が驚いた。

「そんな、僕が遅れたのが悪かったんだし、全然!ほんとゴメンね」
「あ、ううん、でもほんとに困ってたの。助かっちゃった。ありがとう」

 もう一度、ちゃんと彼の顔を見て言う。彼はさらに顔を赤くしてうつむいてしまった。

 大人しいなとは思っていたけれど、恥ずかしがりやなのかもしれない。あまりこの空気を長く保つと、彼がしんどいだろうと思って、何もなかったかのように冷静さを保って先生から渡されたプリントを見せる。でないと私もちょっと、このやわらかな空気に流されそうになってしまいうそうだったから。

「あとね、これだけなんだけど」
「ん? あぁ、これ?」

 彼が一歩近づいて、私の手元を覗き込む。ふわりとやわらかいにおい。彼の顔はまだ少し頬が紅潮している。すぐ前でそんな顔をされたら、こっちまで赤くなっちゃいそうだ。

 小柄だとは思っていたけど、顔も頭も小さい。髪は色素が薄くてさらさらだし、そんじょそこらの女の子なんて相手にならないかわいらしさだ。隣からプリントを覗き込む彼を見て、そんなこと考えていたら―、不意に目が合った。
 長い前髪の隙間から、自分を見上げた目と、目が合ったのだ。

 予想外といっていい切れ長の瞳は、とてもきれいで一瞬で私の鼓動を止めた。そして一度止めた鼓動は動き出すと同時にスピードをあげた。体の内からドキドキと鼓動が支配していく。胸は早送りされたように動いているくせに、時間は止まっているみたいに動けないでいた。

「苗字さん?」

 私の様子に彼は首をかしげた。と、同時に目は前髪に隠されて、目線は外れた。その瞬間にまるで魔法がとけたように私の時間は動き出した。

「あ、うん、これ」
「これだね…」

 何となく、目的の物がどこにあるのか検討がつくのだろう。彼はすぐにそれをみつけた。さっきまで真っ赤になっていた彼とは別人のように淡々と動く。私はほっとしながらも、少し物足りない気持ちでその様子を見ていた。

 すると突然彼が振り向いた。いけない、つい見惚れてしまってた。ぼんやり立っていることを咎められると思って慌てて中に入る。

「あ、いいよ。外に出てて」
「え…?」
「制服、汚れちゃうし、ね」

 と、彼は首を少しかしげた。あまりのかわいい仕草にまた胸が高鳴る。それを振り切るように首を振った。

「ううん、大丈夫!」
「…じゃあ、読み上げてくれる? 僕が取ってくるし、チェック入れて」

 それだって、制服を汚さないように気を使ってくれているのがわかる。優しい…と思った反面、体操服に着替えてくるくらいのことも思いつかなかった、自分が恥ずかしくなった。気の回らない子だと思われてしまったら、ちょっと嫌だな。

「さっさと終わらせちゃおう」

 私の返事を聞かずに、朗らかな声でそう言うと作業を始めようとする。すべてにおいて彼の方が上手っぽい。あきらめて一息ついてから、私はうんとうなづいた。

 でもさっさと終わらせちゃうの、もったいない。

 そんな私の邪な思いをよそに、準備はそんなに大変ではなくて、あっさりと終わってしまった。必要な物を全て、用意されていた箱に入れ、先生から渡されていたクラスを書いた紙を置く。彼はパンパンと手を払って、私を見た。とは言っても、目は前髪に隠されているままだ。顔がこちらに向いたから、私を見ているんだろうと思うだけだ。

「お疲れ」

 終わったとほっとした気持ちが私を笑顔にさせる。彼も同じ気持ちなのか、口元が弧を描く。

「うん、お疲れ―、苗字さん…」
「ん?」
「頭に埃ついてる」
「えっ、うそー」

 慌てて下を向いてパンパンと頭を払う。私の様子に彼はくすっと笑うと、近づいてきた。倉庫の中とは違うやわらかなにおいを感じて顔を上げると、すぐ目の前に白いユニホームがあった。

「ここ」

 彼は私の髪をなでるようにして埃を払った。その指の感触に息をするのを忘れた。

「取れたよ。苗字さん?」
「あ、ありがとう」

 急に恥ずかしくなってきた。さっきまで顔を真っ赤にしていたのは彼の方だったのに、たぶん、今は私が赤くなっているはずだ。

「あ、と、さ」
「何?」

 彼は口元に自分の手をあてて言いよどむ。目は前髪で隠れたままで、口元に手を当ててしまったら表情は一切わからない。私の態度が変だったろうか。言いよどむ彼に不安がつのる。

「あ、うん、何でもない。僕、部活行くから」

 じゃ、と軽く手を挙げると、駆け出した彼の背中はすぐに見えなくなってしまった。早いなぁなんて思いながら、急に寂しさにとらわれる。一体何を言いかけたんだろう。明日聞いたら教えてくれるだろうか。

 そういえば、名前、こみなみだったっけ、こみなとだったっけ。無性に彼のことが知りたくなった。苗字だけじゃない。下の名前は? 中学はどこだったんだろう? 彼女は―? 何も知らないのに、それでも彼への想いがやわらかく心の中を支配していく。

 早く明日になればいいのに。今日の夜、とてもじゃないけど、きっと眠れない。


*****


 入学して2週間。寮生活にもずいぶんと慣れた。同室の二年の前園先輩は関西弁で強面でぶっきらぼうな感じだけれど、意外にも細やかにいろいろと面倒をみてくれる。根はやさしくて世話好きなのだろう。

「洗濯機空いたで」

 洗濯物を抱えて前園先輩は部屋に戻ってきた。寮の洗濯機は数が限られているので、同学年同士で一緒に洗ったりとうまくタイミングを計らなければいつまでも洗濯できない。今日は自主練をしていて他の一年とうまくタイミングが合わなくて、まだ洗濯できないでいた。

「あ、ありがとうございます」

 立ち上がって、洗濯をする用意をしようとした時、ふわりとあまいにおいがした。

 苗字さんの…

 少し小柄なクラスメイトを思い出した。今日一緒に体育倉庫で作業をした、苗字さん。放課後に体育倉庫で彼女から香ったにおいと同じだった。あまくて、ふんわりとした彼女の雰囲気にとっても合っていた、香り。すごく気になって、苗字さん本人に聞こうと思ってできなかった。何のにおいか聞くなんてちょっといやらしいかなと思ったからだ。それが前園先輩からにおうなんて…複雑な気持ちになった。

「あの、このにおい…」
「これか…純さんからもらったんや」

 そう言って、前園先輩は洗濯物の入った籠の中からボトルを取り出した。その動きにつられてにおいが強くなる。

「柔軟剤…ですか」
「せや。おまえも使うか?」
「え、いえ、遠慮します」
「…そうか」

 ちょっと残念そうに前園先輩はうつむいた。

「…もともとは純さんが亮介さんからもらったもんやねんけどな」

 あぁ、兄貴か。何となく、柔軟剤をめぐるストーリーがよめた。たぶん、伊佐敷先輩をからかうためのものだったのだろう。そしてそれを伊佐敷先輩は前園先輩に押し付けた、そんなところじゃないだろうか。前園先輩は先輩として僕におしつけてもいいのに、それをしない。僕が小湊亮介の弟だから、じゃない。きっと根がいい人だからだ。

「すいません」

 僕はそう言って部屋を出た。部屋を出てもまだ少しにおう。早く使い切りたくてたくさん使ったのかもしれない。ひどく申し訳ない気持ちになる。と、同時に苗字さんを思い出して、落ち着かない。

 かわいかったな。

 荷物を上にあげただけで「すごい」と言った苗字さんがすごくかわいかった。体育倉庫で苗字さんがなんだか必死に荷物を支えている様子に最初はどんなに重いのかと思って、慌てて後ろから支えた。けれど、それは重くなんてなくて、ちょっと拍子抜けするくらいだった。力がないとかそういうのじゃなくて、ただ、女の子なんだなって、かわいいなと思った。

 無意識に顔がゆるんで、胸の中がふわふわとたよりないようで心地いい。ちょっと自分でも小賢しかったかなと思う理由で苗字さんの髪に触れた、その手を広げた。さらりとした髪はあわい甘さを手に残した。マメだらけで決してきれいとは言えない自分のその手のひらを見て、苗字さんを思う。早く明日会いたいと思った。こんな風に女の子のことを思ったのは初めてだった。

 洗濯機を回している間、バットを振ってクタクタにならないと、今日の夜は眠れる気がしない。


*****


 体育でグラウンドへと向かう。更衣室からグラウンドまで中庭を通っていく。まだクラスの中でグループは固まりきれてなくて、なんとなくクラス全員が、ひとかたまりのような、それでいて、ばらばらのような微妙な感じで進んでいく。誰もが校内にあまり慣れていないから、みんなと一緒じゃないと不安っていうのもあるのかもしれない。

 昨日の今日で、私は朝から小湊くんと話す機会をずっと窺っているけれど、まだチャンスがない。こうやってなんとなくみんな一緒の時は話しかけることができそうでいて、周りの目が気になって話しかけにくい。不自然じゃない程度に周りを見渡して小湊くんを探す。

 小湊くんは私の少し後ろで、降谷くんと並んで歩いていた。後ろにいると思うと自分の背中を意識しすぎて上手く歩けなくなってしまいそう。そんな緊張をほぐすように空を見上げた。その時、きれいに晴れた空の下、突然風にあおられた。学校の中庭は建物との構造上に理由があるのか、巻き上がるように風が吹く。

 強い風とぶわっと舞い上がる砂埃に、目を閉じてこらえるのがやっとだった。

 そういえば、たまに運動会のテントが飛ばされる、なんてニュースで流れていたことを思い出す。そんな竜巻みたいなもの、そうそうあるわけない。少しよぎった自分の考えに笑うように首をふる。その瞬間、さらに強い風が吹いて体のバランスがくずれた。あちこちで悲鳴があがる。

 風の力で何歩か思わぬ方向に押され、何かにぶつかって止まる。それが人だということは、下を向いた私のわずかに開けた目が、足元に自分以外のジャージとスニーカーをみとめたからわかった。

 クラスの子だろうけれど、誰かわからない。ぶつかってごめんなさいと、言おうにも、風は止まなくて謝るどころか顔さえ上げられない。

 身長的に相手は女の子だろうと判断した。柔らかさがないからすごく細い子だ。誰だろう。まだ覚えきれていないクラスの女子から何人か検討をつけてみる。あの子かな。だから、さらに風にあおられた私は遠慮なくその子の腕に抱きつくようにしがみついた。

 二人でならこらえられる、勝手にそんなことを思って。けれど、その子はなぜか離れようとする。

「―――――」

 その子が何かを言おうとするのをさえぎるように、砂が舞う。それはもう砂埃というような甘いものじゃない。バチバチと当たる砂が痛いほど。思わず小さく悲鳴をあげてしまう。しがみついたまま、体を縮こまらせた。

 すると私に腕をしがみつかれた子は、そのまま体を風が吹いてくる私の後ろに回り込ませた。そのおかげで、私に当たる風も砂も嘘のようになくなる。

 離れようとしていたのに、かばってくれている。

 その子の行動に驚いて顔をその子に向けようとしたとき、風が止んだ。

 あちこちで、スゲェとか、びっくりしたね、やばいよなんて声が上がる中、顔をあげた私は、かばってくれていたその子が誰かわかって、言葉が出なかった。

「大丈夫?」

 色素の明るい髪をしたその子は、小湊くんだった。

 自分が抱きついていたのが女子ではなくて、男子だったという事実が、あまりにも衝撃的で恥ずかしい。それもつい昨日、意識し始めたばかりの相手だ。顔が一瞬で火照ったのが自分でもわかった。

 小湊くんも少し顔を赤らめている。

「ごめん! あの、私、女子だと思ってて、それで…」

 抱きついちゃったのとは恥ずかしくて口にできずにいた。しかも、面と向かって女子だと思ったなんて失礼なことを言ってしまってる。それを取り繕おうとする前に

「あ、うん。僕、よく間違えられちゃうから」

 気にしないでと、小湊くんははにかむように笑った。その笑顔に胸が高鳴る。朝からずっと話かけようって思ってたのに、抱きつくなんてことをしてしまったものだから、昨日の夜から考えていたはずのいろんな言葉はどこかへいってしまった。小湊くんが私をかばってくれたことが、ただただうれしくて仕方なかった。

 やっぱり男らしい。

 すぐ目の前の小湊くんの外見は華奢に見えるし、かわいらしいし、男らしいとは正反対だ。けれど、あんな風にとっさにかばってくれるなんて、男の子だからって誰でもできることじゃないと思う。昨日だって、あんなに重かったものを軽々と上に上げてくれたし。

 気づくと私の心臓は急に早くなって、その早さに顔がさらに火照っていくのがわかった。

「苗字さん?」
「あ、え、と。ありがとう。本当に、ありがとう」

 何とか取り繕って、笑う。すると同じように口元に弧を描いた小湊くんの手が私の頭に伸びてきた。

「すごい砂」

 そう言うとなでるように私の髪から砂を払う。その指にドキっとする。昨日も同じように触れられたことを思い出して、さらに胸は高鳴っていく。そんな自分の気持ちを振り払うよに意識を別のところに向ける。そして、小湊くんの方がもっと砂をかぶっていることに気付いた。私をかばったせいだ。

「小湊くんも、すごい」

 無意識に手が伸びて小湊くんの前髪を払う。と、さらりと指から髪がこぼれて、目があった。昨日も思いのほか意思のあるその目に息をするのも忘れるほどだった。いつも前髪で隠しているのは、恥ずかしいがり屋だからじゃなくて強すぎる力が目にあるからじゃないだろうか。

 その目と視線が交わる。

 息が止まって、胸が苦しい。昨日と同じ、ううん、それ以上にぎゅって掴まれたみたいに息ができない。吸い込まれそうで、これ以上見ていると自分の何かがあふれてきそうで怖い。なのにこの視線を外したくない。

 小湊くんはそんな私の様子に気づくこともなく、ふるふるっと自分の頭をふって、髪についた砂をはらい落とした。それと同時に視線は外れて、残念な気持ちがあるのに、なぜかほっとする。

 風が止んで、周囲も一段落すると、またみんなでグラウンドへと向かいだす。小湊くんも、じゃあねと小さく言うと、少し先で待っていた降谷くんへと駆けて行った。その背中は昨日見送った背中と同じで、けれどそれを見る私の気持ちは昨日よりも、またさらにずっとずっと大きく強くなっていた。


*****


 触れた、という事実に顔がゆるむ。僕の腕に抱きついた苗字さんのやわらかさが腕にまだ残っているようで、そっと自分の手をやる。昨日の今日で、また苗字さんと話せた。浮き立つ気持ちは身も心も軽くする。不思議そうに僕を見る降谷くんに無意味に笑顔を向けてしまう。それくらい浮ついてしまっている。

「がんばろっか」
「…」

 ごまかすように言うと降谷くんは頷いた。スポーツテストという名の体力測定は、今日一日、クラスと学年を分けて、二校時ずつ行われる。そして、これには運動部の沽券がかかわっているらしい。朝の食堂で伊佐敷先輩が喝を入れていた。サッカー部とバスケ部とバレー部には負けないようにと。あまりの熱の入れように一年は若干引き気味だったけれど、あの兄貴も伊佐敷先輩をうるさいと止めはしたけれど、僕たち後輩に向かって、みっともない成績だとわかってるよね?と言う表情はかなり本気だった。

 ハンドボール投げは2年生の野球部員が計測を行う係りになっている。てっきり二軍の先輩たちでローテーションを組んでいるのだとばかり思っていたので、そこにいる姿に驚いた。

「よぉ、降谷」

 にやにやと降谷くんを見るのは計測用のメジャーを手にした御幸先輩。この人、係りとかできるんだ。何だかんだと上手く係りとかからは逃れそうなタイプに思えたから少し意外だ。まぁ、そういうことを片岡監督が許すとは思えないけれど。

「ここで投げれないようじゃ、オレは受けてやんねーし」
「…」

 御幸先輩の軽口に降谷くんの空気が変わる。わざわざ煽りにきたのだろうか。御幸先輩は僕も見てニヤリと笑った。

「期待してるよ、弟くん」

 何が面白いのか、人の悪い笑顔で計測するために移動していく。その背中を見送る降谷くんにやる気がにじみ出ているのがわかる。その横顔を見て、僕も無様なことはできないなと気合を入れた。

 兄貴に認めてもらいたい気持ちと、すぐ近くで見ているかもしれない苗字さんにかっこいいところ見せたいなんていう邪な気持ちの両方から。

 女子だと思って―

 苗字さんの何気ない一言が脳裏によみがえる。女子と間違えられることなんて、今までいくらでもあったから、いちいち気にしてなんてなかったのに。その理由は自分でもわかっている。苗字さんには「女子」だと思われたくないんだ。抱きしめるように砂埃からかばったって、男として意識してもらえなきゃ、意味がない。

 渡されたボールを軽く握り直す。得意分野、といっていい。せめて少しでも見直してもらえるように。目線の端で苗字さんをとらえた。

 こっち見てるよね。

 それだけで気持ちが昂る。昂ぶりすぎる気持ちを抑えるように軽く目をつぶって深呼吸をした。神経を集中して、いつも通りのフォームで遠くへとボールを投げた。

 ボールは程よいスピードと高さで、キレイに空に弧を描いていった。


*****


 きゃあっと小さな歓声がする。その子たちの目線の先は男子のハンドボール投げだ。降谷くんが投げたボールはとても遠くへと飛んでいって、そのカッコよさに黄色い声が飛んだのだ。

 入学式にいきなり遅刻寸前だった降谷くんはクラスでいつもぼんやりしている。背も高くてかっこいいのに、そのぼんやりした様子に女子の中では残念なイケメンに部類された。それだけに意外でみんなにはカッコよく見えたのだろう。

 でも私は、降谷くんの次に投げる小湊くんを待っている。小湊くんは軽くボールを握り直した。ただそれだけの仕草も、普段からボールを触っているからなのか、様になっていてドキッとしてしまう。野球部だし、降谷くんほどではないだろうけれど、きっと上手いんだろうな。

 ドキドキと小湊くんが投げるのを待つ。

「苗字さん、何見てるの」

 突然後ろから声をかけられて、驚いて心臓が跳ね上がった。

「何って、別に。あ、ほら。降谷くん! すごかったね!」

 声をかけてきたのがクラスの女子委員長だったのがわかって、降谷くんの名前を出した。委員長は入学式の日に迷子だった降谷くんを連れてきた子で、それがしっかり者のイメージを彼女につけた。その流れで委員長になった子だった。

「野球部だもんね。それより、みんなあの先輩見てるよ」
「先輩?」

 委員長が指さした先には二年のジャージを着た眼鏡をかけた人だ。ジャージは学年ごとに色が違うから、一目で学年がわかる。

「イケメンだって。見える? 私、目が悪いからなぁ」

 委員長は目を細めて朗らかに笑う。たぶん、委員長はそんなにイケメンの二年生に興味はないんじゃないかな。今、その二年生と降谷くんが話しているから見てるだけで。なんとなく、その目に見守るようなやさしさを感じてそう思った。

「私もあんまり見えないけど」

 一応、よく見ようと目を細めた。その時―

 二年の先輩は突然空を仰ぎ見て、メジャーを持って走り出した。

 グラウンドにボールが落ちて、何度かはねてから転がった。それを見て、はっとして、投げた人を見る。それは小湊くんだった。

 投げる瞬間を見損ねた…!

 話をしている間に小湊くんが投げたのだった。ありえない、なんてバカ! こんなことってない! ショックも大きい。いやいや、ううん、落ち着け私。まだ大丈夫。もう一回投げるはず。今度こそ見損ねたりしないから!

「あ、小湊くんだ」

 委員長も投げたのが小湊くんだと気づいた。降谷くんと小湊くんは野球部同士よく一緒にいる。そのため委員長は小湊くんともよく話していた。今朝も話をしていて、話す機会を探していた私は、ちょっと羨ましいなって思っていた。

 小湊くんがまた投げるモーションに入る。小さな体がしなって、その動きがとてもきれいだと思った。その姿に魅入ってしまう。

「そういえば、さっき、小湊くんにかばってもらってたね」
「…!」

 小湊くんに見惚れていた私は言葉が出ないまま、顔を赤くして口をパクパクとさせてしまう。そんな私に委員長がにんまりと笑う。

「ふーん、そうか、そうか」
「え、ちょ、あの、待って」
「いーの、いーの。わかったから大丈夫」

 何が大丈夫なのか。委員長はにっこりと笑って私の肩を叩く。

「お似合いだと思うよー」

 したり顔の委員長のその言葉は、嘘でも嬉しいと思った。そしてこれをきっかけに私たちは仲良くなった。


*****


 衣替えまでまだ1週間あるのに、もう長袖もブレザーも着ているのが暑いくらいの日が続く。昼休みになって日差しが差し込んできて、教室の温度は一気に上がる。我慢できなくてブレザーを脱いだ。自分の椅子にかけてシャツの袖をまくりあげる。

 よりにもよって窓際の降谷くんはすでに暑さに負けていて、ぐったりと机につっぷしている。ブレザー脱いだ方がいいんじゃないかな。そう思って、降谷くんの席へ行こうと考えたとき、降谷くんに女の子が二人近づいていった。

 一人はクラスの女子の委員長で、彼女は入学式の日から降谷くんの面倒をみている。案の定、僕と同じことを思ってたのか、降谷くんに何か言うとブレザーを脱がせた。彼女に任せておけば降谷くんは問題ないけれど、それでも僕は降谷くんの席に行く。

 苗字さんが委員長と一緒にいるからだ。

「降谷くん、大丈夫?」

 苗字さんの横に立って、降谷くんを気遣う。降谷くんはとろんとした目のまま僕に頷いた。脱いだブレザーを椅子の背にかる。おざなりな降谷くんの動きでブレザーは下に半分落ちてしまった。

「汚れちゃうよー」

 朗らかに笑いながら、苗字さんがそれを拾うと自分の腕の中でパンパンと汚れをはらって、かけ直した。それだけのことに降谷くんに恨めしい気持ちが少しわく。苗字さんが少し驚いたように僕を見た。恨めしい気持ちが表情に出ちゃったのかと、焦る。けれど、苗字さんはにっこりと笑った。

「小湊くんもあんまり焼けてないね」

 苗字さんは肘まで袖をまくりあげた僕の腕を見た。良かった。僕の小さな嫉妬は気づかれてない。そして、委員長も僕を見る。

「野球のユニフォームって重ね着だもんね」
「重ね着…」

 委員長の言葉に苦笑する。確かに重ね着してるけど、そんな風に言われることはあんまりない。降谷くんもそこはおもしろかったのか、わずかに眉をよせた。しっかり者だと思われて委員長になった彼女が実はけっこう天然だということは、案外すぐにみんなが気づいた。ただその天然さは降谷くんと上手くかみ合っているので、何も問題はない。

 焼けてない、か。

 どうせなら、たくましいねとか言われたいところだったんだけどな。まだまだ貧弱と思える腕を組む。知らずため息も出た。

「どうかした?」

 僕のため息に苗字さんが心配そうにのぞき込む。揺れた空気であまい香りが広がった。それは僕の鼻をくすぐって胸をいっぱいにする。

「ううん。早く衣替えしたいなって」
「そうだね」

 そう言って日差しに目を細めて窓の外を見る苗字さんを、そっと覗き見て、その横顔に胸が痛いほどときめいた。


*****


 頬杖をついて、先生の話を真剣に聞いているふりをする。頭の中は小湊くんでいっぱいだ。

 たくましかったな。

 袖をまくった腕はびっくりするくらいたくましかった。一瞬見惚れてしまって、それが恥ずかしくて照れ隠しに「焼けてないね」なんてバカのこと口走っちゃって。委員長がフォローしてくれなかったら、変なこと言う子だなって小湊くんに思われたかもしれない。

 好きだな。

 改めてそう思う。

 クラスの女の子たちは小湊くんを男として意識していないから、仲良く話していても特にやっかまれることもない。降谷くんはこっそり人気があるけれどクラスでは委員長が降谷くん係りとして暗黙の了解ができている。その委員長と私は仲よくしているから降谷くんと降谷くんと仲の良い小湊くんと話していても、不自然じゃない。そんな今の状態は小湊くんに片思いしている私にはとてもいいことなんだけど。

 けど。

 そんな都合のいい状態をこえて、隣にいることが当たり前みたいに側にいたい。そんなこと願うのは欲張りだろうか。

 きっと、衣替えをしたら小湊くんの男っぽいところに気づく子も出てくるだろう。見た目だけじゃない。中身も男らしいところが、クラスで過ごすうちにどんどん出てくるだろう。そんなことを思うと急に焦りみたいなものが出てきてしまう。誰も何もしていなのに、勝手に想像の中で自分を焦らせて追い立ててしまう。

 前の席の子が椅子をがたがたといわせて立ち上がった。それにはっとして我にかえる。男子が色めき立つほど美人の高島先生は順番に当てていくから、次は私だ。何がくるのか様子をうかがうけれど、上の空だったせいで、どこをしているかわからない。そっと、後ろ向いて、後ろの子に今どこらへんか聞く。後ろの子が私に応えてくれる前に眉をひそめた。

「苗字さん。聞いてなかったのかな」

 先生の凛とした声がして、教室中があーあっていう空気になる。ごめんなさい。

「…はい」

 すいませんと小さな声で謝る私に先生は放課後職員室ねと、キレイな顔に冷え冷えとした笑顔を作った。

 どれだけ怒られるんだろう。

 高島先生はとても美人で気さくですでに人気がある。私も好きだけど、怒ったところはまだ知らない。それを放課後呼び出しだなんて…。

 放課後、恐る恐る職員室へと向かう。私を見つけると高島先生は手招きをして、隣の先生の席の椅子を私に差し出して座るように促す。おどおどと座ると高島先生は困ったように笑った。

「そんなに怯えなくても大丈夫よ。少し聞きたいことがあったものだから」
「あ、はい」

 あれ、怒られるんじゃないの。私の考えたことが分かったのか、高島先生はやさしい笑顔をみせた。

「授業を聞いてなかったことは、課題で許してあげます」
「あ、はい」
「聞きたかったのは、降谷くんと小湊くんのことなの」

 まさかここで小湊くんの名前が出るとは思ってもみなくて驚いた。

「二人とも、クラスでどうかしら。部活が大変になってきているから、ちょっと心配で」
「特に何も…降谷くんは休み時間ほぼ寝てますけど」

 小湊くんもゴールデンウィーク辺りは、ぐったりとしていたけれど、最近は休み時間も本を読んでたり、誰かと話してたり起きていることが多い。私とも…話してくれるし。

「そう、なら良かった」

 高島先生はほっとしたようにため息をついた。そんなことを聞かれる意味がわからなくて、私は頷くくらいしかできない。それに気づいて先生は説明してくれた。

「二人とも一軍に入ったの」
「…! 一軍!」
「そうよ。二人ともうちの戦力なの。だから少し気になってたのだけど、本人に聞いても大丈夫くらいしか言わないしね」

 困ったように、でもどこか誇らしげに高島先生は笑う。

 驚いた。降谷くんも小湊くんも野球部で上手いらしいよって話はなんとなく聞いていたけれど、まだ入学して二か月もたってないのに。

「もうすぐ中間だし、少し気にかけておいてくれないかしら。あなたと委員長は二人と仲がいいでしょ」

 よろしくねと笑うと何枚かプリントを渡された。

「これは授業を聞いてなかった分の課題。明日までね」

 先生の笑顔はキレイすぎて、受け取る私の顔は、そのプリントの枚数と内容にひきつった。


*****


 苗字さんがおかしい。

 ううん、おかしいっていうのは言い方が悪いかな。やたらと僕との世話を焼こうとする。降谷くんじゃないし、大丈夫なんだけど。でも、好きな子にかまってもらえるのは正直悪くない。素直にうれしい。

「小湊くん、これいる?」
「ありがと」

 苗字さんが差し出した菓子に手を伸ばす。委員長と降谷くんも同じように手を伸ばして、なんとなく四人で休み時間をこうして過ごすことが増えた。相変わらず委員長は降谷くんの面倒を見てばかりだけど。

「テスト勉強どうしてる?」
「うん、まぁ、なんとか。寮だから先輩に聞けたりもするしね」
「そっか」

 よかったと苗字さんはほっとしたように胸をなでおろした。

「よかった?」
「うん。高島先生に気にかけてって言われたんだけど、勉強は見てあげられる自信はなかったから」
「高島先生…に」
「うん、二人とも一軍だから大丈夫か気にかけてほしいって」

 すっと自分の心の温度が下がったのがわかった。苗字さんの厚意だと喜んでいた自分がバカみたいだ。

 僕はそんなにも頼りない男に見えるんだろうか。いや、男としてなんて思ってもらえてないかもしれない。

―女子だと思って― 
―焼けてないね―

 男として意識されていないとしか思えない今までの苗字さんの言葉が脳裏に渦巻く。

「大丈夫だよ。苗字さんに面倒なんてみてもらわなくったって」

 思わず出た言葉は冷たさと棘に覆われていて、自分でも言ってしまってから、しまったと思うほどだった。ちらりと苗字さんの表情を窺う。

「…そうだよね、ごめんね」

 髪をかきあげながら、えへへと笑う。軽く振舞おうとしているけれど、その目は僕から視線を外してしまっている。しばらく無言のあと、苗字さんはもう一度ごめんねと謝るとトイレと言って足早に教室から出ていく。追いかけて謝らなきゃと思うけれど、傷つけてしまったことが自分でもショックで足が動かない。

「ひどいと思う」

 こぼされたようにつぶやかれた降谷くんの言葉が胸にささった。そして、その反動で足が、動いた。


*****


 こらえなきゃ。

 とにかくトイレに駆け込むまで涙はこらえるんだ。少し早足で、特に何事もないように、普通に、周りから気づかれないように―ひたすらそれだけを考えて足を動かす。今、さっきのことを少しでも思いだしたら泣き崩れてしまうから。

 階段の踊り場を通り過ぎればトイレだ。あと、少し。その瞬間、後ろから手首をつかまれた。驚いて振り向けば小湊くんだった。

 小湊くんは無言のままグイっと私を階段の下の周りからは死角になるところまでひっぱった。思った以上の力で、後ろから仰ぎ見る肩は意外に角ばっていて、あぁやっぱり小湊くんはかっこいい男の子だなぁなんてぼんやりと思う。

 向かい合ったまま、しばらく沈黙が続く。私の手首を握った小湊くんの手はそのままで、指の節や感触が私の手とは違いすぎて、触れられていることに、体中が熱をもっていく。

「ごめん」

 小湊くんが謝った。その声はさっきとはうってかわってやさしさにあふれてる。私は大丈夫と口にしようとしたけれど、涙がこぼれそうになって、ただ下をむいたまま首をふった。

「僕、こんなんだけど」

 握った手首から、小湊くんの力がゆるむ。でも離されはしない。

「ちゃんとしてるから」

 うんと頷く。きっと、私なんかに面倒みられることに腹がたったのだろう。それもそうだ。私よりも小湊くんの方がしっかりしているのだから。高島先生に少し頼まれたくらいで有頂天になって世話を焼こうなんて思った私がバカだった。

「苗字さんは、僕のこと男だと思ってないと思うけど…」

 ううんと首をふる。いつだって、小湊くんは男の子だ。今だって。

「僕、苗字さんのこと好きだから」

 うんと頷いてから、一瞬頭が真っ白になった。何て、今? ゆっくりと顔をあげる。小湊くんもうつむき加減だから、髪の隙間からパチリと目があった。あの、切れ長の、吸い込まれてしまうような。私に魔法をかけてしまう目。

「…」
「好きなんだ」

 もう一度言われたその言葉に、こぼれ出していた涙が、堰を切ったようにどんどんと溢れてくる。もう止められない。

「苗字さん、あの」

 困ったような小湊くんに、私はさらに恥ずかしいほど泣きじゃくって、私も私もと言うのが精いっぱいだった。

 私の気持ちがわかったのか、小湊くんの空気から緊張がゆるんだ。小湊くんは手首をやさしく引っ張って同時に一歩、私に近づく。体が触れ合いそうなほど近くに寄ってまうと、泣いている私は気持ちが昂ぶってしまって、ただただ好きという気持ちがあふれてきてしまって、もうどうしても泣き止めない。

 小湊くんは、私の様子にくすっと笑うとやさくし頭をなでた。今までにも何度が触れられた頭は、小湊くんの手と温かさを知っていて、さらに今までよりもしっかりと触られているのがわかった。

 大好きなの。小湊くんのこと。今は到底口にすることのできない、この気持ちを、落ち着いたらちゃんと言うから。そうやって、やさしく私の頭をなでて、もう少しだけ待ってて。


*****


「あ、トイレ…我慢してないよね」

 確かにトイレに行くって教室を出てきたけど、そんなの泣くところを見せないための口実に決まってるじゃない。今この時に、このデリカシーのなさは、心配しなくても紛れもなく男子だよ、小湊くん。


*****






はらっぱ



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