ぎゅっと口を引き結んだ琢馬くんを見て、胸が痛んだ。ごめんね、を言う。ずるいなって自分でも思うの。本当は私が怖いだけなんだ。サッカーの練習で泥だらけになったお気に入りのサッカーウェアで、黄色いボールを抱き込んだ彼は、まだまだ私の肩にも及ばない小さなひと。好きとか嫌いとか、それ以前の問題なんだって、そうやって自問自答し始めたのは、いつからだろう。本当は、そんなことを考え始めたときから、もう後戻りなんて出来なかったはずなのに。夕焼けに照らされたオレンジの公園で、二人立ちすくんで、この感情の重さを嫌でも思い知る。捨てることなど出来るはずがない、でも、蓋をするのなら、私がやらなきゃいけないんだ。私が突き放して、終わらせなきゃいけないんだ。


「おれのこと、きらい?」
「ううん…好き、だいすきだよ」


私と琢馬くんの関係は、本来なら近所のお姉さんと小学生、たったそれだけのどこにでも転がっているものだった。いったいどうしてこんなにも、この感情が華やいでしまったのか。最初は弟みたいで可愛いと感じるだけだった。その母性にも似た優しい気持ちが、いつの間にか、こんなにも大きな感情にすり替わってしまっていた。琢馬くんの碧い瞳にじっと見つめられると、何だか妙に落ち着かなくなってしまうことがある。単なる緊張なのか、何か見透かされているようで動揺してしまうのかはわからないが、もしかしたらこの言いようのない感情を、単純な私は恋だと勘違いでもしたのだろうか。周りの人より一回り背が小さい琢馬くんを、小さい身体で大きなディフェンダーたちを抜き去っていく琢馬くんを、純粋に応援していた。今だってそうだけど、試合で一瞬だけ目があって、見せつけるように鮮やかなシュートを決められては私も高揚せざるを得なかった。大会の公式戦では負けてしまったけれど、ゴールを見つめる琢馬くんの瞳はまっすぐで揺るぎなかった。「次は勝つ」と呟いた声は、私の耳から心臓に反響して今も頭から抜けない。

そんな小さなことが積み重なって、私のこの感情は生まれてしまったのかなと思う。それと同じ類の気持ちを、琢馬くんから直接伝えてきたのはついさっきが初めてだけど、私だってそれなりに恋愛経験を積んできたわけで、その気持ちに気づいたのはもっと前だった。まっすぐな気持ちを向けられて、困ったような、嬉しいような笑顔が出た。これ以上はダメだという自制と、まるで初恋のときみたいにドキドキする心臓の音と、困惑が同時に存在した。琢馬くんの、ただひたすらにボールを蹴る姿が好きだと思う。普段はむすっと怒ったようにしてるのに、ふとしたときに笑う、その表情が好きだと思う。本人は気にしてるみたいだけど、耳に柔らかく響くその声だって、私はきっと好きなんだ。琢馬くんの、コトバひとつひとつが、胸に響くの。


「おれが、子供だから」


疑問というより、自分に言い聞かせているような、そんな声色だった。泣くのを堪えているのがわかる。そう、琢馬くんは、まだまだ子供なんだ。そして私はもう、随分と大人なのだ。生きてきた時間の長さが違う、私もたくさん恋をして、別れに泣いてきた。だからこそ、彼を解放しなければならないと思う。これから彼は、きっとたくさんのことを経験するだろう。色んなものを見て聞いて、色んなことを考えて変わっていく。そして、同じようにたくさんの人と出会うのだ。出会って、関わって、恋をするんだ。琢馬くんが本当に、心から愛するひとが、誰なのかはわからない。私かもしれない。私じゃないかもしれない。だから、今は、ぐっと拳を握る彼を抱きしめることも、真っ直ぐな気持ちに答えることも出来ないんだ。変わっていく、過ぎ去っていく、彼はまだまだ幼いから。止まることを許されない小さなひとが、私を追い越してしまうまで、私は彼を拒まなければいけない。それが私のエゴだし、彼のためでもあるのだ。


「いつか、もう一回、言うから」


涙をぐしぐし拭って、少し鼻声になってしまった声で、決心したように私を見る琢馬くんは強い子だ。その強いところが、私を揺さぶる。引っ張って、振り向かせる。小さいけれど、彼だってちゃんと男の子なのだ。一時の感情なのかもしれない、いつか忘れてしまう気持ちなのかもしれない、でも、確かに譲れない思いが今ここにあるんだ。

ねえ神様。悪いことだというのはわかっています。でももしも、ほんの少しのワガママが許されるのならば、今この瞬間を、いつの日かもう一度。

そっと膝を折った私に近づいて、あどけなく触れたくちびるが、本当の彼の気持ちだと言うのなら、いつの日か。涙を浮かべる瞳に映るのが、本当に私だけだと言うのなら、いつの日か。私もこの感情を彼にぶつけてみても良いのでしょうか。その瞬間まで、彼が私を思ってくれるというのなら、私もきっと、伝えたい。だから、それまでは、今だけは、この答えを呑み込もう。夕焼けを背に手を振る彼は、小さく笑った。