轟雷市
もうすっかり聞き慣れた店内に響くテーマソングに、名前はこみ上げるあくびをかみころした。目の前には、無口なレジスターが鎮座している。
この辺りではもっとも営業時間の長いこのスーパー。夜九時近くともなればお客さんはまばらで、主に立ち寄るのは仕事を終えたサラリーマンやOLさんが多い。
名前がここのアルバイトをはじめて、もう半年が経とうとしている。週四回ほどのシフトで、高校生の名前でもできるレジ打ちの仕事が主だ。今ではその仕事もずいぶん慣れ、お客さんとのやり取りも緊張しなくなった。
左腕のセーターの袖を引っ張って、腕時計の文字盤を確認する。今日もそろそろかなと、名前は入口の方へ視線を向けた。
無愛想な自動扉が口を開けた途端、もつれ合うように入って来たのはいつもの二人。ゲートから出た競走馬のように一目散に駆け出す。目指す場所はただ一つ、その名も惣菜コーナーだ。
「親父! 今日は半額のカツ丼が残ってる!」
「でかした雷市! 半額なら許す!」
名前のいるレジからその場所は少し離れているけれど、比較的静かな店内に響く二人の声を聞き分けるのは容易だった。
この時間なら、総菜コーナーの商品にはほとんど半額シールが貼られているだろう。
「これ食いたい!」「給料日前だから我慢しろ!」そんな二人のかけ合いがおもしろくて、思わず笑いを堪える。
それからしばらく名前が仕事に没頭していると、あの二人が買い物を終えレジにやってきた。
「いやぁ、今日も精が出るねぇ姉ちゃん!」
「こんばんは、雷蔵さん」
ジャージ姿の雷蔵が、今日も豪快な調子で労いの言葉をかけてくれる。以前、聞いてもいないのに、本人から自分は薬師高校野球部の監督をしているのだと教えてくれた。
それから、雷蔵の後ろにいた雷市が、おずおずと買い物カゴを台に置いた。ちなみに、雷市はチームのサードで四番なんだそうだ。
「雷市くんこんばんは」
「こっ、こんばんは......」
さっきまで雷蔵と大声で怒鳴りあっていたのに、雷市はレジに来るとなぜかいつもおとなしくなった。顔はほんのり赤く目は泳いでいる。
たぶんシャイな性格なんだろうなと名前は推測していた。
「最近ずいぶん涼しくなりましたね」
「お〜、すっかり秋って感じだな。暑さでバテる奴もいなくなったしちょうどいいぜ」
そんな他愛もない会話をしながら、名前は次々と商品をスキャンしていく。話しながらも、仕事の早さと正確さは忘れない。カツ丼、親子丼、キャベツ、もやし、魚肉ソーセージ、そしていつものバナナ。
雷市くん、野菜炒めでも作るのかなぁ。
材料を見ながら名前は想像した。
合計金額を告げ、雷蔵が財布からお金を出す間、雷市はこちらの様子をちらちらうかがっていた。いつも何か言いたげに口を開きかけるのに、でもいつも何も言わない。
「やっぱ姉ちゃんの笑顔見ると、一日の疲れが吹っ飛ぶぜ」
「またまた雷蔵さんは。おだてたって何も出ません」
「いやいやマジで」
そうニヤニヤ笑いながら「なぁ、雷市?」と話を振ったので、当の雷市は目に見えて慌てはじめた。顔を更に真っ赤にして、キョロキョロと周囲を見回している。その間に名前は、雷蔵からお金を受け取りレジを打つ。お釣りを渡し終えたあとも、雷市が何かを話すことはなかった。
けれどこれ以上何か言っても気の毒な気がしたので、名前は名残惜しいけれど、告げた。
「ありがとうございました!」
親子の背中を、しばらくガラス越しに見送った。
雷蔵は、奥さんが昔家を出て以来、ずっと男手一つで雷市を育ててきたんだそうだ。いわゆる父子家庭というやつで、名前の家も似たような境遇のため、いつも接しているうちに名前は、あの親子に親近感みたいなものが湧いていた。
でも、それだけじゃない。
ガラス越しの少しくすんだ夜空を見上げて、今日も恥ずかしそうにしていた雷市を思い出し、無意識にため息がこぼれた。
今日は、話せなかったな。
*
昨日は親父のせいであの子と全然しゃべれなかった。親父と一緒に来るといつもそうだ。
今日も練習を終えて、雷市はいつものスーパーに寄る。まぶしいぐらい明かりがついた店内を覗きこむと今日も、名前はいた。練習でくたくたになった身体に、一気にパワーが宿る。それは練習中、バナナを食べた時に似ていると、雷市は思う。でも何か食べたわけでもないのに、こればかりは不思議だ。
雷市が近くにあったカゴを取ると「いらっしゃいませ!」と笑う名前と目が合った。けれど、その目を見ることができない。
今日は雷蔵から「疲れたから買いモン頼む」と任され、雷市一人でここに来ていた。こういったことはしばしばある。
あのクソ親父は、家のことは何もしやがらねぇから全部俺の仕事だ。でも、これに限っては許してやる。
店内をぐるりと回って、目的のものをカゴに入れていく。もちろん、広告の品や目玉商品しか買わない。雷市の家にはお金がないからだ。
精算するためレジに行くと、開いているレジは三つで、ちょうど名前のレジが一番混んでいた。対して、隣のおばさんの方が早く終わりそうだ。でも雷市はしばらく、絶対に買わないガムコーナーを見るフリをして適当に時間をつぶした。しばらくすると目的のレジが空いたので、そちらめがけて猛ダッシュをかける。
すると、雷市に気づいた名前がうれしそうに笑った。
「雷市くんこんばんは」
「こっ、こんばんは!」
名前の笑顔を前にすると、急に何も言えなくなる。
クラスの女子もたまに話しかけてきたり、お菓子をくれたりするけれど、その時の緊張とは少し違う、と雷市は思った。
同じ女子なのに、うまく言えないけどなんか違う。
クラスの女子は、雷市がうまく会話できないと、つまらない顔をして去っていくのに、名前はいつもニコニコと雷市の言葉を待ってくれた。「練習がんばってね」と応援してくれたりもする。
胸元の名札を見ると、苗字が「苗字」というのはわかるけれど、下はわからない。雷市はまだ、その名前を知らない。
そんなことを思いながら、名札を見た続きで何げなく胸のあたりを見ていた。
「ねぇ、あといくつ勝ったら甲子園?」
「えっ!」
一瞬、胸がしゃべったのかと思いひどく慌てたものの、もちろんそんなことはありえない。レジに商品を通しながら名前が訊いた。
「えーと......」
自分のやましい思いがばれたんじゃないかと心臓がバクバクいう。少し考えてから、学校名ではなく対戦したいピッチャーの顔がぱぱっと浮かんだので「二つ!」と応えた。
「二つ?! すごいよ! もう甲子園行けるんじゃない? 優勝したら選抜? に出られるんだっけ」
「ま、まだわかんねーけど......」
「けど?」
「すげーピッチャーと戦いたくてウズウズしてる!!」
雷市の言葉に名前は、そっか、とうれしそうに言った。
「明日、準決勝なんだ」
「え、じゃあ早く帰って寝なきゃ」
「お、おう!」
もっと話せるかと思ったのに、名前は雷市を早く帰すかのようにテキパキと動きはじめた。手早く商品を通し終えて
「864円です」
雷市は仕方なく財布をあさった。財布の中にはちょうど千円札しかなかったので、緊張半分、うれしさ半分でそれを出した。千円札なら当然、お釣りがくる。
名前がお札を受け取りキーをたたく。お釣りをしっかり確認し、それから雷市の手へ。こちらがお釣りを落とさないように、名前はいつも丁寧に手のひらにそれを乗せてくれる。あたたかくて柔らかい女の子の手。優しくて、お金を大事にする人の手だ。
「ありがとうございました!」
スーパーを出て、買い物袋をぶらぶらさせながら夜道を一人歩く。手のひらをグーパーと、広げたり握ったりを繰り返した。バットの振りすぎで、すっかり硬くなった手のひら。いくつもマメができては潰れたあと。雷市はそれを、恥ずかしいなんて思ったことは一度もなかった。仲間とやる野球は楽しいし、勝つとうれしい。そのためにバットを振る。でも。
あの子に手を触られる時だけ、なんかすげー恥ずかしい。
去って行く雷市を見送ったあと、名前は自分の手を見た。爪には何も塗られていなくて、肌は少しかさかさしている。スーパーの中は乾燥するうえ家で水仕事もするから、ハンドクリームを塗っても防ぎきれない。
こんな手で雷市くんにお釣り渡すの、恥ずかしいな。
お釣りを渡す時の雷市の手のひらは、すごく硬い。雷蔵いわく、小さな頃からバットを振っているせいなんだそうだ。それを聞いて以来、これは雷市の勲章みたいなものだなんだなぁと、その手のひらに尊敬の気持ちを抱くようになった。
最初は買い物に来てくれるだけでうれしかったのに、今ではもっともっと話したいなんて思うようになった。
さっき、それとなく雷市に試合の話を振ってみた。以前、クラスの野球部の男子に薬師高校野球部について聞いたところ、最近になって力をつけてきたチームなんだと教えてもらった。野球に詳しくない名前でも知っている野球の名門、市大三高を夏に一度倒しているのだから、実力は確かなんだろう。「特に薬師の四番はすごい」と聞いて、自分のことのようにうれしくなった。
いつも恥ずかしがり屋の雷市がどんなプレーをするのか、一度でいいから見てみたい。あわよくば「試合見に来て」なんて誘ってほしい。
あんな風に話を振って、私、やましさのかたまりみたい。
*
数日後。薬師が決勝行きを決めた翌日、浮かれ気分の雷蔵は、部員たちにスーパーの名前のことをしゃべってしまった。
「あんなコが雷市の嫁さんになってくれたらなぁ」なんて気早すぎだろ親父!
もちろん、雷市は三島たちにさんざんからかわれた。真田からは「さりげなく仕事終わる時間聞いとくんだぜ」とありがたいのかよくわからないアドバイスまでくれる始末だ。
練習を終えていつものようにスーパーへ向かう途中、今日も雷蔵に買い物を任された。雷蔵は「俺先に帰るわ」とめんどくさそうに耳をほじったあと、ニヤニヤ笑いながら言った。
『苗字ちゃん、試合に誘えよ』
名前のレジの台にカゴを乗せた。さっきからバクバクいう雷市の心臓。
うるせぇ、静まりやがれ。
するとカゴを見て名前は、あ、ともらした。
「今日はトンカツのお許しが出たんだね」
「......親父が、試合前に精をつけろって」
「優しいお父さんだね」
「いつも無茶苦茶なこと言うけど......か、感謝はしてる」
名前の目が優しく細められた。
いつものように精算を済ませ、お釣りを持つその手が雷市へと差し出される。
「......え?」
名前が戸惑ったのもムリはない。雷市がお釣りごと、その小さな手を握ったからだ。
「け、決勝」
「決勝?」
「みにきて、ほしい」
顔が火を吹いたように熱くなる。目の前のその顔がどうしても見られない。でも、決心して思いきり顔を上げると、不思議そうな顔をした名前と目が合った。
「私が行っていいの?」
首をかしげる様子が可愛いなんて、今はどうでもいいことだ。
ちゃんと最後までしゃべれ! 俺。
喉がつかえてうまく声が出ないので、とりあえず思いきりうなずいた。
「うれしい」
その笑顔がこぼれた瞬間、誘ってよかったと心から思った。
「あの、手......」
「え? あ、わりぃ!」
まだ握った手がそのままになっているのに気づいて、慌てて離す。名前は恥ずかしそうに下を向いた。
「また、来る」
「うん......」
しまった。真田先輩からのアドバイス!
重大なことに気づいたけれど時すでに遅し。次に並んでいる客がいたので、雷市は仕方なく商品を詰める台へと向かう。
その時だった。
「あのっ、私、苗字名前っていうの!」
一瞬わけがわからず、いつもみたいに焦ってしてしまう。
あ、そーか、名前だ。
「苗字名前、さん」
名前がこくんとうなずいた。ずっと知りたかった名前。
バナナを食べたわけでもないのに、お腹は今、それだけで満たされた気がする。
雷市の勝つ理由がまたひとつ、増えた。
chico