「こんな時間にお帰りですか」

 背後からかけられた声は口調にこそ聞き覚えがあったものの、それにしてはいつもより少しばかり声のトーンが低い。こんな悪質な悪戯を仕掛けてくる人物に心当たりがあるとすれば、思い当たる人物はひとりしかいなかった。
 夕暮れ時、橙色に染まった空をガアガアと鳴きながら巣に帰ってゆくカラスの鳴き声に一種の不気味さを覚えながら帰宅途中の道のりを早足で通り過ぎようとしていると、不意に背後から声をかけられた。竜持くんと名前を言いかけて踏み止まり「‥‥‥じゃないね。その声は凰壮くん?」と言って振り返ると、案の定というか予想通りというか今しがた仕向けられた悪質な悪戯の犯人であろう凰壮くんが「つまらねー」と言いたげに重いため息を吐いている姿が目に入ってきた。
 恐らくサッカーの練習の帰りなのだろう、凰壮くんは見るからに重そうなエナメルバッグを肩からぶら下げており、頭を掻いていない方の手でグリップを握って自転車を停めていた。小6の平均身長よりも幾分高い身長のせいか、それともしゅっと引き締まった端正な顔つきのせいなのか、ただでさえ色々と年相応に見えないというのにましてやお召し物が上下長袖のジャージとなれば実年齢と外見の乖離は決定的だった。部活帰りの高校生と偽ったとしても騙された相手は騙されたことにも気づかずに何の疑いもようもなく簡単に信用してしまうことだろう。しかしまあ、ジャージからエナメルバックから自転車から‥‥‥上から下までなにからなにまで赤尽くしである。虎太くんは黄色、竜持くんは緑色、凰壮くんは赤色‥‥‥そうやってそれぞれ色を決めて着るものから手に持つものまでなんでもかんでも色で識別しているとは聞いていたが、ものには限度ってものがあるんじゃないだろうか。

「あーあ、つまんねーやつ」

 ぼうっと突っ立っていると会話の繋ぎを失った凰壮くんがその場凌ぎと言わんばかりにお得意の悪態を吐いて見せた。気遣いから出た冗談なのか、本心なのか、計りかねる物言いに苦笑いが込み上げる。

「つまんねーやつでごめんなさいね」
「もうちょいマシな答え方ってもんがあるだろ?だから高校生になったっつーのに彼氏ができねーんだよ。つまんねーやつ」

 二度も言うか。わざわざ声に出して言ってくれなくても君の分かりやすい表情のお陰でとっくになにが言いたいのかはしっかり伝わってるからね。文字通りつまらないやつですみませんね!

「はいはいごめんなさいね。今日は凰壮くんひとり?」
「いつも3人揃ってぞろぞろ団体行動してるわけじゃねーよ」
「そうなんだ」

 でも納得かもしれない。思ったままを口に出して言ってみれば、凰壮くんは「ハア?」と飽きれ気味に首を傾げて見せたけれど、

「だって、凰壮くんって嫌いそう。団体行動とかそういうの」
「ふうん」

 降矢さんちの三つ子くんたちは、上から虎太くん、竜持くん、それから凰壮くんの3人兄弟で、この辺り一面では「三つ子の悪魔」として知られているちょっとした有名人だ。もちろん良い意味ではなく悪い意味で。先天的な才能に恵まれた三つ子たちはむかしから何をやらせても完璧で、出来が良すぎる故に悪知恵が働き、その才能を存分に発揮し常々大人を困らせてはその裏でそんなワアワア狼狽える大人たちを見てほくそ笑んでいた。そんな三つ子たちは今、教育を指導する立場にある学校の先生でさえも手に負えないという超がつくほどの問題児として扱われているらしい。
 しかしその中でも凰壮くんは口や態度にこそ難点はあるものの言っていることは常識的ではあるし、上ふたりの仲裁役と言うのだろうか、見方によっては事を荒立てず穏便に済まそうと影で手繰っているかのようにも伺える。その姿は恐らく上記の難点を帳消しにできるほどの評価に値するだろう。
 要するに、凰壮くんは3人一緒でいるときよりも1人でいるときの方が総合的に見て評価が高いということになる。確かに同じような能力を持った自分の分身のような存在が他に2人いるとなれば他人など必要ないだろうし、それだけで事足りてしまうだろう。ましてやその3人共が天才児となればなおさらだ。でも、こう言ったらお節介だと言われてしまいそうだけれどそれって凰壮くんにとってあまりよくないことなんだと思う。凰壮くんに限らずほかのふたりにも言えることなんだけれど。

「まあ、竜持はそうでもねーけどな」
「そうだね。竜持くんはさみしがり屋だから」

 すると凰壮くんはつり目気味の目を丸くして「ホントよく見てんだな」とめずらしく感心したように呟いた。また、竜持が懐くのにも納得がいくとも。凰壮くんが他人のことを素直に褒めるなんて、めずらしい。

「そんなことないって」
「髪一緒にしても俺らのこと見分けられるんじゃね?」
「それはちょっと自信ないかなあ。本当にそっくりだから」
「性格は全然違うけどな」
「3人とも個性的だよね(いい意味でも悪い意味でも)」
「今失礼なこと考えたろ」
「まさか」
「3人の中で一番諦めが悪いのってだれだと思う?」
「虎太くん?」
「竜持じゃないことは確かだぜ」
「竜持くん諦め早いの?」
「あいつってさ、理論的っつーかなんでもかんでも計算するだろ?」
「うん」
「だから導き出した答えが不可能だって分かっちまったら」
「僕には無理なんだって挑戦する前から諦めちゃうわけね」
「そゆこと」
「へえ、竜持くんが一番諦めが早いんだ」
「ちなみに中でもひと際警戒心の強いのも竜持なんだぜ?」
「あー‥‥確かに。初めて挨拶しに行ったときすごく睨まれた覚えが‥‥」
「その竜持が今となっちゃ俺らの中で一番お前に懐いてんだから吃驚だよな」
「いやだから懐かれてないって」
「だってよ、あいつの口からお前の話題が出ない日なんてないし」
「いいカモだと思われてるんじゃないかな。ほら、わたし数学苦手だから」
「あの竜持がお前にならその数学を教えてやってもいいって言ってたんだけど。これ、どういう意味か分かるよな?」
「さあ?さっぱり。その前に聞くけど小学生に教わる以上に屈辱的なことがありますかね凰壮くん」
「お前がバカなのが悪いんだろうよ」
「あのね、みんながみんな凰壮くんみたいに一度見たものは絶対忘れないってわけじゃないからね」
「だれもそうとは言ってねーだろ」
「そうだっけ?」
「そういや竜持のやつ、朝お前が駅に向かう時間見計らってランニングに行くんだって知ってたか?」
「ランニングは認知症を防ぐ効果があるらしいから続けた方がいいよ。一番良いのはダンスらしいけど」
「発想がババアだな。つか無視かよ」
「もう高校生ですから。うん無視だよ」

 凰壮くんと話しているとまるで漫才コンビがショートコントをやってるようだと虎太くんに揶揄された覚えがあるけれど、なるほどこのノリがいけないのか。つぎからは凰壮くんのノリに流されないように気をつけなくてはとささやかな自己反省会をしているところへ「もしかしてそのこと気にしてんの?」と凰壮くんから疑問符が投げかけられた。
 高校生なんて小学生から見たらオバサンも同然でしょ。なんてこれはわたしの勝手な見解なわけだけれど年齢的に見ても12歳と18歳、6歳の歳月はまだまだ子ども料金で公共の施設を謳歌したい年頃のわたしからしたら非常に長く感じられる。だって単純に考えたら凰壮くんたちが生まれた頃にはもう保育園に放り込まれて真っ昼間から睡眠に勤しんでいたんだよ、わたし。
 対する凰壮くんと言えば「俺たちよりも6年も生きてるくせにバカなのかよ」と出会すたびにわたしを貶すという恒例の挨拶を忘れないでいた。
そんなもんかなあ。大人になってしまえば6歳という年月など気にもならないのかもしれない。でもまだわたしは大人じゃないから。

「ならこの間のやつ、お前に告ったやつの、なんであいつの誘いに乗らなかった?」
「ちょっと待てどうして知ってる」
「俺たちの情報網を舐めんなよ」
「言うほど友だちなんていないくせにね」
「お前に言われたかねえよ」
「へへん、先週の土日友だちの家でお泊まり会してきたんだなこれが」
「おい、受験生」
「いや、形としては勉強会だし」
「そんでけっきょく何もしなかったって口だろ」
「うっ」
「だからお前はバカなんだよ」
「ううっ」
「つか、んなことどうだっていんだよ。話し逸らすな。なんであいつの誘いに乗らなかったって訊いてんだよ」
「いや、それは、ほら、わたし、受験生、だし‥‥‥」

 歯切れの悪い台詞に凰壮くんは眉を潜める。
 受験生だからなんだ、わかんないって何だよ、お前があいつを受け入れてりゃ竜持は諦めることができたかもしれないのに。お前が、お前が、はっきりしていれば。
 凰壮くんの威圧感から伝わってくる木霊が身体中に纏まりついて上手く息を吸うことができない。優柔不断な自分が悪いんだって分かってる。それでも手放せないでいるのは、

「そうやって、また嘘を吐くんだな」

 そうだね。すっかり大人になった気でいるわたしは都合のいいときだけ大人ぶったり子どものフリをしたりを繰り返して今日もきれいな嘘を平気で吐き、よって自分で自分の首を締めることとなる。





「こんな時間にお帰りですか」
「‥‥‥デジャヴ」
「なんのことです?」

 いいえ、なんにも。素っ気なく振り返って一瞥を与えたのち、前を向いて歩き出す。急がなくては、夕闇はすぐそこまで迫ってきている。
 この間の凰壮くんとの一件があってからというもの、なんとなくわたしは竜持くんとこうして一対一で話すことを避けていたような気がする。いや、気がするんじゃなくて避けていたんだ、意識的に。朝の電車を一本早いやつに乗るようにしていたことも、帰り道をなるべく人通りの少ない道を選んできたことも、あれもこれも今思えばぜんぶ竜持くんを避けてのことだった。
 当然、理知的で勘の鋭い竜持くんのことだ。わたしが避けていることなんてすでにお見通しなのだろう。それを裏づけるようにわたしの歩幅に合わせて横を並んで歩く竜持くんはその紳士的な振る舞いとは裏腹に大変ご立腹のようすで、横からひしひしと伝わってくる怒りの矛先はまず間違いなくわたしに向けられたものであり、突きつけられた状態で膠着したままのわたしはいつその牙がむかれるのかと後難を恐れて黙り込むばかり。その矛から身を守る盾を持ち合わせていないわたしにとしてはこんな勝ち目のないワンサイドゲーム、なるべくなら真っ向から攻撃を受けることなくやり過ごしたいものだ。ダメージは最小限に留める。そう思いながら時間稼ぎのつもりで気づかないフリを装って歩を進めてゆく。 しかしそんな努力も虚しく、唐突に刃を突きつけられたわたしは即座に白旗を掲げることとなった。

「凰壮くんになにか言われましたか?」

 これまた素っ気なく「別に、なにも」と答えれば「あなたは嘘を吐くのが下手ですね」と笑われてしまった。クスクスと小学生らしくない笑みを刻む竜持くんに成す術もないわたし。おかしいな、竜持くんよりも6年も多く生きているはずなのになあ、この勝負する前からの敗北感は一体なんだろう。

「凰壮くんに何を言われたかは知りませんが、何も言わずにそういった態度を取られるのは少々癪に障ります」

 こうして竜持くんと話していると時々不思議な感覚に捉われることがある。それは錯覚や目眩といった類のものに似ている。
 竜持くんはわたしよりも6歳も年下だというのにその歳の差を感じさせない。それは竜持くんの丁寧な口調によるものなのか、大人っぽい雰囲気によるものなのか、それとも単にわたしが幼いだけなのか。原因はどうあれ、ついつい竜持くんが小学生であるという事実を忘れてしまい勝ちになるのはわたしがそうであってほしくないという願望が心のどこかに潜んでいるからなのだろう。

「‥‥‥どうして、僕を避けるんですか」

 僕が何かあなたの気に障るようなことをしたからですか、それとも凰壮くんになにかを言われたからですか、ほかになにか僕を避けなければならないような理由があるからですか。答えて下さい。捲し立てるようにそう言ったあと、竜持くんはわたしの腕を掴んだ。催促されるように腕を掴んでいる手に力が込められる。それでもわたしは口を噤んだまま。

「どうしてなにも答えてくれないんですか‥‥‥!」

 眉間に皺を寄せて懇願するように。果たしてわたしの知っている竜持くんという知り合いの小学6年生の男の子はこんなにも感情的になるような子だっただろうか?寧ろどちらかと言えば感情的になった子、例えばすぐカッとなるような虎太くんのような子を横から「まあまあ」と言って抑える役を担うことが多かったかとわたしの中では記憶されている。なら、目の前にいるこの子は一体?
 自分の置かれている状況を客観的に捉え今考えるべきことではないことを考えているということに自分自身が一番驚かされた。
 駄々をこねる子ども。正しく今の竜持くんを形容するのに相応しい例えはそれだった。こちらの事情など一切構わず、花には目もくれず、ただ一心に目の前にある実だけを欲求する。それは一方ではとても子どもらしく、もう一方では大人のエゴを含んだ奢り高い行為だった。
 答えないんじゃない、答えられないんだ。その解答を弾き出した結果、わたしたちのこれから先に起こる未来にどのような影響を及ぼすのだろうかとばかり気を揉んで立ち止まっている、それだけ。しかしこれもきっと先に述べた竜持くんのエゴと大して違わないということにわたしは気がついている。俯いて絞り出すように「もう、いいです」弱々しく吐き出された言葉は普段の竜持くんからは想像もつかないほどに萎え切ったものだった。切り揃えられた長い前髪のせいで表情を伺うことができない。

「すみません。忘れて下さい」
「えっ」
「僕、用事を思い出したので失礼しますね」

 竜持くんのその言葉を聞いてふつふつと何やら熱いものが咽の奥から気管を通っておなかの奥にぽとんと落ちていった。きっとあるべき場所へと返って行ったのだろう。
 竜持くんはこんなときでさえも礼儀だけは弁えているものだからなおさらたちが悪い。だけどつくり笑いはまだまだ練習不足のようすで、そういうところが竜持くんらしいなってちょっと思った。
 小さくなってゆく背中を見ながら竜持くんの言葉を頭の中で反芻する。どうしてなにも答えてくれないんですか。そんなの決まっている。どう答えたらいいのかわからないからだ。それでもせめて返事だけでも、通り一遍な挨拶だけでも答えておけばよかったのかもしれない。幾度となく考えてもその分だけ雁字搦めに絡まってゆくようで、最終的にはこんがらがってしまった。わたしは竜持くんになんて答えればよかったのだろう?
 走り出した背中を追いかけることもできないまま、名前を呼ぶこともままならないまま、わたしは、




 
無駄なことだと一概に言われると本当になにもかもが無駄に思えてくるけれど人生に無駄なことなんてなにもないという定説を信じているのでここは敢えてなにも聞かなかったことにしておこうと思ったそんな夕暮れの日。
 用事を思い出したのでと取ってつけたような嘘を吐いて走り出した竜持くんのあとを追いかけること数十分。あのようすだとまっすぐ家には帰らないだろうなと踏んだわたしはとりあえず竜持くんの行きそうな場所を洗いざらい調べ上げて片っ端から訪れていた。
 探しても探しても竜持くんはなかなか見つからなかった。夕焼けが山の奥に身を隠しても、疎らな星たちが光を放ち始めても、竜持くんの足跡は途絶えたままだった。きっと普段のわたしなら早々に諦めていたと思う。明日になればまた会えるだろうし、なんて自己解決して。だけどわたしの中で懸命がムキに差し替わるのにそう時間はかからなかったのだ。
 竜持くんに会って話したいと思った。まだあのとき答えられなかった理由もなにを答えればよかったのかもわからないままだったのに、ただ単純に竜持くんに会いたかった。衝動に駆られて行動に移すなんて虎太くんのことを言えないなと頭の片隅で自嘲した。
 諦めの悪さが幸いしたのか竜持くんを見つけ出すことができた。竜持くんは少し小さめの公園のベンチで休んでいた。確かここは昼間になると近所の子どもたちがボールやフリスビーを持参して駆けまわっている姿がよく見られる公園だ。まさか竜持くんがこんなところにいるとは思わなくて見つけたときは偶然にしたってついに見つけて出してやったという達成感に胸を躍らせた。もしかしたら諦めの悪さなら凰壮くんと競えるかもしれない。

「‥‥‥なんですか」
「なんですかはないでしょ」
「じゃあ質問を変えます。どうして追いかけてきたんですか」
「どうしてだろう?わたしにもわかんないや」

 途端に竜持くんの顔が曇る。苦虫を噛み潰したような表情に思わず戸惑ってしまうがそれは本の一瞬のことに過ぎなくて「それがあなたの答えですか」と再度別の質問を問われた際、先ほどおなかの奥の方に落ちていったものの半分が次第に湧きあがり頭に到達して気泡が割れるようにパチンと破裂したような錯覚に陥った。

「竜持くんの悲しむ顔は見たくない、今は、それじゃだめかな」

 竜持くんはベンチから立ち上がるとわたしの長いこと夜風にあたっていたせいですっかり冷えきっている指先をそっと掬うように握るとこつんとおでこをくっつけてきた。竜持くんの方が本の少しだけ身長が高いから至近距離に立たれると必然的に見降ろされる体勢になる。だけどちっとも苦にはならなかった。切り揃えられた前髪が擦れてくすぐったい。

「帰りましょうか」
「えっ‥‥あ、うん」
「なんですか、その顔」
「へ?」
「送ってきますよ。もう遅いですし」
「い、いいよ‥‥‥悪いし」
「用事があると言ったにも関わらずこちらの都合も考えないで勝手に追いかけてきたのはそっちですよね?なら僕も勝手に送らせてもらうだけですから」

 言われてギクリと肩が強張る。それと同時にくっついていた額が離れることとなった。名残惜しむ暇もなく、すぐ目の前には竜持くんの整った顔。離れた拍子に直視してしまって弾かれたように目を逸らす。そんなわたしのようすを竜持くんは「かわいいですね」と言って笑った。そう言う竜持くんはちっともかわいくない。
 それにしても口が達者というか屁理屈が尽きないというか、こういうところが竜持くんを年下だと思わせない理由のひとつなんだと思う。言ったらその倍以上で返してくる、それが竜持くんだ。

「それにしても知らなかったな、あなたがそんなに僕のことを好きだったなんて」
「‥‥‥それはそっちでしょ」

 どちらからでもなくお互いの手を繋いで歩き出す。緊張していたから気づかなかったけれど竜持くんの手もすっかり冷えきってしまっている。
 きっと屁理屈上等な竜持くんのことだから凰壮くんと同様にわたしを貶すという恒例の挨拶を忘れないでいるかと思いきや、

「そうですね」

 あまりにもやさしい響きに度肝を抜かれることとなってしまった。ずっこけそうになる。表には出さないけれど。しかも計らったかのようにほくそ笑むのではなく、つづく言葉はこちらが真っ赤になってしまうようなもので。

「好きなんです、どうしようもなく」
「うん」
「好きです」
「う、ん」

 あなたが好きなんです、最後にもう一度だけ竜持くんはそう言うとぎゅっと手を握り締めた。ふたりの隙間が次第に消えてゆき、竜持くんの鼓動がわたしのからだに伝わった瞬間、気泡となって破裂しなかったものの残り、心の奥底で雁字搦めになってしまっていたものが表面からとろとろと溶けだしていったのがわかった。

「帰ろう」

 今度はわたしの番だった。