友だちについた小さなうそ。聞いてしまった自分の陰口。あの日なくしたひとつのビー玉。人間が、ただ起きて食べて寝るだけの動物でない以上、幸せな出来事といっしょに、苦しいことや悲しい思い出も増えていきます。わたしを内側から苛む小さな「いが」は日に日に多くなっていき、いつもわたしを責めつづけます。わたしの存在を否定します。自己を全否定されながら人として壊れず生きていくことのできるはずもない私たちには、いがを一つずつ抜いてくれる、とかしてくれる存在が必要です。誰しもが本能的に必要としているそれは人かもしれない、あるいは物、もしくは実体を伴わない何かかもしれません。不器用さ、または自分で自分を肯定できる器用さのどちらかを持っていれば、ほんの少しの支えですむそれも、不器用ではない、だけど器用にもなりきれない、そんな子にとっては頼ってやまないものとなるのでしょう。




親戚に七、八個ほど歳の離れた女性がいる。父方の遠い親戚だという彼女は盆や正月に身内があつまると、いつも彼女の母親の隣に静かに正座して微笑んでいた。当時うちの親族にはぼくたち三つ子と歳の近い子どもは一人もいなかった。世間話に華を咲かせる大人たちの輪の外、幼いゆえに勝手に外に出ることは許されず、何もない、埃をたてても怒られる木造の建家でぼく達三人はいつも暇を持て余していた。たかが寒暑で外に一切出たがらない大人はものぐさだと、虎太クンはよく憤っていたものだ。
それに気付いて相手をしてくれたのはいつも彼女だった。今思えば同じように歳の近い子どものいなかった彼女も退屈していたのかもしれない。
可愛がられていたと思う。彼女は幼かったぼく達のつたない言葉を一つ一つうなずきながら聞いてくれたし、頭を撫でる手つきは優しかった。会うのは年に数度だったけど、ぼく達は彼女に親しみのようなものを感じていた。とりわけ懐いていたのは、ぼくだと思う。
彼女の隣は居心地がよかった。




地元の旧家らしいわたしの祖母の家は昔ながらの日本家屋で、わたし達親戚一同は、年に何度かそこで顔を合わせるのがならわしでした。
どこのどなただかよく分からない、親戚だというおじさまおばさま方が集まって、賑やかな声を響かせる、その空間がわたしは少し苦手でした。大人の話が子どもに与える妙な疎外感とは、いったいどこからくるものなのでしょう。疎外される側だった小さなわたしには分かるはずもありませんでしたが、いくらか歳をかさねた今なら少しわかります。子どもには分かりかねる小難しい言葉の数々と、そして同じ社会に身を置いた者どうしの共通土壌といったところでしょうか。
時おりどっとはぜる大きな笑いに、子どもはたいそう不安にさせられるものです。それを心地悪いと思ったことが誰にだってあるはずなのに、歳をかさねれば子どものころの気持ちなんてすっかり分からなくなってしまうからいけません。
しかし、そうしてわたしが一人のけ者にされ、さみしさを感じていたのも数年のことでした。わたしが小学校にあがってしばらくしたころでしょうか、親戚に、三つ子の男の子が生まれたのです。
彼らはわたしのおじの、降矢さんの子どもでした。名前をそれぞれ虎太くん竜持くん凰壮くんと言ったその子達がどうにもかわいくて、その首が座るようになると、わたしはいそいそと彼らのことを構うようになりました。小さい子どもは好きでしたからやがてわたしが大人の話を理解できるようになっても、歳の離れた彼らの遊びに付き合うこともしばしばでした。彼らは賢い子供でした。それでいて無邪気で、捻れているところはあれど、根はまっすぐな、いい子たちでした。わたしは彼らがすきでした。彼らもわたしを好いてくれたように思います。三つ子の中でも、とくにわたしを懐いてくれたのが真ん中の竜持くんでした。いつもわたしの後を追っては、何をするでなく隣にいるのです。幼いころから頭のいい子でしたから邪魔になることもなく、わたしも甘んじて受け入れていました。自分を好いてくれる子どもの、なんと可愛らしいことでしょう。あのねあのねとなんでも話してくれる竜持くんが、わたしは愛しくて仕方ありませんでした。




ぼく達が小学生になって一、二年が経ち、世の中のあらましが分かるようにでもなったころだったか。父方の祖母がなくなった。父方の祖母とはすなわちぼく達親戚が集まっていたあの家の持ち主であり、ここ数年はその身を患っていたのだった。夫を先に亡くし一人で生活していた人だったため、例の古い家は無人となった。田舎とはいえ、旧家だけあり広大な敷地だ。すぐに手放してしまった。ぼくらの親族が一堂に会することは祖母の葬式を最後になくなった。
もともと好きで行っていた集まりではない。しかし、彼女に会えなくなることは少しだけ寂しかった。彼女はその時、すでに地元の進学校へ通う高校生だった。変わらず聡明で、穏やかな人だった。




わたしの地元は雪の深い土地です。夏の短く、風の冷たい地方です。特別いなかというわけではありませんが、あたりには田んぼが広がっていますし、栄えている部分もごくせまいようなところですから、やはり世間の方からすれば田舎に分類されるのかもしれません。
高校へはバスと電車を乗り継いで通っていたわたしですが、わたしにはかねてより、都内にあるとある学校で学びたいと考えていました。幸い、成績はなんとか間に合いましたし、両親の反対等なく、無事、希望する学校へ合格することができました。
そこで一つ問題になったのが、通学の方法でした。わたしの実家から都内にあるそこへ通うには、いささか無理がありました。仮にここから通学するとしたら、いったいいくつの県を越えればいいのやら。上京するしかない。そう結論が出るのに、時間はかかりませんでした。




五年生の春といえばプレデターに新しく来たコーチとぼく達兄弟の反りが合わず、特にぼくのオウンゴールについてとやかく言われている頃だった。数年ぶりに彼女に会ったのもまたこの頃だった。たまに思い出してはなんとなく、もう会うこともないだろうと考えていた彼女が近所へ引っ越してきたというのだから、それは驚いた。聞くに彼女はろくな食生活をしていないらしく、母親に彼女へ惣菜を届けに行くよう言われたのだ。正直なところ行きたくなかった。ぼくは、彼女に会いたくなかった。
世に言う大人というものが苦手だ。ここ数年でより強くそう思うようになっていた。えてしてぼく達と大人は意見が合わないのだ。そのことに気付いてからは、不用意に大人と接触することは避けるようにしていた。
たかが三、四年と言えど会わなかった期間はその数倍しか生きていない子どもには長いもので、ぼくも、そしておそらく彼女も変わってしまった。薄い血の繋がりはあるかもしれないがただの一人の大人と子どもだ。浅い関係ですませたい、と思いながら古びた金製の階段をのぼった。
たしか、まだ肌寒い日の夕方だったと思う。我が家から実に歩いて数分のそのアパートの一室の呼び鈴を鳴らすと、出てきたのは記憶の中よりもだいぶ縮んだ彼女だった。「……もしかして、竜持くん?」「……ええ」。久しぶり、大きくなったね。果敢なげに笑った彼女の笑顔はやっぱり落ち着いた大人のそれで、なぜか少しだけ安心した。
素直に大人に好意を持ったのはいつ以来だろうとふと思った。
一度きりだと思ったそれは、一週間に一度ほどの頻度で繰り返された。つかいに出されるのはいつもぼくで、それはおそらく最初に引き受けてしまったことや、幼い頃にたいそう懐いていたのを母が覚えているのが原因なのだった。





大きくなったなあと思います。竜持くんのことです。首をそらせてわたしのことを見上げていた小さなおかっぱ頭も今ではわたしと同じか、下手をすればもっと高いところにあります。昔から口の達者な子でしたが、その弁舌にはさらにみがきがかかったようです。もっとも、ときたま辛辣な言葉をあびせられると、傷つくよりも先にほほえましくなってしまいます。竜持くんは、へだたりのある女性にはそんなことを言ったりしませんから。
わたしがここへ越してきた春、竜持くんと再会しました。背たけと声はずいぶんな成長をとげていましたが、まっすぐにそろえて切られた髪や利発そうなととのった顔は昔のままでした。
竜持くんはおかずを詰めたタッパーを持ってきて、わたしが洗っておいた空の容器を持って帰ってくれます。たまに凰壮くんや虎太くんが来てくれることもありましたが、たいていの場合は竜持くんでした。最初の頃は玄関口で世間話を一言二言かわす程度でしたが、しだいに、竜持くんはたまに自分のことも、うっかりこぼすみたいに話してくれるようになりました。小学校の話。サッカーの練習の話。サッカーチームのメンバーの話。それを聞いていると、竜持くんが昔と少しも変わらない、責任感の強い子だと分かります。竜持くんはまじめな子なのです。それゆえに捨てられないいがが、これまでどれほど多かったことでしょう。
竜持くんの内包するいがのひとつひとつを見るたびに、どうかこの柔い子の手を取ってあげたいと思います。
器用に見えて要領の悪い、小さな蟠りにも拘泥して先にすすめない竜持くん。人を頼ることを知らない竜持くん。自分のいがを、自分で抱え込むことしかできない竜持くん。
虎太くんのように、打ち込むもの……数学がイコール自身だと割りきれるほどの素直さか、自分で自己を肯定してしまえるための、凰壮くんの小器用さのどちらかが、この子に備わっていればどんなによかったことでしょうか。


わたしはそこで、膝の高さほどの水の中に立っていました。目の前にはどこまでも続く水面、薄青の空に仄白い月、そこは朝月夜の海のようでした。水に浸っているふくらはぎが熱をうばわれ、軽いしびれを覚えます。まぎらわすため、足を動かそうとしてはっとしました。今わたしが立っているのは砂の上でもなく岩の上でもなく、ふわふわと実体のない綿のようなものの上だったのです。気付いた瞬間、足元が沈みだしました。必死でもがくも腰、おなか、胸とみるみるうちに浸水し、あっという間に頭まで浸かってしまいました。水面に手を伸ばすもとどきません。そのうち、息が苦しくないことに気付きました。目も開けられます。声を出そうとすると、すべてあぶくになって消えました。体がゆっくり落ちていくにつれて徐々に深くなってきた青が群青の色になったころ、わたしの背が底につきました。柔らかいそれに身を預けてやってくるまどろみにまぶたを閉じようとした時、どこかから声が聞こえてきました。『……さん』。どうやらその声はわたしを呼んでいるらしいのでした。
『さん、……えさん』。声にはばまれながらも、まぶたが少しずつ下りてきます。そして、とうとう視界が真っ暗になろうとした時、わたしの手を、誰かがものすごい勢いで上へ引きました。



「……さん、姉さん?」
「――っ、竜持くん……」


おでこがジンジン痛みました。どうやらわたしはいつの間にか、自宅のキッチンのテーブルで眠ってしまっていたようでした。


「姉さん。また窓、開けっぱなしで寝たんですか。冬の盛りだというのに、信じられませんね。食べ物も相変わらずインスタント食品ばかりみたいですね。インスタント食品は塩分もリン酸も多く含まれていますから、女性には特におすすめしませんよ。貴女が将来、骨粗鬆症になりたいと言うのなら別ですが」


わたしが体をおこすと、竜持くんは腕を組んでやれやれ、と言ったようすでお説教よろしく流れるようにしゃべり始めました。目の前にあったはずのお湯をそそいだカップラーメンはどこかへ消え去り、かわりにおいしそうなオムライスが置いてあります。ここのところ料理に凝っているのだと竜持くんは言っていました。竜持くんがどうぞとすすめてくれたので、わたしは寝ている間に竜持くんが肩にかけてくれたらしい毛布を羽織りなおし、いただきます、と言って置いてあったスプーンを手に取ります。


「声をかけてもちっとも動かないんで、少し不安になりましたよ」


竜持くんは二人分の水を持ってきて、わたしの目の前にすわりました。


「ごめんね、心配かけて」


まったくですよ、とあきれたように笑う竜持くんに「いつもありがとうね」と伝えて、スプーンを口にはこびます。ふわふわの卵がやさしい味です。この子にできないことはあるのでしょうか。「嫁の貰い手がなさそうですねえ」とため息まじりにこぼされた竜持くんの言葉に、反論もできません。
進学をきっかけに、一人暮らしを始めました。場所は東京二十三区の片隅、桃山町。小さくて古いけど、不便はないアパートです。学校への交通の便が特別いいわけではないのですが、昔よくしていただいた降矢さんが近くに住まわれているということで、ここにしました。右も左もわからない都会の真ん中で一人暮らしだなんて、不安もいいところですから。降矢の奥さんにも話は通っています。
しかし、学校生活は思っていたよりずっといそがしく、勉強やレポートで精一杯、とても家事まで手がまわりません。うちに下宿してもいいと申し出てくださった降矢さんのご厚意に素直に甘えておけばよかった、と後悔したことは幾度と知れず、ですが、断ってしまったものは仕方ありません。これも自分で決めたことです。日々なんとか人としての命をつないでいます。そんなわたしのひどい生活ぶりをどこからか聞き付けた降矢さんの奥さんは、よくお総菜をわけてくださいます。届けに来てくれるのはほとんどいつも竜持くんです。最近ではおばさまからの差し入れが無くても遊びに来てくれることが増えました。そしてそのたびにあれやこれやと世話を焼いてくれて、これではどちらが年上か分かりません。まだほんの小さい頃から様子を見てきたあの小さな男の子がこんなに大きくなっただなんて、なんだおかしな気がします。
ごちそうさまを言い食器を洗って居間へ行くと、丸めた体をソファに沈めた竜持くんがいました。視線の先にはにぎやかなテレビの画面がありますが、どこか心ここにあらずといったふうです。わたしは一声かけて、その隣に腰をおろしました。
目の前で色とりどりの光をこぼす小型のテレビも、この少し古びた二人がけのソファも、一人暮らしをすると言ったら知人がくれたものです。新聞をとっていないので、手軽な情報源としてテレビは重宝しているのですが、布張りの大きなソファはただでさえ手狭な部屋のスペースを大きく占めています。多忙な生活で、ソファで休むくらいならベッドで寝てしまいますし、どちらかというと邪魔でさえあるのですが、それでも捨てたり売ってしまったりできないのは、知人の方への義理と、それからこの竜持くんが理由だったりします。


「竜持くん、どうかしたの?」


竜持くんがゆるゆると振り向きました。
この、一見世に憚ってやまないふうの男の子が、何かその心身に耐えうることのあったときわたしのもとへ来ることくらい、わたしはとっくに気付いています。単にわたしを気にかけて来てくれるときもあるのですが、思い詰めた竜持くんの表情は、今日はそれだけでないことを物語っています。竜持くんは思いのほか、隠し事をするのが下手です。


「姉さん」


竜持くんがわたしへよりかかります。竜持くんの体温が、じんわりとわたしの胸までつたわってきました。とても小学生とは思えない、威圧感さえ与える背の竜持くんが、こうしているとうんと小さな男の子に見えます。いえ、事実、彼はまだまだ小さいのです。
三つ子の悪魔と呼ばれている。竜持くんは言いました。きっと、彼ら三つ子の、大人顔負けの知能や身体能力をさしてのものでしょう。彼らの名前はここ一帯では有名で、話を聞くに、この桃山町において降矢三兄弟と聞けば大人は身構え、子どもなら誰もが一目おく、そんな存在のようです。そして竜持くんは今でも、他人とコンタクトをとろうとしない三つ子の対外役なのでしょう。昔から、親戚の大人に口をきくのはこの子の役目でした。あいかわらず、人を食ったような話し方をするにちがいません。悪魔とのレッテルをはられた竜持くんは、いつだって二十四時間、言動の端々でですら自分の不完全で弱いところを、だれにも見せることができないのです。竜持くんだってまわりの小学生と変わらない、この世に生をうけてまだ十二年の子どもなのに。
竜持くんはまるで堰を封じたダムのようです。
いがを他人にさらけるわけにいかず、自分で消してしまうこともかなわず、それは彼の内側にたまっていくばかりです。
そのいがを、わたしが消してあげたいと思うのは傲慢なのでしょうか。
不意に、隣で竜持くんが小さく息を吸ったのを感じました。


「……姉さん」
「なあに?」
「プレッシャーって、面倒ですよね。過度に期待を持たれることとか」
「竜持くんはみんなに期待されることが多いからね」
「別に、応えられないわけじゃないんです。むしろ応えられるから問題なわけでして」
「うん」
「姉さんも優秀な方ですから、きっと分かってもらえると思うんですけど」


わたしが優秀かどうかは置いておいて、竜持くんの言葉をききながら、わたしはなんとなく理解しました。
きっと竜持くんはこの先のこと、具体的に言うなら、数学の道を選ぶのか、それともサッカーをとるのかで悩んでいるのです。いえ、そう言ってしまっては語弊があります。おそらく彼の気持ちはずっと昔から、数学の方を向いているはずです。しかし、小学生ながらにして世界トップレベルの選手たちをも破ったサッカーチームを牽引したとあっては、周囲の期待が竜持くんへ集まるのも当然です。将来は当然サッカープレイヤーとなり、さぞ華麗なゲームを見せてくれるのだと。
人の意見にどうこうされるような竜持くんではありませんが、やはり思うところはあるようです。大きな期待は時として、悪意なく人を傷つけます。
それでも「どうしてサッカーをやめたの、もったいない」などときかれれば、この内外面のどちらをとっても子どもには見えない小学生は、あの真意の見えない笑顔でさらりと躱してしまうのでしょう。
本心を笑顔の裏に隠してしまうのは竜持くんの悪いクセです。相手だけでなく、自分のことまでも誤魔化してしまうのですから。
今だって竜持くんは、わたしの隣で微妙な笑みを浮かべています。赤い瞳は光と翳りのどちらを見せることもなく、口もとは優雅に上向きの弧を描いています。この表情が、竜持くんのデフォルトなのです。
ただ、眉はよく見れば少しだけ、ハの字を描くように歪められているでしょうか。わたしはたまりかねて口を開きました。


「竜持くんの、好きなことをすればいいんだよ」
「……本当ですか?」
「竜持くんのことをいちばん知っているのは竜持くんだもの。竜持くんの決めたことが正しいんじゃないかな」


しどろもどろで、要領を得ないせりふだったかもしれません。だけど、竜持くんはにっこりほほえんでくれました。さっきよりいくらか、あどけない笑みだったように思います。
たったこれだけの、どこにでもありふれているような言葉を竜持くんは必要としていました。自分の中でとっくにこたえは出ているはずなのに、私に最後のひと押しを求めてくる竜持くん。彼らしくないものも感じますが、同時に、子どもどうしでいると責任を感じることが多い竜持くんにも、人の言葉を頼っていい、子どもの時間があっていいんじゃないかとも思うのです。ふいに、肩に温かい重みを感じました。視線だけ横にやれば、竜持くんの頭がわたしの肩に乗っているのでした。


「竜持くん、髪の毛くすぐったいよ」
「ああ、すみません」


すみません、と言いながら、竜持くんが頭をもたげる気配はありません。わたしはあきらめて、あいている方の手で竜持くんの髪をさらさらとすきます。小さな男の子らしく、細くて芯のないやわらかな髪です。


「そういえば虎太ク……虎太が、今週の日曜日にサッカーの試合があるって。姉さんにも見に来てほしそうでしたよ」
「わたしに? わたし、サッカーのことぜんぜん分からないよ」
「だいたいのルールくらい分かるでしょ」
「まあ、ボールを蹴ってゴールにいれるくらいは……」
「それで十分ですよ」
「そうかなあ、なんだか部外者ってかんじで悪くって。サッカーのこと、分かればなあ。竜持くんたちがあんなに一生懸命やってたんだもん。戦術とか技とかそういうのが分かったらいいんだけど、スポーツとか、昔からどうにも苦手で……」
「問題ないですよ。むしろ、そのくらいの方がいいです」


竜持くんは、なんだか自嘲するような笑みを浮かべました。その言葉の真意はみえません。
竜持くんはわたしに、サッカーのことを話してくれたことがあまりありません。彼がまだチームに所属していたころも、試合があったということは何回か聞きましたが、彼らのサッカーをプレイしている様子を見たことは一度もないです。思えば、こんなふうに誘ってくれるのは初めてのことでした。


「……うん。じゃあ行ってみようかな。虎太くんの試合、見たいな」
「じゃあ、そう伝えておきますね。虎太も喜びます」


飲み込んだ言葉、竜持くんがサッカーしてるところも見てみたい……とは、これまでも幾度か思ったことです。しかし彼としばらく付き合ってきて、竜持くんがわたしにサッカーに関する部分へ関わってほしくないと思っているのには気付いています。それがどうしてなのかを竜持くんの少ない言葉から察するのは難しいですが、とりあえず、無理を口にするのは憚られました。踏み込んではいけないラインというのはあるものです。


「……姉さん? 考え事ですか?」
「ううん、なんでもないよ。ちょっと、ぼうっとしちゃって」


「そうですか。お疲れなんです?」。ごめんね竜持くん、ちょっとだけうそついて。華奢な体躯のすべてをあずけてくる竜持くんに、心の中で謝りました。そしてふいに昔の彼の姿を思い出し、なんだかおかしくなるのと同時、こみ上げてくるようないとおしさを覚えました。


「……どうして笑うんです?」
「ふふ、竜持くん、変わったなあって。ここ一年ちょっとで」
「そうですか?」
「うん、とっても」
「……自分じゃ分からないものですね」


竜持くんはすねた声音で言って、ごろんとわたしのひざに転がりました。
おなかを上にして寝るネコを思わせるその姿は、悪魔だなんて言葉とはとても結びつきません。「だって、ひさしぶりに会ったころの竜持くん、しばらくの間もっとドスのきいた声でしゃべってたじゃない」
「ただトーンを落としているだけですよ」
「自覚あったの? やだなあ。あれ怖かったんだよ。竜持くん、敵意まるだしなんだもん、しゃべり方とか」
「……クセなんですよ。敵か味方かも分からない人に、不用意に心を預けたくないじゃないですか」
「……竜持くん?」


……ちょっとしゃべりすぎましたね。竜持くんはそう言って、起き上がり、わたしからわずかに顔をそらしました。ここからでは表情をうかがうことはできません。
あのころの竜持くんを思い出すと、今でも怖くて、そして悲しくなります。殷懃な敬語に包まれているはずの竜持くんの言葉ひとつひとつに、冷たいとげが生えているのです。高圧的な声音で感情を抑えた話し方は、間にぶあつい壁をはさまれたような錯覚さえ与え、わたしと彼はちがう側にいるのだといやでも意識させます。
今では、そんなそぶりはつゆほども見せません。最初は毎回、一言二言の会話。それがだんだん長くなって、お話する場所が玄関口からわたしの部屋の中へと移る頃には竜持くんの顔からあの寸分の隙も見せないような表情は消え、今の落ち着いた表情を見せてくれるようになりました。
心を、ゆるしてくれたのかな。そう思うのはうぬぼれでしょうか。
やにわに、竜持く<body bgcol